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人格変化の一理論

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A Theory of Personality Change. In Philip Worchel and Donn Byrne(Eds.), Personality Change. New York :John Wiley,1964. pp.100-148.

Translated by T. Murase(1966), Zinkaku henka no ichi riron. In Taiken-Katei to Shinri-Ryouho (Experiencing and Psychotherapy) Chapter 1 Section 3. (p39-157) Tokyo: Maki Shoten.

 この章を書く過程において, Malcom A. Brownとの討議が私の考えを進め, 明らかにするのに多大の助けとなったことについて氏に感謝すると共に,Sidney M. Jourard博士,Marilyn Geist, William Wharton博士, Joe T. Hart,David Le Roy, Ruth Nielsenの皆様から寄せられた貴重なお考えと編集上の援助に対して感謝の意を表します。

 本論では最初に二つの主要な問題と二つの観察事実が述べられ,ついで人格変化の一理論が提示されるであろう。この理論はジェンドリンらにより「体験過程」について継続して行なわれている一連の仕事の新段階を成すものである。(Gendlin 1957,1962b; Gendlin and Zimring.1955)体験過程の理論は種々の理論的考察を今までとは異なった新しい形で見直す一つの枠組をわれわれに与えるものである。

 一つの理論は,観察事実を特に分化させるのに役立つような定義された言葉,術語を必要とし,かつ一連の理論仮説の公式化(a formulation)を必要とする。ここに述べられる理論はこうした基本構造にしたがって発展してきたものであり,導入され定義される新しい術語に対しては特別の注意を払っていただきたい。これらの術語は一つ一つそれとわかるように書き出して番号をつけておこう。(真の理論は注意深く定義された術語によってのみ可能となる。そして定義された術語を用いることによってのみ,われわれは後になって理論を修正,改善,拡張しうるのである。)

問題と観察事実

 大部分の理論においては,人格の静的な内容―構造の側面がその本質をなしている。このために人格の変化ということは理論上とくに困難な問題とされてきた。これに反してここで提出しようとする理論的枠組は変化ということを説明するのに特別適しているのである。というのはそれは,体験の過程(experiencing process)及び人格の過程局面(アスペクト)と内容局面との関連性に対して適用される諸概念を用いているからである。

人格理論と人格変化

 今までの人格諸理論が主として関心を向けていたのは,異なった個々の人格の現在の姿を決定している因子,それらの人格を説明する諸因子であり,かつある所与の人格をもたらすに至った諸因子であった。いわゆる人格は環境の如何にかかわらずその性質を保持する。ある個人のもつ諸面がもしも彼の現在の状況によって説明されるならば,我々はそれらの面に関して別に頭を悩ますことはないのである。またある個人が圧倒的な悪条件の下におかれて,あらゆる種類の望ましからざる行動を示したとしても,あるいは逆に,およそどんな人であっても,たいていは人好きのする安定した人間になってしまうような事象に影響されて,その人が好ましい人間,気持ちが安定した人間になったとしても,我々はそのことを彼の人格(パースナリティ)のせいにすることすら考え及ばないであろう。これとは逆に,我々は普通ある個人が圧倒的な悪条件の下でも相変わらず好ましい人間で気持ちが安定していたり,ある個人が外見上は機会と幸運にめぐまれても相変わらずくよくよ心配事をやめずに苦しんでいるときに,これを人格のせいにするのである。このことからいえることは,我々の現在の諸理論は人格変化を説明するどころか,変化が期待されるときにも変化しない傾向として人格を説明し定義づけようと努めてきた,ということである。

 人格を変化に抵抗する諸因子とする見方は,ある程度までは当を得ている。我々は普通,一人の人間を自己同一性(アイデンティティ)と時間的連続性を持ったものとして考える。しかしながら,人格諸理論における内容とか型(パターンズ)は,その定義上,変化を表わすことができないようなタイプの説明概念なのである。(諸理論において)人格構造は,それに変更を加えるかもしれないようなすべての新しい経験に対抗して,自己を維持するという点に関して公式化されている。個人は定義された諸内容をもつ構造化された一つの実体とみなされる。これらの説明概念によって説明されるのは,単にある個人がなにゆえに変化できないかということに止まる。
このように,今までの人格理論は,ある個人がなにゆえに現在のような姿をとっているのか,彼がどのようにしてそうなったか,またそれらの諸条件がどのように働くことによって,環境や偶然や機縁の如何にかかわらず,彼が現在の状態を維持しているかといったことを説明するような諸因子に,もっぱら注意を払ってきた。内容と構造についてのかかる説明概念によって我々が知りうるのは,経験によっても個人が変わらないようにせしめているものは何か,どういう因子が彼に強く働くことによって,彼を変化させたかもしれないすべてを彼が(定義上)永久に見落としたりゆがめたりするに至るかということである。ただし(よくいわれているように),彼の人格が初めに(何となく)変化する場合は別である。

 さて,構造や内容がまさしく自らを維持し,現在の経験をゆがめる傾向をもつことは事実である。そこで人格変化を説明するためには,普通これらの変化に抵抗する(change-resistant)と考えられている諸因子がどのようにして変化をもたらすことができるかを,われわれが適確に示すことがどうしても必要となる。(注.以下の〔 〕内は原典からは省かれた草稿の部分である。) 〔このことを考えていくには,二重の課題を解かなければならない。第一にわれわれは人格変化の過程が現実にどのようにして生ずるかを公式化しなければならない。次にわれわれは,われわれの定義づくり(人格における構造と内容の定義づけ)の方法すべてをやりなおして,これらの新しい定義により人格変化ということが理論上不可能ではないということを自ら示さなければならない〕

 過去の理論は人格変化の不可能性を描き出すつもりはなかった,むしろ反対に,それらの理論は変化が実際に生ずると主張している。主要な人格理論はいずれも心理治療から,つまり(心理治療がうまくいったときに起こる)進展的(on-going)人格変化から生まれ出てきたものである。

 〔では進展的変化の観察からどのようにして,変化ということが不可能に思われるような理論を導き出すことができたのであろうか?

 ある個人が心理治療を受けにくるとき,普通その人は既にそれに先立って,自分が自らの生活状況,生活環境,家人,機縁を通じてそれまでに望み,期待してきたようには,「変化」していなかったことに気づいていたのである。彼は,今や,自分の何が悪いのか,自分や友人の大変な努力にもかかわらず思うようにいかないのはなぜかを知りたいと望んでいるのである。手短にいえば,彼が変化することを妨げているのは何か?ということである。それ故,心理治療者はまさに,この疑問がさし示す方向に向かって進むのである。〕

 全く逆説的なことだが,人格変化が心理治療者達の目前で,彼らの参加によって起こったときに初めて,治療者は今までどういう点が悪かったのかを組織立てて述べている自分に気づくのである。患者個人でさえも,自分のさまざまの感情に分け人って探し求め,それらを表明するときには,あたかも自分の全努力は,何が悪かったか―つまり彼の人格の中で,普通の順応や変化ができないようにさせているのはどういう側面であったか―を明らかにすることに向けられていたかのごとくに語るのである。またこれに次いで彼が語っているように,彼にとって長いことずっと真実ではあったが,気づいていなかったことについて,こうした人がいろいろと気づくようになるのが常である。

 このように我々は心理治療を通して,個人がこれらの手に負えない頑固な内容,およびその内容に以前は気づくことができなかったということを,「あらわにし」(uncovering)あるいは,それらに「気づくようになる」(becoming aware)という事実を規則的に観察することができるのである。今までさまざまの人格理論が,これらの内容および自己継持的,検閲的構造をあまりに巧妙に公式化してきたので,我々には個人が何によって現在の彼になったかを説明する概念は持っていても,どのように彼が変化するのかについて組織立てて述べることができないでいるのである。しかしながらその個人の方はいつの時でも,我々が静止的説明的な内容(注1)によって公式化しているこれらの「あらわにされた」諸因子そのものを,変化させ続けてきているのである。

 ここで,現代の人格理論(formulation of personality)において変化ということを理論的に不可能と思わしめているニつの主要な方向を,より詳細にわたって示そう。私はこれら二つの不可能性を「抑圧モデル」"the repression paradigm"および「内容モデル」(注2)‘content paradigm’と呼ぶことにする。

 ところでこれらの理論においては反面,変化ということがまさしく生ずるとの主張も行なわれているので,私は二番目に,それらの理論で変化ということを説明しようとする際に,上述のニつの主要な方向がどのような形をとるかについて取り上げてみたい。私が示そうと思うのは,諸理論が通常ニつの観察事実,すなわち感情過程(a feeling process)とある個人的な近しい関係(a certain personal relationship)(注3)を引用しているということである。

二つの問題

「抑圧モデル」"The Repression Paradigm"

 大部分の人格理論は(異なった用語を用い,意味も何となく同じではないにしても)私が「抑圧モデル」と呼んでいる考えを共有している。それらの理論が一致して認めるのは,個人はその発達初期の家族関係の中において,一定の仕方でものを感じ行動した場合にのみ愛されるという諸経験を通じて一定の価値をとり入れるということである。彼に向けられたこれらの要請と矛盾した諸経験は「抑圧」され(フロイト),あるいは「覚知化を否認され」("denied to awareness")(ロジャーズ),あるいは「私でないもの」("not me")(サリヴァン)に至る。後になって,個人がこの種の矛盾した経験に出合うとき,彼はそれらをゆがめざるを得ないかあるいは全面的にそれらに気づかないままでいなければならない。というのは,もしも彼が矛盾した諸経験に気づいた場合には耐え難い程不安になると考えられるからである。自我(ego)(フロイト),あるいは自己概念(self-concept)(ロジャーズ),あるいは自己態勢(self-dynamism)(サリヴァン)はこのように基本的に覚知(awareness)と知覚に影響を及ぼしているのである。この影響をフロイトは「抵抗」と名づけ,ロジャーズは「防衛性」,サリヴァンは「安全化操作」と名づけた。極めて多くの行動をこれによって説明することができる。人格が現在の姿をとり,かつそのままに止まっているのは,これらの諸経験をその人格が考慮に入れることができないからである。あるいは例えば,抑圧が何らかの形で無理やりに除かれて,個人がこれらの経験に気づくに至ったとき,自我は「統制を失い」,自己は「統合を失い」,耐え難い「不気味な情動」・("uncanny emotions")が生ずるであろう。精神病者とはかかる経験に気づいており,かつ自我あるいは自己態勢が過去においても現在においてもすっかり損なわれてしまっている(break down)人であるといわれている。

