「TAE(辺縁で考える)」への序文
「TAE(辺縁で考える)」(ドイツ語ではWo Noch Worte Fehlen「未だ言葉に成らざる所」)は私がシカゴ大学で長年教えてきた「理論構築」のコースに端を発している。受講生はさまざまな分野の学生だった。このコースは哲学と論理学の講義が半分を占めるが、厄介なのは残りの半分だ。学生は、何となく分かってはいるが、未だ言葉にしたことがない、あるいは言葉にしようと思ったことさえない事柄に注意を向けなければならない。一般に通用する基準は私のクラスでは逆になることを説明するのに何週間も必要だった。なにしろ大学の他の場所ではどこでもはっきりした事にだけ信頼が置かれるのに対し、ここでは未だはっきりしていない事だけが大切にされるのだから厄介なのだ。もし何かはっきりした事柄が浮かんでくると、それに対し私はこう告げる。「おまえはここでは用無しだ。図書館に行けばいつでも会えるからね。」「フォーカシング」のプロセスにあまり慣れていなかった学生達は直に身体で感じるが、はっきりとはしていない観察や印象と共に時間を過ごすように奨励された。一定の教育を受けた人なら誰しも、自分の専門分野でこうした経験を「知って」いる。こうした事の中には時にはとても大切に感じられる事も在るが、人はこんな事は「意味がない」と思い、それ以上語ったり考えたりはできないと思い込んでしまうのだ。
「ああ、そうか」私が求めていた事を理解したある学生が叫んだ。「あなたがおっしゃっているのは『あー』とか『うー』としか言えない事なんですね?」まさにその通りだった!別の学生がこう尋ねた。「それって、あの何だかムズムズする感じの事ですか?」
漠然としていてただ感じられるだけの事から考え始めるなんて、とても変な企てなのは百も承知だ。理性的な人、特に哲学者ならすぐさま首を傾げてこういうだろう。「そんな感覚なんて、一種の混乱に過ぎないのではないのか?万一それに何か価値があるとしても(たとえば自分の専門分野で何か大切なものをからだで直観する場合のように)、そこからどうやって語ったり考えたり出来ると言うのか?また時にそれが可能だとしても、それが勝手にこちらが読み込んだのではなくて、そこから語ったと人はどうやって分かると言うのか?そのようなはっきりしないものから語った事は何でも信用しろと言うのか?あるいはあれこれ語られた事の中に『より好ましい』ものと『そうでない』ものとがあると言うのか?」
これらの疑問に単純な答えを出すことはできない。あらゆる角度から隈なく考えねばならないし、私がこれまで詳しく書き記してきたような哲学的戦略も必要となるだろう。この複雑な内的感覚から、際だった特徴をもつ陳述が次々と生じることもある。その陳述がまた当の感覚に影響を与える。陳述と感覚との関係は、同一でも表象でも記述でもない。陳述と暗在的な複雑な感覚との明らかな違いを扱うもっとはるかにはっきりした方法が有るのである。
ここで一つ例を挙げてみたい。あなたが小さな飛行機でどこか別の町に飛び立とうとしていると想像してみよう。あなたの乗る飛行機の熟練パイロットが「うまく説明できないんだけど...、天候予報では快晴なんだが、この空模様を見ると何だかイヤな感じがするんだ...」と言ったとしよう。この場合、あなたははっきりしないからと言ってパイロットにそんなものは無視しろとは言わないだろう。もちろんこの例には手心が加えてある。つまり熟練パイロットが言うこの不確かさの中には、明確な知識が全て含まれている。だから、このはっきりしない事は何かそれ以上のものなのだ。この「感じ」が実際にその天候によるものである必要はない。その可能性も在るというだけで十分だ。家にいて何事もなければいいのだから。もし実際後で危険な程に天候が悪化したら、世間はこぞってパイロットに、そのはっきりしない感じの中に何を捉えたのかを説明するよう求めるにちがいない。そしてこのような事はどんな専門分野でも、経験を積んだ人には起こり得る事である。しかしこうした「感じ」はいつも言葉を越えているように思われるのである。
我々は皆、古典的な西洋の思考様式(パターン)を吹き込まれている。それによれば、実在する物は全て空間と時間を満たしていると見なされ、それと違った考え方をすることは殆ど出来ない。またいわゆる「考える」ことが出来るためには、すでに‐切り離された構成単位(ユニット)が必要であり、それらは全く同一物であるかあるいは全く別物であるかのどちらかでなければならない。それらは隣り合わせにはなれても、もっと複雑な思考様式を持つことはおろか、互いに浸透し合うこともできない。たとえば、もし二つのものがある複雑な仕方で二でもありかつ一でもあるように思えたら、そうした思考様式を検討してみようともせずに、我々の思考は往々にしてその場で停止してしまう。そうした事の意味をまるで私的な困った問題であるかのように我々は見なしてしまう。「よく分からない」のだから、どこか自分が間違っているに違いない、と見なすのである。それにもかかわらず我々は我々の分野における通念とは異なるこの「感じ」を頑なに持ち続ける。ということはつまり、従来の典型的なモデルに当てはまらない事こそ、おそらく真の観察なのだ。