 もしも個人にとって単に想起すること,あるいは「抑圧された」要因に対して注意を換起せしめることだけが必要とされるならば,その人の事はたやすく解決するだろう。いつの世でも,このことをやって見ようとする援助心のある人々や逆に怒りに燃えた人々がいる。また多くの無神経な,配慮を欠いた状況下で人々はこれらの要因に注意を払うことを余儀なくされる。しかしながら個人は彼の内部にある所与の要因のみならず,これらの要因に関係をもち,それらを想い出させるような(注4),彼の外部のものをも,抑圧しているのである。

 彼はこれらの要因を彼に覚知させるような局面をもつ事象や人々に対してはそれらの局面に注意を払わないように,誤解したり,あるいは解釈しなおしたりする。

 このように個々の人格構造は自らを保持するのであり,変化は理論的に不可能なのである。個人を必要な箇所に関して変化させようとするものは,何であれ,それがその人の抑圧を除き,その人を変えてしまう可能性に応じ,かつその可能性のある点に関し,ゆがめられ,注意を払われないのである。

 さてこの説明(それは私が上述したごとく,何らかの形で今日の主要人格諸理論が共通にとっているところなのだが(注5))の基礎にあるものは個人が心理治療の間に,それまで長いこと感じてはいたが,そのように過去において感じていたことをずっと知らずにきたことに改めて気づく際の顕著な体験のもち方なのである。さらに,その人は,以前に気づかれなかったこれらの諸経験がいかに強力に彼の感情や行動に影響を及ぼしていたかを認知するのである。そこで多くの人達は今やそれが確かな(valid)観察であることに,もはやあまり疑いはないと報告している。そこで,いかにしてそれを理論的に公式化しうるかが問題として提起されるわけである。

 一たん我々が抑圧モデルという線に沿って理論を組立ててしまうと,気軽に向きを変えて人格変化ということを,以前には抑圧していたことに「気づくようになること」として「説明する」ことができなくなるのである。これらの経験に気づくようになる何らかの傾向がどのようにして歪められるらしいか,という点を我々がいったん示してしまうと,我々はもはや,人格変化ということは(定義上不可能であると想像されるところの)一つの覚知イヒであるとだけ主張することをもって説明であるとは見なせなくなるのである。変化は(確かに)起こる。しかし,ただそういうだけでは説明にはならない。それは単に問題をのべたに過ぎない。我々は,「抑圧モデル」を,人格変化についての一つの基本的な様相とみなすことができよう。このことこそ,まさしく本論文が取り組もうとしている二つの根本的因子の一つなのである。人格変化を説明するために,我々は,この決定的な「覚知化」がいかにして現実に起こるかを脱明せねばならないであろうし,さらに我々は今までの抑圧および無意識の理論に立戻って,これを作りなおさなければならないであろう。

「内容モデル」"The Content Paradigm"

 人格変化についての第二の根本的な様相,(それは同時に現在行なわれている公式化の諸様式が理論上,変化ということを不可能たらしめているいくつかのやり方の中で,二番目のものであるが)それは人格が様々の「内容」("contents")から成っているという見解に関連している。「内容」という言葉で私が意味しているのは,定義された実体(any defined entities)ということであって,(現実には)どういう名称で呼ばれている概念であってもかまわない。例えば,「体験」「因子」「S−R結合」("S-R bonds")「要求」「動因」「動機」「評価」("appraisals")「特性」「自己概念」「不安」「動機づけの体系」「乳児期固着」("infantile fixations")「発達の失敗」(注6)など,お望みならもっと様々のものをあげることができる。

 もしも我々が人格変化を理解しなければならないならば,我々は,これらの人格構成体(constituents)がどのようにして,その性質を変えうるかについて理解しなければならない。

 内容の性質(nature)がこのように変わることを説明するためには,これまた,変化しうるところの一つのタイプの定義(説明的構成概念)を必要とする。もしも我々の理論が人格というものを単に内容として定義するならば,この内容が変化することを我々は証明できない。このような理論は,何が変えられなければならないか,その後になって何が変化したか,そして何に変化したか,を公式化することはできる。しかし我々が説明に際して,いつも,あれやこれやの定義された内容という概念を用いている限り,上記の変化というものがどのようにして可能であるかという問いに対する理論的な説明は,何時になっても与えられないであろう。
 我々が求めているのは,内容上の変化が如何にして,どのような条件の下に,どういう過程をつうじて生起しうるかという説明を組織的に記述するための,ある種のより基本的な人格変数なのである。

 例えば,化学が元素をより基本的な,エレクトロンやプロトンの活動によって定義し,それによって我々は元素が化学変化反応に参加する原子以下の過程(subatomic processes)や,この過程を通して元素に対して原子以下の分子をぶつけることができ,それが別の元素に転換することを説明することができるのである。

 元素というものをより基本的な何かの動き(motions)とみなしているところのこれらの概念なしには,我々が観察している化学変化や原子の変化を説明することはできないし,またそれがどのような条件の下に生ずるかを操作的に研究したり,定義したりもできないのである。我々にいえることはただ,ある時点t1おいて試験管の中には,ある内容A,Bがあったのが,t2ではその内容がC,Dであったということに過ぎない。A,B,C,Dがそれぞれ自らは究極の説明概念でない場合にのみ,我々は一方から他方への変化の説明を期待できる。そしてこのことは人格変化に対しても同様である。もしも我々の究極の説明構成概念が,「内容」であるならば,我々は,まさにこれらの内容が変化することを説明することはできない。

 我々はここで人格の定義された内容が存在しないというふうに簡単に結論を下しているわけではない。我々がいいたいのは,もしも人格を内容として定義するだけで,それ以上,より基本的な形での定義を行なわないならば,まさにこれらの内容がどのようにして変化するのかを説明するために,同じ概念を用いるのは無理だということである。そして人格(および重要な人格変化が当然生ずるに違いないと思われる部位 respects)を定義づけているものが,今まではまさにこれらの内容であったと考えられるから,人格理論によって変化を説明しようとするときに我々はまさしくこの理論的に不可能な課題に向きあうことになるのである。

 たとえば,心理治療をうけている間に患者は,これらの本質的な内容(それらは心理治療者が用いる特定理論の語いが何であろうと,それぞれの語いにおいて概念化されるであろうが)を最終的に悟る(realize)に至る。彼は今や自分がそれまでは「敵意」に満ちていたこと,あるいは自分が「かたよった,固着的な性の欲望」から感じたり,行動したりしていたこと,あるいはまた自分が「父親を憎悪している」こと,自分が「受身的依存的」であること,あるいはかつて「子供として愛されたことが全くなかった」ことなどを悟るのである。「今はどうか?」("Now what?")彼は尋ねる。こうした上記の内容はどのようにして変えられるのか?いかなる方法も与えられていない。これらの内容が実際に,まさに変化するということは我々にとって幸運である。諸理論は,これらの「体験」とか「要求」とか「欠乏」といった定義された内容を用いて人格を説明している。諸理論はこれらの内容がどのようにして,溶解し,かつある異なった性質のものになるべく(それまでの)自らの性質を消失するかを説明することができない。だが,内容がいわば溶解し,もとの性質を失うという事実は存在するのである。

 そこで人格変化についての我々のもつ第二の基本的問題は,この「内容モデル」である。それは次のような質問であらわされる。「われわれが,人格内容の変化過程に適合するような定義づけの手段にたどりつくためには人格の諸定義の本質はどんなふうにして変わらなければならないか?」これに答えるには,定義づけられた内容よりもより基本的,あるいはより究極的な何かを記述することになろう。

 そこで,われわれは定義された内容がどのようにしてこのより究極的な人格過程の中に生じてくるかを考察する事になるだろう。

人格変化についての二つの普遍的な観察事実

 さて今迄のところで私は人格変化についての二つの基本的な問題(すなわち,気づくようになること,及び内容上の変化)について述べてきたので,次に人格変化についての二つの基本的な観察事実(注7)に移りたいと思う。

 前記の理論的不可能性とは対照的に,大部分の人格理論の主張するところによれば,人格変化に伴って,殆ど必ず次の二つの事実を観察することができるとされている。それらは,

 1.重要な人格変化に伴って個人内にはある種の強力な情緒的(affective),あるいは感情(feeling)の過程を生ずる。

 2.重要な人格変化は殆ど常に,ある進展しつつある直接の人間的な関係(an ongoing personal relationship)という脈絡において生起する.