典型的なモデル(原型)は私たちの言語に内在しており、新しい洞察が意味をなさないように思われるのはこのモデルのせいである。講義ではハイデッガー、マッキオン、それに私自身の哲学を用いて、全体モデルと機能的プロセスモデルを提示した。しかしこの方法では、典型的なモデルをうち破るだけの力を持つには至らなかった。哲学者なら知っての通り、たんにそれが古いと認めるだけでは、そうした古いモデルに陥ることを防ぐことはできない。多くの哲学者は現在我々の言語に内在している仮説が変化するには更に300年はかかると言う。哲学者にとって、広く浸透した仮説を越えて人々が考えることができるとは思われないのである。
他方ヴィトゲンシュタインは、言語がそれに内在する概念的な様式(パターン)をはるかに越え出る事を示した。彼が説得力を持って示したのは、言葉はいかなる概念、既存の規則あるいは言語理論をもはるかに越えて語り得るということであった。 彼は同じ言葉が異なる用いられ方によって獲得する新しい意味の用例を20以上も挙げることが出来たのである。これを基に、我々は新しい言語の使用法を発展させたが、この方法は未だ言葉になっていない事を感じることが出来る人なら、たいていの人に示すことが出来る。この新たな言語の使い方こそ、一見不可能な挑戦への鍵となるものである。
最初に、既製の語や句ではこれまで語れなかった事を語ることは出来ないという事を認めなければならない。そうすれば人はそれを通常の言語に「翻訳」しようとするのを止めることが出来るだろう。そしてその後で、結局多くの語がそれをある仕方で語ることが出来るという事が分かるのである。ある種の文は語を通常の意味を越えて用いることが出来る。その語がフェルトセンスから語れるようにする事が出来るのだ。別の語でもこうしたことは可能だが、その場合当のフェルトセンスから違った何かを引き出すことになる。これを更に進めていけば、ある曖昧な一つの感覚だったものが新しい思考様式を伴った6つか7つの用語を生み出すだろう。この新しい様式化を含んだ幾つもの用語が更に単純で論理的な関係に置かれたとき、非常に多くの新しい文(中には驚くべき、強力な)がそれらの用語から派生して来るだろう。これを広げて行けば一つの理論を構築することが出来るのである。
フェルトセンスと相互に触れ合っていれば、この実践は思われる程恣意的なものではない。しかし「それほど恣意的ではない」ということはフェルトセンスを正しく表象するという事ではない。感じる事と話す事の間には様々な関係が在るのだが、それらは今日まであまり研究されて来なかった。というのは表象関係だけが注目されていたからである。今では、この関係を研究することが可能である。(特にCrossing and Dipping: Some Terms for Approaching the Interface Between Natural Understanding and Logical Formation:「交差と浸透:自然的理解と論理的構成の相互作用に迫るための幾つかの用語」、を参照のこと)
TAEのためには、フォーカシングに馴染んでいることが必要である。それは私のコースで最も難しい部分の習得に有益なのだ。初めてのTAEに参加した人達はフォーカシングの経験を積んだ人達だった。にもかかわらず、私はそれが失敗する事を予期していたし、現に確かに失敗だった。中には論理を使うところまで行けない人もいたし、殆どの人が理論を構築できなかった。しかし参加者はとても満足し、興奮さえしていた。素晴らしいことが起きたように思われた。だから私は困惑せずに済んで嬉しかった。何らかの理由で参加者は騙された、とは感じなかったのである。
後で分かったのだが、その後の一年間、彼等はそれこれまで言葉に出来なかった事から語ることができるようになった、今では始終それについて語っている、と報告してくれた。中には自分達の興奮を説明してくれる人もいた。この人達は自分が考えることができるという事を発見したのだ!
アメリカで4回、ドイツで3回TAEを行った今、私はこれら全ての事が政治的にどれほど深い意味を持っているかを痛感している。人々は、最も知的な人でさえも、自分が考える事が出来ないと信じているのだ!人々は既に社会で言われている事に当てはまる事を見つけ出すように訓練されているのだ。世界との関わりを通して自分の中から湧いてくる事には萎縮し鈍感なままだ。みんな沈黙を強いられているのである!
今や、フォーカシングと共に、TAEも広く人々が実践するべき方法であることに我々は気づいている。全員が理論を作り上げる必要はない。そう、古代においてと同様、今や哲学に実践が伴う時代が来たのだ。哲学から実践が生じるその哲学を全ての人が理解する必要はない。
ここで明確にしておきたいのは、TAEということで、考える事や人間の他の真剣な活動が、一つの固定された方法に関する標準化された幾つかの段階(ステップ)に還元され得ると我々が言っているのではないと言う事だ。ある人が「自分は考えることが出来るのを発見した」と言うとき、それは決してこうした細かな段階を辿ることを意味しない。私自身最初はそうした段階を正確に辿ることは出来なかった。これらの段階を辿る事は、その人自身の思考の源泉を見いだすために「公共言語の壁」と私が呼ぶものを打ち破る助けになる。その後では、誰もこの段階(ステップ)を必要としない。正確なステップは正確に教えるためのものであり、それによって新しいものを示し、見いだすことが可能になる。その後それは直ぐ全く多様な展開になるのである。
TAEのステップ4と5は、言語の性質に内在している論理−以上の創造性を明らかにしてくれるのであるが、この創造性は未だ殆ど周知されていない。言語は袋小路ではない。様々な哲学者たちが、生きているものは語られることによって限定され生命を失う、という見方をしているようだ。もしありふれた語句しか使わないならばこの見方は正しいだろう。だが、新鮮な語句を使う場合、それは全くの誤りである。言語は人間の体験過程の中に常に暗在的に存在している。新鮮な言葉で語ることは、人が暗在的に経験した事や言いたかった事を決して減らし、制限するのではなくて、人が感じ表現したかった事を実際更に展開することである。そして、語られた事を書き止め、読み返すことは、更なる生の更に多くの歩みを生み出すのである。人が自らの状況の中で身体的に感じる事は、固定され予め決められた実体ではなく、更なる含意(関連)を持つことであり、この含意は人がそれまで言って来た事に対応して広がり、展開するのである。語られた事は、既に語られた事に「帰着する(陥る)」のではなくて、我々の様々な生き方を更に開くのである。(『ポストモダニズムを越える言語』の中の「哲学はどのように体験に語りかけられないか。またいかにすれば語りかけられるのか」と「ニコルソンへの私の返答」を参照せよ)
現代の哲学者の中には、文化や集団や相互作用に由来しない事を個人が考えることが出来る可能性を完全に否定する人達がいる。今日この見方が正当化されているのは、個人を普遍性の源泉と見なした以前の哲学への反作用としてである。だが、どちらも一種の単純化なのである。文化は白紙に書き込まれたものではない。文化と個人はもっと複雑な一つの塊り(クラスター)を構成している。
最初から、私のクラスの学生達にはその週の間互いに「リスニング・パートナー」として会ってもらった。二時間を交代で、ひたすら相手の言うことに耳を傾けるのだ。「ただ耳を傾けなさい。相手の言うことが分からない時だけ口を挟みます」とやり方を教えた。「もし相手が論文に取り組んでいても、自分ならどう書くかを教えてはだめだよ」と言うと、いつも皆笑った。論文が書けなくて行き詰まっているとき、我々が自分で考え抜くことが出来るように、我々とずっと一緒にいたいと思う人はいないだろう。しかし、フォーカシングのパートナーシップではまさにそれをやるのだ。一度に一人の人にだけじっくりと注意を向ける。学生達がこの授業を賞賛する一番の理由にいつも挙げるのが、この互いに支え合う行動様式だった。
TAEおよび概念と理論の構築には、社会的な目的が在る。我々は人間間−世界を更に築いていく。我々の個人としての成長のみが我々が生きざるを得ない生の様式を変えることが出来る、というのは間違いだ。我々は新しい社会の様式、新しい思考と科学の様式を築き上げる必要があるのだ。これは、一人では誰も産み出すことの出来ない、相互作用的産物であろう。他方、もしこれをただ対話の中でのみ行おうとすれば、我々は個人を通してのみ現れるものを失ってしまい、既に‐共有されている様式に舞い戻ってしまうだろう。あなたの角度から世界を生きている人はあなた以外には他に誰もいないのだ。あなたが感じる「それ以上のもの」をそのまま感じられる有機体は他にいないのだ。TAEでは最初の3日間、まだはっきりしていない感覚を「守る」よう常に警告される。誰かが「私もあなたと同じように」とか「あなたのおっしゃる事を聞いて思ったたんだけど...」とか、あるいは「私達は...」で始まる言葉を口にすると、遮られる。私とあなたは全く同じ言葉を口にしたかもしれないが、あなたの側に暗在する複雑さは私の暗在的複雑さとは全く別物なのだ。この二つの複雑さは、もし私とあなたがそれを一緒に分節化してみるとその共通の言葉から浮かんで来るであろうものよりも、はるかに重要な意味を持っている。私とあなたがあまりに性急にやり取りを行うと、とても曖昧で入り込みにくいものの分節化を損ねてしまうのだ。私達は元来相互に関わり合う生き物であるから、自分に耳を傾けてくれる相手に話しかけていると、暗在的複雑さがより深く開かれる。だがもし相手が何かを付け加えたら、我々の内なる感覚との触れ合いは失われたり狭められたりする。TAEでは、「フォーカシングパートナーシップ」と呼ぶ関係の中で互いに交代することによって、押しつけのない必要な相互作用を提供する。時間の半分は、私はあなたに応答するだけ。あなたの言うことを書き止め、もしあなたが望むならそれを読み返す。次の半分の時間ではあなたが私のためにこれだけをする。