感情過程(The Feeling Process)

 重要な人格変化が起こる場合には,強力な,情動的な,内的に感じられた事象(inwardly felt events)が起こるのを常とする。人格変化についてのこの情緒的な次元に対して,私は「感情過程」という名称を与えたい。この場合「情緒的」("affective")という語よりも「感情」("feeling")という語を私が選んだのは,「感情」は個人によって具体的に感じとられる何かを指しているからに他ならない。人格変化に際して,個人は何かが自己の内部で再び働き出していること(an inward reworking)を直接,感ずる。彼自身のもっている諸概念や構成体(constructs)は部分的にその構造を解体され,かつ彼が感じている体験過程は彼の知的把握を往々にして越えているのである。

 重要な人格変化にとって,単に知的乃至は行為的(actional)な働きのみならず,この感じられた過程が必要とされることは今までも様々な脈絡において気づかれていたことである。たとえば様々の心理治療者は(どんな立場をとろうと),ある特定の症例において,この感情過程の存在あるいは不在についてしばしば論じている。彼らは個人が,ある所与の心理治療の時間中,「ただ単に」知性化を行なっていたかどうか,あるいは(彼らの表現に従えば)その個人が「真に」("really")心理治療に参加(engage)したかどうか,について論ずる。前者は,彼らの考えでは,時間の浪費あるいは防衛であり,そこからは重要な人格変化という結果は生まれないだろうと彼らは予測する(注8)。これに反して後者は人格変化の見込みがあると考えられている。

 ところでこの差違については普遍的に論じられているとはいうものの,その表現は大概の場合非常に不明確であり,かつ,「単に」("merely")という言葉のあとにくる言葉(たとえば,「単に」知性化している,防衛している,避けている,外在化させている(externalizing),など)や「真に」("really")のあとにくる言葉(「真に」参加して,直面している,対処している)が全く定義を欠いているために,我々はこの差異に対して,丁度「単に」と「真に」の差異に対するのと同じように,ただ両者がこのように違っているとしかいいようがないのである。たとえ十分に述べられていないにせよ,通常「真に」という言葉が指し示すこと,あるいは指し示す意味というのは,何かが「単に」という用語で表現される場合には存在していないところの一つの感情過程なのである。

 「単に」と「真に」の間の似たような差違については教育の方でも語られている。事実の「単なる」機械的学習と,何かを「真に」学習すること(自らのものとする,それを「統合したり」「応用したり」「創造的に明細化したり」できるようになること)との対照についてはいつも大きな関心が払われてきた。「真に」学習する場合には結果として観察可能な行動の諸変化が生ずると予測されるが,これに反して「単なる」機械的学習の結果としては殆ど行動変化を生じない(か,あるいは異なった行動変化が生ずる)という予測が立つのである。学習過程は,この二つの場合において異なっているといわれているが,それは個人の「内的動機づけ」の度合い,その人が「新しい素材を内に取り入れる」方法,「自分の学ぶことに専念する度合い」,彼が諸々の意味を真実に把握するかどうかということによって左右されるものである。これらの暗喩的な表現句が示していることは,学習中においてもやはり「真に」と「単に」との差違によって学習過程の中に個人の感情がある形で参加していることがわかるということに他ならない。

 この観察事実に関して,心理治療から得られたいくつかの側面ではまだとりあげなかったものを示してみよう。
 あるアドラー派の治療者が数年前に私に語ったことがある。「もちろん解釈だけでは不十分だ。もちろん人間は治療者が授けた分別ある名言だけで変化したりするものではない。しかしながら,どんな技術も変化それ自身をもたらしたものが何であるかを表現するものではない。変化ということはある種の情動的消化を通して訪れるものである。だがここで認めなければならないのは,我々のうち何びとといえどもそれが何であるかについてはわかっていないということなのだ。」

 治療者というものは,しばしばこの事実を見逃しているのだ。彼らは個人を助けて,彼のもっている問題点をもっとうまく説明させようと努める……。しかしながら,その個人が今や明らかに説明されるに至った不適応をどのようにして変えていったらよいかと聞かれた場合,非常に明確な答えは何も出てこないのである。何となく,彼の問題を知れば彼は変わるだろうと考えられているようだが,知るということは変化の過程とは違うのである。

 優れた診断家は,多分,二三の心理測定検査を補助的に用いて,ある個人の人格について,非常に正確で詳細な記述と説明を我々に対して行なうことができる場合が多い。こうして検査をうけ,何回かの面接を終わった後で,治療者と来談者の両者は多くの場合,どういう点が具合悪いか,そしてどの点を変える必要があるかについては十分に知るのである。非常にしばしば見られることだが,治療面接開始時に与えられた(もしくは与えられうるはずであった)記述や説明が,2年間面接を続けたあとで回顧したときに始めて全く正しかったと思われることがあるものである。だが人格についての概念的な説明(これはわずか二三時間でできることである)を知ることと,変化することの実際の感情過程(これにはたいてい何年もかかるものだが)との間には,明らかに大きな違いがある。この過程が何であり,どうやってそれを観察し,測定したらよいか,また理論的にいってこの感情過程がどのように働いて人格変化が可能になるか,といったことについては今まで殆ど何もいわれていない。

直接の人間的な関係(The Personal Relationship.)

 たとえ描写や観察可能な形での定義づけや理論的説明は殆どなされていないにしても,人格変化にとって感情過程が本質的に必要だということはいつもいわれてきているが,これとちょうど同じように直接の人間的な関係も,またやはりどことなくはっきりしない形ではあるが,いつも要請されている。

 個人が他者との関係の中で生きることで,かくも大きな,決定的差違が生ずることを理論的に定義づけることができるであろうか?われわれの観察によると,個人がその経験や情動について自分だけで考えていても殆ど変化は起こらないことが多い。またこれらのことがらについてその人が,ある何人かの(注9)他人と話しても、やはり変化は殆ど起こらないことを見てきている。

 しかしながら我々が「治療的」,あるいは「効果的」なパーソナルな関係をもつとき,すべてこれらの強力な因子は溶け散ってしまう。何故か?ある種の関係において,「暗示」あるいは「リビドーの支持」あるいは「承認と強化」あるいは他者の「治療的態度」あるいは「二つの無意識の間にかわされる会話」によって,ある個人のすべての経験や個人的関係をして,彼の現状を維持せしめるようにつくりあげている諸因子が何となく除かれるのだと我々はいう。今や,何となく,彼は以前には気づくことができなかったことについて「気づくようになるのだ」といわれる。彼は暗示によって「影響をうけ」,転移を「克服し」,彼の「リビドーの釣合」は変更を受け,彼は今やどういうわけか,冶療者の「態度を知覚する」のだ。こうした場合,それまでの彼はいつも他の人々の態度を歪めて予期していたのだった。ところで,上に述べたことは実は,人格変化についての問題点というべきであって,決して説明にはなっていないのである。

 しかしながら我々はこれらの変化が殆ど常に,あるパーソナルな関係という脈絡において生ずることを確かに観察している。今までに,人格変化に影響を及ぼすような(そして影響を及ぼさないような)関係についてはいくつかの定義がある。(次章を見よ。Rogers,1957,1959b)しかし,どういう関係事象が如何にして,抑圧をもたらす諸条件や内容の性質と干渉し合ってこれらを変更させるかについては殆ど何もいわれていない。

 今までのところ我々は人格変化についての二つの問題を公式化し,ついで二つの観察された事柄を挙げた。個人における感情過程およびパーソナルな関係がこれである。

 我々の二つの観察事実と二つの問題とは関連がある。ただ我々にいえるのは,個人にとって自分が何を抑圧しなければならないのかに気づくようになり,かつ彼の人格内容を他の内容に変化させるということは理論的には不可能である反面,人がある深く強力な感情過程及びあるパーソナルな関係の脈絡に関与するときには,上に述べた二つのことが共に生ずることを我々は観察しているということにすぎない。我々にとってこの観察された可能性を理論的に説明できることが必要であり,かつ抑圧の理論と人格構成要素の諸定義を再公式化し,観察された諸変化を理論的に公式化できるようにする必要がある。

 

三つの代表的人格理論にみられる「二つの問題」と「二つの観察事実(注10)

フロイトとサリヴァン

 以下において私は二つの人格理論を簡単に検討したい。私が示そうと思うのは,これらの理論において,人格変化について我々が公式化した二つの問題(すなわち,抑圧と内容の変化)が中心的な問題であること,および,これらの理論は,問題の解決にとって何となく本質的に重要なものとしてニつの観察事実(感情過程とパーソナルな関係)を挙げているのみで,問題それ自身は未解答のまま残されているということ,この二つである。

フロイト

 フロイト派の理論は人格についての用語と新しく発見された事実に関しては非常に豊かであるが,人格変化については多くを語っていない。理論がどういっているか引用してみよう。人格変化に関して,この理論は我々が次のセクションで中心的だとしている二つの問題を公式化し,これらを解決しようとする試みでは,人格変化について我々の示した二つの観察事実の方へと直接われわれを導いていく(但しこの事実の中にまでわれわれを導いていくことはめったにないのだが)。

 人格変化についてフロイトが出合った最初の問題は我々が抑圧モデルと名づけたものである。精神分析学の目ざすところは個人をして彼が抑圧してきた決定的経験に気づくようにせしめることである。フロイトは正しい推測や解釈を行なうだけでは不充分なことに気づき,ここに人格変化に関する一つの大きな問題を見出した。というのは個人がもっとも気づく必要のあることはまさしく,彼が,どのような意味ある形においても,彼の聴いた諸解釈からは真に受け入れることができないだろうと思われるようなことでもあるからなのだ。
 フロイトが25年以上に及ぶ長い期間かかって通ってきたいくつかの段階を通じて,情報以上の何ものかが人格変化に含まれていることが明瞭になってきた。

 『25年間にわたる真摯な研究の結果,今日では精神分析技法の当面の目標は出発点におけるものとはすっかり違ったものになっている。当初,分析医は患者の隠れた無意識を推察し,それを再構成し,そして適切な時にそれを患者に告げ知らせることを目指すだけで,それ以外には何も目標としてもつことができなかった。精神分析学は本質的に推察術(divining art)であった。さてこういったやり方では治療という課題は解決されなかったので,すぐに次の目標が提示されることになった。それは構成されたものを患者が自分自身の追想を通して確認するように彼に強く要請することであった。この目標に向かって努力するにあたっては,患者の抵抗ということに最も重点が置かれた。今や,できるだけ早くこれらの諸抵抗を露呈させて患者にそれらを示し,人間的説得(ここでは転移として作用するところの暗示の状況)を通して患者が諸々の抵抗を放棄させるように動かすことが術となったのである。

 しかしながらこれらについで,無意識を意識化するという目標はこの道を通しても十分には達成されないことが全く明白になったのである。患者は抑圧されたものをことごとくは想い出せない。おそらくは本質的なものこそ想い出すことができない。したがって,彼は自分の聴いた構成されたもの(解釈)の正しさについて確信を得られないのである。』
(フロイト,1920,p.16,邦訳p.18)

 これらの観察事実は今までに繰り返し何度も確認されてきたことであり,簡単に片づけることのできないものを含んでいると考えるべきである。しからは,一体人格変化はいかにして可能なのか?人格変化は抑圧されたものの意識化に依存しているわけだが,このことは循環的かつ自己維持的方法(a circular and self-maintaining way)をもってしては不可能のように思われるのである。

 フロイトはこれに対して二つの解答を与えている。彼によると人格変化が可能になるのは結局の所,次の二つの条件がみたされた場合である。「徹底操作」("working through"),及び「転移の克服」を可能ならしめる分析家との直接の人間的な関係がこれである。我々はここに前述の二つの観察事実を認めることができる。

 フロイトが「徹底操作」および「転移の克服」について書いたものを見ていくと,これら二つの条件がどのようにして変化ということに影響を及ぼすかについては何らの理論的叙述もないことに気づくのである。ただ多かれ少なかれ 「何となく」それらのことが影響を及ぼすことが観察されているのである。

 さらにまた,フロイトからの以下の引用において,抑圧が除かれる(lift)だけではなく,本能の内容それ自身も変化しなければならないと述べられていることに注意していただきたい。フロイトは我々の提起した二つの問題を共に公式化しているのだ。すなわち,抑圧モデルだけではなく内容モデルをも考慮に入れているのである。人間の感情と人格の諸様態に対して,そのすべてを被う複雑な語いを創造したことはまさにフロイトの巨大な業蹟であった。アダムのように,彼は広大な植物誌,動物誌の領域に入っていってそれらを区別し命名した。たとえどのように完璧に我々が彼の定義様式や諸概念を変更する必要を感じたとしても,彼の果たした大きな貢献は残るのである。この全領域は彼によって一度だけ開発されて,多少とも洗練された相互主観的コミュニケーションが可能になった。しかしながら我々が人格変化について問うときに気づくことは,殆どすべての概念は,人格の内容の記述であって,その内容そのものは変化への必要を意味してはいても,それらが変化しうる様式に関しては何も与えられていないということである。所与の内容は基本的,本能的水準において不適応(maladaptive)であり, 本能水準における変化の過程については何の概念化もなされていない。

 このようにフロイトの理論は変化について二つの問題を公式化している。1)抑圧モデル 2)本能の内容それ自身,これら両者に対して知的情報をもつこと及び個人が解釈者と協力して解釈をうけ入れるという決定を行なうというだけでは不十分だといえる。覚知すること及び内容が変化すること,この両者が実現するためにはもっと深い変化過程が要請されるのである。

 フロイト理論はこれら二つの問題を「反復強迫」という理論概念によって見事に体系立てて説明した。(しかるに)「反復」という語こそは反応様式を新しく変える傾向をもつ新しい環境が与えられてもなおかつ変化しないこと,あるいは変化に対して抵抗することを意味する。はじめに指摘したように,これこそまさに人格変化の問題なのである。

 「反復強迫」によって個人は抑圧されたものに気づくよりもむしろ自分の古い反応様式を反復するのである。このことはまた基本的な本能内容それ自身は新しい諸事象によって変化をうけずに(逆に),事象の上に古い同一の知覚と反応の型を押しつけることをも意味している。これらの本能内容は抑圧され,抑圧を強要し続ける。それらは変化を必要としているものであり,しかもそれらが反復を強要するのである。

 初めフロイト(1920)は次のように書いた。『この反復強迫をもっと理解できるためには,……人は"無意識"の抵抗と戦いつつあるのだと考える誤りから自由でなければならない。無意識すなわち抑圧されたもの"は治ろうとする努力に対しては何の抵抗をも示さない。それはただ……"突破する"……ということ以外には何も求めない。』

 後になって彼は,真の覚知が可能になる以前であっても,本能内容それ自身にある変化が起こることが必要だと書いている。

 『われわれの経験では,自我はその抵抗を捨てる決心をしたあとでも,抑圧を解消させるのにいつも困難を感じ,この立派な決心のあとに,「徹底操作」(working through)といわれる緊張した努力の時期がある。さてこの徹底操作を必要とさせ,またその意味を明らかにさせる力動因子を認めることはたやすいことである。それは自我の抵抗がなくなったのちにも克服さるべき反復強迫の力はまだ存在することに他ならないのであって,この反復強迫はその無意識の原型が抑圧された本能過程に対して発揮するところの引力(ともいうべきもの)である。』(フロイト1930p.105,邦訳1955,p.269)

 この引用から気づくことは,「反復強迫」はその力を本能内容それ自身から引き出しており,これらは覚知されねばならず,かつ,ともかく変化しなければならないということである。変化をひき起こす方法としてフロイトは次の二つを提唱する。第一は彼によって「徹底操作」と名づけられたことは上述の引用にある如くである。そして第二の方法は「転移の克服」と名づけられた。

『これらすべての望ましからぬ諸原因と苦痛な情緒は,神経症者によって感情転移の間に反復され,きわめて巧妙にあらたな息吹きをあたえられる。彼らはまた治療を中絶させようと努め,侮辱される感じを受けるようにふるまい,医師が自分たちに対してきびしい業と冷淡な態度を示すように仕向けることを心得ている。』(フロイト,1920,邦訳p.22)

『患者は抑圧されたものを医師が望むように,過去の一片として追想するかわりに,現在の体験として反復するように余儀なくされる。この反復は望ましいことではないが確実に起こるものであって,内容的には小児の性生活の特性が部分的に含まれている。……原則として……医師は……患者の忘れた過去の助けを借りて,患者が過去と現在に関する多少の時間的展望をのこしておけるように心をくばらなければならない。これがうまくいけば,患者の(解釈の正しさへの)確信と,それに伴う治療上の成果がえられるのである。』(フロイト,1920,邦訳p.18〜19)

 今や「転移」それ自身が変化をもたらすものでないことは明らかである。転移は古い変わらざるものの反復なのである。医師は(我々が見てきたように)反復ではなくて意識された記憶が心に浮かぶのだと考えたいところであろう。人格変化を生ぜしめるのは転移そのものではなくて,その「克服」であり,その「処理」であり,あるいは転移を過去と現在という時間的展望において把握することであると主張されている。しかしながら,古くから在る抑圧や内容によって,新しい関係の歪みを理論的にうまく説明できるにしても,変化を起こさせるところの「転移の克服」や「転移を過去,現在の時間的展望においてとらえること」を説明するような理論を我々はもっていないのである。実をいうと,我々はただ単にそれをうまく説明できないというだけではなく,反復を促進していた否定的な力がいかにして,「克服」とか「展望」とかいった単なる言葉と共にさっと追い払われてしまうのかについても何のヒントも得られないのである。

 「徹底操作」と「転移の克服」という事実は観察されたが,それらの理論的追求は忘れられてしまったまま,フロイト理論は「反復強迫」を単に変化の問題,すなわち変化に抵抗する力とみなしただけでなく,(19世紀にすべてを規制していた,あの)「快感原則」を「越えた」ものとみなす方向に進んでいったのである。この不快な反復ということはフロイトをして,変化に抵抗する力というものを仮定せしめ,さらにこの力が非常に強力であるところから,フロイトは「死の衝動」という考えに到達し,さらに彼があれ程誇らかに重視していた「快感原則」でさえも,実はこの死の本能に仕えるものであるということに気づいたのである。もちろん,我々は,一般に非常にしばしば考えられているように,フロイトが人格の内容や定義は,不変の,否定的なものだと主張していたと考えるには及ばない。逆に彼は,積極的な変化は立派に起こると主張している。ただ我々が知りたいのはその変化がどのようにして起こるのかということなのである。

 フロイトが二つの中心的な問題,すなわち抑圧と内容変化に関して示した系統的な説明はうなづけるものである。我々はまた,人格変化に影響を及ぼすものとして,彼が引用している二つの中心的な観察事実にも同意できる。それらは個人における「徹底操作」及び彼が「転移の克服」と呼んでいるところの直接の人間的な関係の脈絡の二つである。

 しかしながらフロイトの理論では,変化をもたらすところの観察された過程は説明されていない。フロイトの多くの論文は―たとえば以下に引用するものなども―この「転移の克服」と「徹底操作」過程というところでどれもが符調を合わしたかの如くピタリと終わっている。

 この二つについてわれわれは理論的理解を欠いているにもかかわらず,すべての変化がこれによって規定されているのである。

『私はしばしば初学者から,患者に抵抗を教えてやったのに何ひとつ変化が起こらなかった,いやむしろ抵抗ははじめ非常に強くなり,分析の状況は全体にわたってますます見通しがつかなくなってしまった,といって訴えられ忠告を求められる場合がある。
 ……分析医は,抵抗を口に出していいさえすれば,その結果として直ちに抵抗が止むというものではないことを忘れていたのだ。患者が知らなかった抵抗を深く知るようになり,それを「徹底操作」し,それを克服するためには,彼に時を与えなければならない。……
 分析操作のうちで,このような「徹底操作」という部分こそ,患者の上にもっとも大きな変化をもたらす影響力をもち,分析治療法を暗示によるさまざまの治療法から区別せしめるものなのである。』(フロイト,1914,邦訳p.170〜171)

サリバン(Sullivan)

 サリバンはG.H.ミード(Mead)の考えを用いて,いくつかの基本的な理論教法を提唱した。われわれはこれらの概念にあって,人格変化の理論に向かって大きく前進したのである。その説明法はフロイトに比べると,ずっと個別的,特殊的であり,かつわれわれにとって利用度の高いものであるが,彼が説明したのは,心理的内容が環境と有機体との相互交渉の生理的過程のあらわれとしてどのような姿をとるかという点であった。彼は,相互交渉の進行過程において人格内容の変化をもたらすと考えられる一つの理論的な枠組を設定し,発展させた。これによると,抑圧は有機体的緊張の解消が行なわれなかった(missing)ことであり,かつ有機体的相互作用が完了しなかった(missing)ことであると考えられている。そうだとすれば,相互作用においてうまく緊張を完了(解消)することで,どのように「抑圧」が「除去」(lift)されるかということも当然理解でぎるであろう。