何かについての個人の感覚が言葉にされ十分に明確になると、次に生じるのは「交差」と呼ぶ現象である。他の人の洞察が我々自身の特別な用語に暗在するようになり、我々の洞察を豊かにする。もし自分自身の特別な用語を持ちそれを保つなら、他の人の用語とそれらを交差させることが出来る。自分自身の特別な用語を保つことは、その用語の複雑な精確さを保つことだ。交差によって、その用語の暗在的な複雑さと力が豊かになる。その時点で協働的相互作用は今まさにこの部屋で一つの新しい社会的産物を産み出すことが出来るのだ。もちろんこれは、「対話」とか「協働行為」を強調する現代思想の意図に沿うものであるが、もし我々が最初に個人の感覚を明確にしておけば、我々は個人を失わずに済むのである。
多くの理論が交差するとき、それらが一貫した一つの論理体系を構成する必要はない。交差は、他の理論を論理的に関連する我々の用語の基に在る当のフェルトセンスの中に暗在させる。そのフェルトセンスを通して我々は別の理論に到達し、それからそれらの用語を使用することが出来る。この暗在的複雑さを、都市と都市あるいは都市の中の幹線道路や脇道を結ぶ高速道路に喩えてもいいかもしれない。それぞれの理論は公共世界に、哲学や科学に、一つの場所を開く。理論はまた、その場所に暗在的複雑さが見いだされることを可能にする。一つのTAE理論が他の多くの場所にもつながっているのは、当のフェルトセンスを通してだけでなく、他の物事への論理的な結びつきを通してでもある。
論理分析は分析哲学の中でさえも今日広く拒絶されている。しかしそれを捨て去るのは大きな過ちだ。論理分析がそれ自体検証不可能な前提に基づいているというのは正しい。論理はそれ自身の出発点を決定するためには無力である。だがTAEが示すように、初めフォーカシングによって到達する事が出来る重要な結節点から強力な論理的推論が開始され得るのである。論理的な分析に明確な出発点を与える事が出来れば、論理的分析の可能性は大いに高められる。
TAEにおいては、純粋に論理的な推論は保持されるが、フェルトセンスを分節化する際のある奇妙な「論理」もまたある。たとえば、通常はより広いカテゴリーの下に包摂されるであろうある細部が、むしろそうしたカテゴリー間を架橋し、細部のもっと複雑な様式化をそれらのカテゴリーの中に作ることがある。奇妙な「論理」の例をもう一つ挙げると、より多くの要求が課されても、その分自由度が少なくなることはない、という事が在る。むしろ要求が多くなればなるほど、より多くの可能性が開かれるのである。体験過程の展開には、ある奇妙な「論理」が在るのだ。(『体験過程と意味の創造』の第四章を参照せよ)
我々の用語がフェルトセンスを分節化し、論理的なつながりも持つようになると、この二重性によって私達はどのような叙述からも二つの方向を通って進むことが出来る。論理はこれ以外の方法では見いだせないであろう強力な推論を産み出す。そして暗在的関連付けを遂行することによって、論理が決して導き出せないであろう場所に到達する事が出来るのである。その際、叙述が多くの点で誤っている可能性はあるが、一つのTAE理論が分節しようとしている当のフェルトセンスは、それが既に起こったものである以上、少なくとも何らかの存在可能性を持つものなのである。
我々は実際にフォーカシングをする事が出来るのだから、それについてどのように考えようとも、我々がフォーカシングの中で行っていることは現実に可能な事なのである。フォーカシングが可能である世界について考えるためには、身体を、言語と状況をも包含する単一のプロセスに属するものとして考える必要が有る。(「Thinking Beyond Patterns; Body, Language, and Situationパターンを越える思考:身体、言語、状況」を参照せよ)我々は物理学と生物学のために新しい諸概念を既に発展させてきた。これらの諸概念は通常の概念やデータに連結出来る(出来なければならない)が、しかし生と象徴化とをモデルにしているのである。このような諸概念によって、ある物体かつ生体がいかにして人間の身体で有り得るかを考えることが出来るのである。(『プロセスモデル』)
(翻訳:村里忠之、村川春彦)