 しかしこれについては後でとりあげたい。というのは不幸にしてサリバンは彼の革命的な発想が提供している変化の理論のもつ諸々の可能性を十分には展開することなく終わってしまったからである。本論文の後の方で(定義5,6,8,9,15)我々は彼が示してくれたいくつかの基本的な考えを,彼とは異なる,我々独自のやり方で解釈し,利用するであろう。

 ここではサリバンの理論が彼の革命的な発想"conceptions"と私が名づけているものと並んで)やはり「抑圧」と「内容」という二つのモデルをある形で持ち続けており,そのために人格変化ということが単に説明されないのみならず,変化自体が理論的には不可能にされていることを示したいと思う。

 ここでもまた同じ二つの基本的問題が提起され,かつ同じ二つの主要な観察事実が人格変化に関して,それを説明はしないまでもそのことが起こるのだという主張の根拠として要請されている。サリバンの理論はこれら二つの問題と二つの観察事実とを多少洗練し深めたといえる。

 まず初めに,サリバンは,他からは引き出すことのできない一つの基本的なそして純粋に否定的(negative)な人格要因を見出す。それは「不安」である。

『不安の問題に至る迄に乳児について私が論じてきたことは,乳児における他の生活体との接触の要求について私が与えたヒントを除いては,すべて生物学的に必然的な共社会的(communal)存在としての乳児の働きであった。しかるに今,不安を論ずるにあたって私は,幼い生活体のもつ生理化学的(physicochemical)な諸要求とは如何なる点でも何の関係もない何かに逢着している。』(サリバン,1953,p.42)

 サリバンにおいては,体験,感情,行動,および相互作用のそれぞれの間には,ある連続性がもっとも具合の良い形で存在していると考えられており,不安というのはこの連続性の中には何ら肯定的積極的基盤をもたないのである。
 さらに不安……とくに「ひどい」不安……は,体験や動機を無意識化し,「おおい隠して」「私ではないもの」(not me)にしてしまうようなある体系を人格の中に創り出す。

『自己体系が発達するにつれて,それはますます顕微鏡に似た機能をもつようになる。重要な人の是認は非常に価値があるものであり,否認は満足を否定して不安を与えるものであるから,自己というものが極めて重要となってくるのである。是認や否認の原因となる子供の諸行動に自己が微細に焦点を合わせる反面,ちょうど,まさに顕微鏡のようにそれは人がそこ以外の世界に注意することを妨げるのだ。』(サリバン,1940,pp,20〜21)

『自己というものが覚知の監護人(あるいは管理者)になるのみならず,何か自己にとって歓迎できないような目覚ましい出来事が発生した場合には……不安があらわれるのだ。それはあたかも,不安というのが究極的には自己が人格の内で自らの孤立を維持するための道具になるかのように思われる。』(サリバン,1940,p.21)

 ここにもまた,順応と変化に抵抗する力があり,抑圧モデルという閉じた輪がある。というのは自己を変容させようとする体験そのものが同時にその自已によって意識から閉め出されているからである。
 かくして人格や行動を規定するところのあらゆる種類の「おおい隠された」過程があり,「おおい隠された動機体系」や「私ではないもの」という経験が存在するが,それらはいつまでも自己体系と覚知からは排除されているのである。事象がこれらの経験に対して注意を換起しようとすると不安があらわれる。不安はまず第一に過去においてそれらの経験を覚知から閉め出したものであり,現在では変化に抵抗して,自己を維持しようとする性質を自己体系に付与するものに他ならない。

 第2の基本問題……すなわち人格の内容は(単に気づかれるのみならず)それ自身,変化するという事実……もまた理論的には不可能になっている。

 もっとも変化を必要としている人格側面は「並列的」(parataxic)な特性をもつ。サリバンの使い方によると,この語は,まず第一に経験が原始的水準においてしか体制化,組織化されていないことを示している。そのような諸経験を理解することは普通にはできないことである。それらは彼とある関係をもった他者の上に投射される。この事実から,この語をより一般的に使って,他者についての誤った知覚を記述するための言葉という用法が出てくる。しかしながら元来,この語は〔原語法的(prototaxic),および統括法的(syntaxic)と並んで〕経験を組織化する一つの様式として定義されている。「おおい隠された」あるいは「私ではないもの」という経験は主として並列的なものである。何故なら,それは最適の (統語法的 syntaxic)組織化以前の発達段階において生ずるからである。同様に不安もまた,組織化がうまくいくことを妨げるものである。

『……不安というものは……頭に一発くらった時に多少似たような影響を与えるものである。というのは,人は不安が激しかった時にどんなことが起こっていたかについて,あとになっては全く定かではないのである。……しかしながら不安によって,想起が妨害されるわけではない。むしろ次々と十分に想い起こすことができてきて,その結果……人は,ひどい不安のために何もかもが秩序を失ってしまった時に,自分の行為が何に向けられていたかについてのある感じをもっており,……こうして誰もが「何か得体の知れない,禁じられたもの」(uncanny taboo)のもつ諸々の姿に出会うのである。……』
(サリバン,1953,pp.160〜161)

『得体の知れない不気味な感情の目立つ経験は私でないものというパーソニフィケーション(注11)に組みこまれ,それは,原因,結果とは明確に結びつきえないものである。それらは後になってわれわれが思考過程(referential processes)を説明するのに用いるような極めて鮮明な方法をもってしては,扱えないものなのである。……それらは生涯を通じてずっと比較的,作為的な努力を伴わないで自然にあらわれてくる原始的で,手を加えられていない並列的な象徴であり続ける。』
(サリバン,1953,p.163)

 これらの"並列的"な諸経験には上記のような性質があるので,自己体系は不安と共にそれらを覚知から排除する。同特にこれらおおい隠された内容は"並列的"な様式をもっていて,「得体の知れない不気味な」感情を伴っているので,経験を分化させ,先見し,体制化するといった通常の過程に従わなくて良いのである。いってみれば,過去において,経験を体制化するための貯えとしての過去の事象が不十分だったのである。不安が「すべての体制を破壊してしまった」ので,その結果非常に不完全で並列的な想起になってしまったのである。

 それでは望ましい人格変化というのは一体どのようにして起こるのであろうか?サリバンも同じく二つの観察事実を引用する。(1)人格変化はまさしく直接の人間的な関係という脈絡において,起こるものである。(2)そしてそれは個人内において深く感じられた徹底操作過程を伴って生ずる。

 ここでもわれわれは治療関係に関し,本質的であって,もっとも明快に解決された局面は変化に抵抗する局面であるということ,個人はその並列的な経験を変更する代わりに反復し,あるいはそれらを関係に投射するという事実を見出すのである。

『ある女性患者との約300時間目の面接のときのことだが,彼女は奇妙に興奮した状態で私と一緒に面接室に入った。そして彼女のいうには,それまでに彼女が見ていた私と,そのときの私とは彼女には全く別人のように見え,そのことに気づいてすっかり気が転倒してしまったとのことであった。彼女が知っていた私は太った白髪の老人であった。……これは治療状況における精神医についての並列的歪曲の極端な実例をわざと単純化して示したものである(注12)……。

 我々が問題にしている彼女の祖父像が、患者の生活史の中で彼女の祖父にふさわしいところに位置づけられた結果,このお祖父さんが彼女の発達過程において果たした役割について我々が何かを知ったとき,治療状況の性質は暫定的なものではなくなって,持続的効果を産み出すようになったのである。

 ある患者の遠い過去から未解決のまま現在に至っている諸状況が,現在の状況の知覚や,その状況の中でのあまりにも錯綜した行為をどのように色どっているかを我々が明快に間違いなくしかも具体的に知るまでは,人格素材の再体制化や治療的に有意味な自己拡張,あるいは自己の行為の錯綜性への重要な洞察、さらには自分に関連のある他者の行動が何故予期できずしばしば当惑をもたらすかといったことについての重要な洞察などはいずれも起こり得ない。』 (注13)
(サリバン,1940,pp.205〜206)

 ここでは人がどのようにして,結局は「ズレ」に気づき得るかという点についての観察はあるが,それについての説明はないのである。すなわち,結局は,歪められていないものとしての現在に気づくようになるという観察なのである。そしてその結果,現在とこれまで知覚してきたものとの間に存在するズレを知るようになると考えられる。だが,このことが一体どうして起こるかというのが人格変化の基本的質問なのである。

 この「転移」あるいは「並列的な歪み」,それ自体は変化に強い影響を及ぼす要因ではないことにも留意されたい。変化に強い影響を及ぼす要因は,ズレに「気づくようになる」という(何か神秘的な)ことである。これは単なる知的な過程ではあり得ない。

『たとえ,いわれた言葉の意味が比較的わかり易い場合でさえも、その言葉の意味を即座に捉えることはまずでき難いことである。言われた言葉が我々の生活の種々な面や他人と我々との関係に関する場合,たとえその言葉の含蓄する意味と矛盾するものが何もなくとも,その言葉の意味を把握する行動そのもののうちには過去におけるその言葉と関連の深い経験が時には容易に気づかれるような矛盾や明らかな誤報すらも含めて広範囲にかかわってこなければならないのである―さらに言えば,もっと別の要因,具体的には全自己体系―はあるべき姿としての治療状況の考えに含まれるある内包とは一致しないのである。』(サリバン,1940,pp.206〜207)(注14)

 我々が検討してきた二つの理論は覚知及び人格内容の望ましからざる変化の諸問題を明らかにする。しかしながら,かかる変化が結局の所,個人的人格的関係の脈絡において生ずるものであり,かつ単なる知的なあるいは言葉に発せられた過程としてではなく,何か深く感じられた過程によって生ずるのだという観察事実について公式化して表現するには至っておらず,単にそのことを指摘するに止まっている。

ロジャーズ

主要な発見:ロジャーズの発見は実践的にはある個人がその抑圧モデルを克服するには如何なる援助をうけることができるかという方法に関連している。

 ロジャーズは我々が相手に対して「その人自身の内的枠組にのっとって」("within his own internal frame of reference")反応を行なうならば防衛や抵抗が除かれるということを見出した。(注15)この表現は心理治療家の反応は常にクライエント自身の瞬間瞬間の覚知の中に直接存在している何かに向けられるということを意味している。

 ロジャーズは最初次のことを発見した。たとえ治療者がクライエントの伝えていることをただ反復していう以外に何もしなくても……即ち,もしも治権者が瞬間瞬間にクライエントから伝えられることを受けとめ,正しく理解しているのだということをはっきりと示すならば……ある非常に深い自己推進的(self-propelled)変化過程がクライエントの中に始まり持続する。個人がこのような形で理解される時には,彼の中に何かが起こるのである。(注16)

 彼がまさにその時直面していることの内にある変化が生ずるのである。何かが溶け,自由になってくるのである。そしてクライエントの内に,さらに何か他のことを言いたいという動きが出てくるのだ。そして,もしこのことも受けとめられ理解されるならば,何かがさらに表われてくるのだ。それはかかる一連の自己表明とそれへの反応が生じなかった場合にはその人が考えもしなかったし(またかつて考えることもできなかったような)ことなのである。

 さらにロジャーズは次のことをも見出した。クライエントが今伝えたいと願っていることを治療者が適確に概念化しようと努め,また,この目標をクライエントにはっきりと判らせておくならば,彼はクライエントがそれまで理解していたよりもはるかに深く適確にクライエントが今伝えていることを明らかにして行くことができる。例えば,あるクライエントが自分について起こった外面的報告とそれにまつわる一般的怒りの感情について長々と語ったとする。これを聴いた後で治療者はクライエントが自分自身に対してもまた治療者に対しても,はっきり伝えようと意図しながら意のままにならず苦しんでいた特定の感じられている意味(felt meaning)を感知しうるのである。このようにして,その治療者はクライエントの長い状況的報告に反応して次のように言うであろう。「あなたの言われたようなことが起きて,自分が無力だと思うのがほんとに怖ろしいのですね。」

 ロジャーズの見出したところによれば,解釈,演鐸,概念的説明が無益であり,普通抵抗をもって受けとられるのに反して,クライエント自身がその瞬間感じている意味に治療者が的確に言及することは,殆どの場合,クライエントによって喜んで迎えられ,さらにクライエントを自らの束縛から解き放ちより深いより進んだ自己表明と覚知へと向かわせるのである。

 私はこれを図式的にコミュニケーションの二つの次元として考えたい。

 一つの方向軸(例えば水平軸)に並べられるのは,ある人がいったことから我々がその人について演繹もしくは列挙する様々の他の事柄,即ち彼の背景,彼の日常行動,彼に生じ易い感情のパターン,彼の特性,等々……である。このことは我々が概念とか一般化によって,彼が今感じていることからは離れ,彼が今は感じていない,他の事柄に向かうことに他ならない。

 他の(垂直の)次元は,いかなるコミュニケーションも内面的には(inwardly),今感じられている,諸々の感情,知覚,意図,判断,願望などのかたまりに言及しているという事実にもとづいている。あるコミュニケーションが言葉という面ではほんの少ししか語っていない場合でも,そのコミュニケーションは話し手に覚知されて今感じられていることに多分に依存している。このように我々は話し手に対して表面的に反応することもできるし,深く反応することもできるが,いずれの場合にも我々は話し手によって今覚知され,感じられていることの範囲内に止まっているのである。

 ロジャーズは,〔クライエントの〕防衛の限界が広げられる前に,〔治療者の〕反応がどのようにしてクライエントの感じられた事柄に達し,それに影響を及ぼすかを発見した。クライエントがどのようにしてかかる反応を十分にとり入れうるかを我々が正確に説明し得たときに始めて,クライエントの防衛の限界がどのようにして治療的反応によって広げられるかということの説明もまたおのずと可能になるであろう。しかし,問題点は個人の抑圧とその限界及び現在の状況下において働いている力があった場合に,その人の防衛と既に折り合わなくなっていたものが一体どのようにして入り込みうるのだろうかということであった。

 私はそれをロジャーズの「発見」と名づけた。なぜならそれは理論でも仮説でもなく,一つの観察事実だからである。誰でもこの観察事実は確かめることができよう。その観察事実は二つの部分から成りたっている。

 1)覚知され、現在感じられている意味への反応という垂直の次元に沿っての深い反応は,クライエントによって喜んで迎えられ取り入れられる。

 2)この種の反応を継続して行なうことによって,個人の中に深く感じられ,かつ再体制化していく深い変化過程が生じ,それはクライエントも治療者も共にあらかじめ計画したり期待したりしたものとは全く異なった予測できない一連の感情に沿って,自己推進的に一つの新しい自己表明から他へと移り動くものである。

 この発見の一つの意義を最初に指摘しなければならない。反応は防衛限界が広げられる以前に,個人の中に入り込みうる。なぜたら反応が言及し,さし示す対象は個人の概念(concept)でも,彼の自己構造や構成体でもなく,彼が今体験する(あるいは「感ずる」)ことのできる何ものかだからである。もしも仮に個人の中に概念と構成体しかないとしたら,治療者はこれらのものに正確にあわせて(conform)いかざるを得ないか,さもなくば防衛の限界を越えるしかないのだが,実際には個人には如何なる瞬間においても,ある感じられてはいるが大部分象徴化されてはいない,「意味」あるいは「感情」(feeling)ないしは「経験」という一つの領域が存在しているので,治療者はこれに反応することが可能なのである。治療者はクライエントの言葉にただ反応するのではなく,その言葉の中に含蓄されているものに反応するのである。

 言葉と概念は上記の「経験」がになっている特殊の意味をもつにすぎない。他方,ある人の個人的コミュニケーションは常に彼の発する言葉の意味のみならず,各瞬間に感じられはするが充分には述べられていない,「体験的意味」(experiential meanings)の全領域を含んでいる。これらが彼の「内的枠組」を作りあげているのである。

 かくして防衛的限界の中に反応を通じてどうやって入り込むかというロジャーズの発見は従来の人格理論に直接体験についての考察をつけ加えたのである。

 広範な理論的変更(注17):さて,ロジャーズが基本的人格理論に導入した主要な変更について述べよう。私の信ずるところでは,この理論的変更は彼の発見として上に述べてきたことから直接引き出されるものである。

 ロジャーズは彼に先立って存在していた理論の基本的概念のいくつかをそのまま引き継いだが,ロジャーズの見解ではそれまで人格にとって本質的と考えられていたものは単に人格のもつ否定的で,不適応的な局面に過ぎないとみなされるに至ったのである。これら旧来の概念と並んでロジャーズは人格の新しくより基本的な経験的局面というものを導入する。

 以前の理論は,普通人格を構成されたものとして,かつ本質的には他者の,より広くは社会の感度,意見,判断によって形造られたものとして定義してきた。例えば,フロイトの考えでは人格は本質的に文明化された社会が個人に課しているいろいろの限定を含んでおり,それ故,本質的に抑圧と昇華を免れ得ないのである。同様にサリバンは次のように書いている。(1940,p.22)『自己についての他者の評価が反映されて自己を形造ると言って良い』ロジャーズも抑圧の存在及び自己概念が他者の態度によって形造られることには同意し(注18)ている。ただ彼はこれらの事実を人格と同じものとは見做していないのである。

 人格理論についての大部分の基本的概念に対して,ロジャーズは再公式化を行ない,その際旧来の理論について次のように述べている。『然り,我々はまさにこれらの事実を観察している。しかしながらそれらは人格ではない。それらは基本的人格の上につけ加えられた不適応なのである』そこで彼は,このより基本的人格を公式化すべく新しい諸概念をつけ加える。

 例えば,基本的人格は抑圧によって形成されるものではない。抑圧は起こるのだが,基本的に人格は抑圧から自由でありうるし,全ての経験「に向かって聞かれている」。「取り入れ」(introjection)は,次のことに対してロジャーズが用いた用語である。

 ……ある個人にとって重要な意味をもつ他者のポジティブな関心(regard)が条件つきのものであるとき,即ち個人がある点に関しては尊重され他の点に関しては尊重されていないと感じる場合……この様な態度は次第にその人自身の自己関心複合体(self regard complex)に同化され,かくして彼は他人から引き継いだこれらの価値規定条件(conditions of worth)のみによって,自分の経験を肯定的,あるいは否定的に評価し,経験が彼自身の生活体を拡張するかしないかという点にはまったく注意をむけない。(ロジャーズ,1959b、p.209,邦訳p.20)

 従前の理論において,基本的に人格を構成すると考えられていたこの「取り入れ」の概念と対比してロジャーズが基本的とみなすのは,次のようなことである。

 ……生活体の経験する価値づけの過程(the organismic valuing process)……諸経験は個人が生活体(オーガニズム)として経験する満足感に基づいて刻々と適切に象徴化されていき,持続的にたえず新たに価値づけられていくという過程をたどるのである。……価値はこのように一つの前進的な過程をたどるのである……(ロジャーズ,1959b,p.210)

 このようにロジャーズは取り入れは人格の本質ではないと主張する。事実,「価値規定条件」(conditions of worth)がなく,その代わりに「無条件の」(unconditional)ポジティブな関心がある場合に発達する真実の(genuine)人格にとって取り入れは有害である。ロジャーズの主張によれば,全生活体的価値づけの過程をして個人の唯一の行動基準たらしめることが,個人的にも社会的にも最も安全なのである。かくして個人は自己の経験の持つ他の諸側面と調和しうる,社会的期待にかない,他者とより良い関係をもち,また他人を援助するという様々の満足感を体験する。全生活体として価値づけをすることによって個人はこれら多くの点を最もうまく調和させることができるであろうし,彼の経験のもつ様々の側面を微妙かつ新鮮な形で活用し実現化することもできるであろう。このように,「取り人れ」は生ずるがそれは不適応的であり人為的である。全生活体としての価値づけは順応的であり,かつより基本的である。

 同様にロジャーズの理論には自已についての他者による評価から部分的に成りたっている評価体制(an organizations of appraisals)としての「自己」という考え方も残されている。

 自己,自己概念,自己―構造(注19):これらの用語は,ある体制化され一貫性をもった概念的ゲシュタルトをさしている。この概念的ゲシュタルトを構成しているのに,「主体としての私(主我)」(‘I’)とか「客体としての私(客我)(‘me')のもつ諸特徴についての知覚,および「主我」や「客我」が他人や生活のいろいろな側面とどのように関係し合っているかについての知覚,さらにこれらの知覚に付随している諸々の価値なのである。(ロジャーズ,1959b,200,邦訳p.184)

 自己というのは,ここでは自己概念及び評価(appraisal)という語がいみじくも示しているように一つの「概念的な」ゲシュタルトである。しかし,ここでもまた自己についてのこうした考え方が(人格を作りあげているものについての昔の考え方としては同意できるにしても)現実に我々に与えるものは,単に否定的,人為的,非順応的ないしは不適応的側面に限られている。

 連続体の画定した〔不適応の〕極限では個人的構成概念(personal constructs)は極端に硬く,構成体とは認められず,外部的な事実とみなされる。経験はこのような意味を持っているとみなされている。個人は自分が経験をこのような意味をもつものとして構成化してきたことには全く気づかない。(ロジャーズ,1959a,p.103)

 ここでロジャーズは個人的構成概念の硬さ,及び個人が自分自身及び自分の経験即個人的構成概念とみなす事実の両者をともに不適応と規定している。不適応な個人は自分が経験を構成化しているということを認めない。彼は自分の作った構成体を事実とみなし,ありのままの自分の姿とみなすのである。

 そこで次にロジャーズは人格のもっと適応的な諸段階について述べる。

 自己はますます単純に主観的なものとなり,体験しつつあるものが反射的に覚知されたもの(reflexive awareness)となる。(ロジャーズ,1961a,p.153)

 〔連続体の最も適応した極限においては〕自己は,感情を休験している,過程の中に存在する。……いかなる所与の瞬間においても自己は体験しつつあるもの(the experiencing)である。(ロジャーズ,1959a)(注20

……自己は本質的に体験しつつある過程が反射的に覚知されたものである。それは知覚された対象ではなく,過程において確言をもって感じられる何ものかである。それは防衛さるべき構造ではなく,内的体験過程の豊かで変化していく覚知である。(ロジャーズ,1959a,p.103)

 今や不適応的側面とみなされるに至った古くからの諸定義は,いずれも構成概念,判断,及び構造から成りたっているのに反して,ロジャーズは常に人格のより基本的で適応的側面は,経験から直接成りたっているとみなしていることに留意すべきである。我々が他人から「取り入れる」のは構成概念であり,判断(過程を経ずして得られる結論)であり、評価(appraisals)である。我々は経験を用いる代わりにそれらを用いるのである。最も望ましい適応状態においては,我々はこれらの判断を用いずに他の判断を用いるわけではない。その代わりにわれわれは評価や行動の基盤を直接,経験に求めるのだ。

 ロジャーズは自己の実践にもとづき,人は防衛や構成体や概念から離れて自らが刻々当面する経験されたもの,ないしは感じられたもの(felt data)に直接反応しうることを発見した。私見によれば,ロジャーズが前記のことを基本的なものとして新たにつけ加えるに至ったのはこのような彼自身による発見に直接由来している。

 この直接経験された次元はより基本的かつ具体的には人間存在(human being)である。そしてこの直接経験された次元を介して積極的改善的変化過程が生ずるようになり,はるかに順応的で建設的な人格をもたらすことができるのだ。

 ロジャーズの理論における「内容モデル」(注21):先に我々は人格変化のどの理論においても基本的でありながら未解決の問題を二つ規定した。我々はそれらを「抑圧モデル」及び「内容モデル」と名づけた。ロジャーズの理論にはこれら両者が未解決のまま残っている。ただし,彼の理論ではそれらの解決への方向が明瞭に示されている。まず最初に内容モデルについて考察しよう。

 ロジャーズは人間経験があたかも「諸経験」という単位から成りたっているかのように書いている。例えば、「彼は父親を嫌っている。」というのは一つの経験単位である。人格が変化していく際にクライエントは「それらに」(これらの諸経験あるいは内容に)気づくようになり,「それらを適切に象徴化し」,さらにそれらを彼の自己概念の中に「包含する」のである。個人はその「自己概念」がその人のすべての経験と完全に「一致している」(congruent)とき,すなわち自己概念の内容と経験の内容とが等しいときに完全に適応している。(注22)

 ロジャーズの主張によれば,いかなる経験も本来的に不適応なものはない。「経験についての」覚知の欠如のみが不適応を引き起こす。「それについて」気づくこと及び「それを」自己概念に含めることが経験をして適応的ならしめるのである。我々は問わねばならない。人間の経験には悪と苦痛が優位を占めることを知るが故に……いかなる経験も人がそれに気づく限りにおいては,それ自身不適応的ではないというのはどういうことであろうか?いかなる意味において,個人はそのすべての判断や行動の基盤を自らの有機体的感情におくのだといえるほど信頼しうるのだろうか?個人がその知覚や決定や行為の基盤をその感情だけにおくならば,すべての社会的対人的問題は最もうまく処理できるだろうとロジャーズが主張する時,彼はどのようにして,そのことを我々に納得させうるのだろうか?

 過去数十年における社会心理学の諸発見を考慮にいれるならば,文化とか訓練とか,知的操作……,つまり文明社会の全遺産……の影響はロジャーズの理論ではどこに位置づけられるというのだろうか?一人一人の人がこれらを自分自身の身体から,新たに創り出さなければならないのだろうか?社会的訓練の役割としては「取り入れ」という,人が適応するためには行なってはならない不適応的な学習の他には何も考えられないのだろうか?また,個人の破壊的衝動については,どうなるのであろう?ロジャーズの理論では人が適応するためには,それらの衝動に気づき,それらを行為に表わすだけで足りるかのように考えられる。

 ロジャーズは次のごとく述べている。

 〔人格変化において〕個人はその自己概念を改訂して,それを適切に象徴化された自らの経験に一致適合させていくように思える。このようにして彼は自己の経験のある側面が適切に象徴化された場合には,それが例えば父親への憎しみであり,また他の側面は強い同性愛の欲望であること……などを見出すであろう。彼は以前には自己と一貫していなかった所のこれらの特質を,彼が自分自身についてもっている概念を再体制化することによって自己概念に取り入れるのである。(Rogers,1959b,p.206,邦訳pp.194〜195)

二,三頁後にロジャーズは次のように述べている。

 全有機体的な価値づけの過程とは……価値は決して固定し,硬化したものではなく,経験が適切に象徴化され,かつ,全有機体的に経験された満足感によって何時も新鮮に価値づけられるような進行過程をさしている。……その最も単純な例を我々は,乳児がある時は食物を求めそれに価値をおくが,満腹してしまうとそれには見向きもしなくなる点に見ることができる。(ロジャーズ,1959b,p.210,邦訳pp.203〜204)

 明らかにいえることだが,もしも個人がただ単に前には排除したものを取り入れ,象徴化するために,彼の自己概念を変更するにとどまり,かつそうした自己概念に基づいて,あるがままに行動するだけだとすれば,その個人はある瞬間は父親を殺すかもしれないし,次の瞬間にはそれに飽和してその考えに見向きもしなくなるであろう。ロジャーズが上記の理論でいわんとしたのはこんなことではない。

 どんな著者といえども,著者が証拠立てようと試みた経験的意味を我々が追求できないならば,その人を誤って解釈する可能性がある。観察や洞察を粘り強く追求し,さらにそれらが必要としているように思える再公式化を重ねていくならば,我々の得るところは最も大きいであろう。

 個人がある「経験に」「気づくようになり」かつ「経験を正確に象徴化する」とロジャーズがいう場合に,我々は所与の経験が変化を受けないままでいるのではなく,また変化しないものとして,ある行動の単一の基盤になるのでもないということを彼が意味しているのを読みとらなければならない。

 つまり,ロジャーズが仮定しているのは最適の行動がそこに基盤をおくべき「経験」(あるいは「諸経験」)は全ての関連ある思い(considerations)を含むであろうということである。もちろんある状況に関して全ての関連ある思いが「適切に象徴化される」などということはありえない。それらは「感情」(feeling)という形でしか覚知されえないし,しかもその際「感情]によって意味されることが上述の様々の思いを暗黙の中に含みうるような何ものかである場合に限られる。

 ロジャーズの理論に対して我々がつけ加えるべきものは,覚知されて感じられ、かつその一部だけは象徴化されているとはいえ,なお含蓄的段階に止まっている非常に多くの思いや学習されたものや諸々の意味―いずれも適切な「全有機体的価値づけ」において役割を果たすべきものであるが―これらすべてを含む何かの働きなのである。

 「ある個人の経験の一局面が適切に象徴化された場合に,例えばそれが父親への憎しみであった,ということをその人が見つけ出す」と,ロジャーズがいう時,その人はその経験の新しい局面を包含するために,自分自身についてもっている概念を再体制化するだけでは適応にとって不十分であろう。ロジャーズが暗にいわんとしているのは,経験のこの局面もまた,今やその個人の感じている経験のもつ非常に多くの他の局面と相まって,最もうまい具合に作用するであろうという点である。なおこれらの他の局面はすべて相互に関連しあい,いかなる行動をも規定すると、思われる。

 最も微妙な知的分化は,感じられた体験過程の内に暗に含まれているということをロジャーズの理論は仮定している(むしろそう述べてすらいる)。

 「自己の有機体に対する信頼の増大」と題する表題のもとに,ロジャーズは「アインシュタインの科学的行動」について,こう書いている。

 この始めの時期の間,アインシュタインはただ彼の全有機体的反応だけを信じていた。彼の言葉によると,「これらの年月を通じて何時もある方向の感じ,何か具体的なものに向かってまっすぐ進んでいくという感じがあった。もちろんその感情を言葉に表明することは非常に難しい。しかし,上に述べたようなある感情があったことはまぎれもない事実であり,これと後に解決についての合理的な形式に関してなされた考察とは,はっきり区別されるものである」(ロジャーズ,1962)

 ここで明らかなことは,最も洗練された知的認知でさえも感じられた体験過程の内に暗に含まれうるものだということ,及びロージェリアンの理論が成り立つためには,このことが可能でなければならないということである。

 いかなる経験も人が「その経験について」覚知しているならば,それ自身不適応的ではないとロジャーズがいう時,ロジャーズは人がそのような変化しない単に覚知された「諸経験」に基づいてうまく行動できるということを意味したかったわけではない。ここでもまた,内容モデルが問題になる……すなわちもし人格と不適応とをある「諸経験」によって説明するならば……人格が変化する時にはこれらの経験はその本質において変化しなければならない。

 同様にロジャーズが(1959,b),個人の自己概念とその人の経験とが完全に「一致整合している」(congruent)場合,適切な適応と適度に社会的な行動とが結果として生ずると書いている時,彼が意味しているのは機能上の修正なのであって,これらの経験をただ象徴化された自己記述的な目録のうちに含めるというだけではないのだ。(種々の望ましからざる個々の行動に対して与えられる重宝な合理化であるところの……「少なくとも私はそれに気づいています」……といういい方はこの内容モデルの問題を不明確にし,茶化すもの(parody)である。)

 前にみてきたごとく,ロジャーズは経験ということで,変化を受けない覚知,された内容の目録を意味しようとはしていないことを明瞭に示す多くの基本的結論への動きを示している。ロジャーズは情緒(affect)あるいは経験の理論を要請し,ほのめかしてはいたがそれを欠いていたのである。彼がほのめかした理論においては人が「気づくようになる」ことがらは同時に修正を受け,またそこでは,有様体の感情あるいは「経験」は非常に微妙に,かつまことに様々の含蓄的な意味を伴って行動を規定するのである。

 個人が自らの体験過程を,判断や評価や行動の基盤として用いることができるというのは,ただこのような場合にのみ,もっとも社会的で人間相互的かつ・個人的な考慮がはらわれるからに他ならない。「取り入れ」と「硬い個人的概念」(rigid personal concepts)を人為的で不適応的とみなしうるのは,ただ体験過程が「ある経験」(an experience)を修正するに必要な無数の思い(considerations)を(暗々裡に)含んでいるからに他ならない。同時に,(体験過程にとって代わろうとしている)人為的で概念的な構造はわれわれの内に実際働いているものをあまりにも著しく狭めてしまうので,われわれはその構造に関連する不適切で葛藤をひき起こすような経験だけしかもてなくなってしまうのである。


 ロジャーズの理論における「抑圧モデル」:ロジャーズ(1959,b)は以下のように述べている。

 心理的不適応が存在するのは,有機体が重要な諸経験を覚知するのを否定するか,覚知される時にそれらを歪め,その結果それらの諸経験が全体としてあるまとまりをもった自己構造の中に適切に象徴化され体制化されず,自己と経験との不一致をつくり出す場合である。(p.200)

 ……有機的は覚知に含まれている高等な神経中枢を活用せずに、ある刺激と有機体にとってそれがもつ意味とを弁別できる。われわれの理論において個人がある経験を自らに脅威を及ぼすものとして弁別しながら,この脅威を覚知の上では象徴化しないでいられるのは,まさに上記の能力のおかげなのである。(p.200)

 防衛というのは脅威に対する有機体の行動的反応であり,その目ざすところは現在の自己構造の保持なのである。(p.204)

 個人が自分自身についてもっている概念と一致しない諸経験は覚知されることを否認される傾向をもつのである。(p.202)

 このロジャーズの説明はいわば一つの緊密な循環の輪であり,その輪の中では自己というのはただ単にそれ自らと一貫していることとして定義されるに過ぎないのである。たとえどのような経験であっても自己概念を拡張したり,あるいは改変したりしようとするものは,それらの経験にこのような傾向があるがために覚知からは閉め出される[否認される]のである。レッキー(Lecky)の自己一貫性(the consistency of the self)という原理はロジャーズ自身の考えの線を「強化した」とロジャーズは報告している。事実は「一貫性」こそ,私が「抑圧モデル」と呼んでいるものの最も重要な点そのもの(the crux)に他ならない。抑圧された何かは,まさにそれが抑圧されているが故にいつまでも抑圧されたままでいなければならないのである。自己が変化し得ないのはまさにそれが自己の一貫性,……すなわち,自己のもつ変化に対して抵抗する性質,および自己改変的な経験を志向する力も歪め,もしくは否認するという性質,……としてしか定義されていないからである。

 ではこの抑圧モデルという循環の輪は一体どのようにしたら破れるのだろうか?

 人格の変化はどうすれば可能か?

 私は既に実践においてどうすれば抑圧を克服できるかについてのロジャーズの発見について述べた。その克服には他の人たちも見出したところの二つの主要な観察事実が含まれている。一つは直接の人間的な関係であり,もう一つは感情過程である。

 パーソナルな関係(注23)(the personal relationship):ロジャーズはパーソナルな関係に三つの定義を与えている。その三つは建設的な人格変化のために「必要にして充分な諸条件」という名前で呼ばれるものである。

 1)「共感」(注24)(empathy),内的枠組からの理解と反応,これは既に述べたものであり,ここでは関係を規定する一つの条件として取りあげるのである。

 2)治療者の「真実性」("genuineness")あるいは「内的整合性」("congruence")。

 理論的にはこのことは治療者が関係についての全経験「に気づいている」ということを意味している。実践においては真実性ということは治療者が人為的態度やひそかな策略から自由であり,かつ彼の現在の気持ちを何等隠すに及ばないということをさしている。

 クライエントが伝えようとしている意味に対する治療者の反応は,治療者自身が今まさに実感として経験していることに根ざして生じるものであり,かつその径験していることを表わしているのである。それらの反応は人為的な言語形式でもなければテクニックでもないのである。

 3)「無条件の積極的尊重」(注25),クライエントが自分自身について表明したことに価値を認め,それを尊重し,かつそれによって積極的に動かされる。クライエントが表明する行動とか彼の困難とかが,それ自身望ましいものであるかないかということは関係の,ないことである。困難に直面しているその人自身(the person),表明を行なっているその人自身が常に無条件に尊重される。

 ロジャーズの考えでは,上記の三つの条件を述べることは「もしこうであれば(条件)……こうなる(結果)」(if−then)式の叙述なのである。
 彼の言葉を引用すると……

 私の目的は次のような考えを強調することである。すなわち,私の考えでは仮説を検証するのに力動についての知識というものが本質的には不用であるところの,条件・結果の現象を我々は扱っているのである。心理学以外の他の領域のことで,これを説明するならば,ある一連の操作によって,それが塩酸であると示しうるような一つの物質を,他の一連の操作によって苛性ソーダであると示しうる他の物質と混合するならば,この混合によって塩と水が生ずるであろう。我々がこの結果を魔法のせいにしようと,あるいはそれを現代科学理論の最も適切な用語によって説明しようと,この事実は変わらない。同様にして我々によってここで仮定されているのは,ある定義しうる諸条件がある定義しうる諸変化に先行するということ,及びこの事実はそれを説明しようとする我々の努力とは独立に存在すること,この二つなのである。(1957,邦訳pp.125〜126)

 このように媒介的説明が欠けていると言明しているにもかかわらず,ロジャーズ(1959b)は,個人がこの種の関係によって,自己一貫性という,定義上は気づきえないようなことに気づくようになりうるということについて,二つの説明を提示している。1)少し先へ進むことで自己一貫性が除かれる。2)無条件の積極的尊重は以前「覚知への否認」の原因となっていた事情を和らげる。このことは次のようにして生ずる。

 (関係についての)先行の諸条件が存在し,持続するならば,次のような特徴的な諸方向をもった一つの過程が動きはじめる。
 その方向とはクライエントが彼の感情や知覚の対象を次第により分化,弁別させていくという方向のことである……。

 彼が表明する感情が彼の諸経験のあるものと彼の自己概念との間の内的不整合に向けられることは益々多くなる。
(ロジャーズ,1959b,P.216)

 個人が自分自身についてますます表明するにつれて,治療という自由な状況下において,彼は明らかにそして否定し得べくもなく真実ではあるが,それまでずっと彼が自分自身についてもっていた概念とははっきりと矛盾するようなある感情について言葉に出して述べんばかりになっている自分に気づくのである。その結果,不安があらわれるが,もしも状況が適切であれば,この不安はそう大きいものではなく,建設的な結果が生ずるのである。しかしながら,もしも治療者による解釈が熱心すぎるとか,効果が強すぎるとか,あるいは何か他のことで,クライエントが自分の扱えない程多くの否認された諸経験に直面させられた場合には,体制がくずれてしまって精神病的破綻が生ずる。(p.229)(注.下線は筆者による)

 実践において「漸次の」とか「穏健な」とかいうことは単に量や程度の問題ではないのみならず,少し進むということには,各瞬間に個人が活用しうる直接経験に言及し,それに反応するということが含まれているということについて,ここでは何もいわれていない。(前の方で私がロジャーズの実践上の発見について述べたことを参照されたい。)

 上記の公式化は私が大事な点とみなすものを欠いており,他の人たちが理論的公式化では不可能なことを実践に当たってはどうやって達成するかという点について述べるときに出てくる,昔ながらの「何となく」とか「少しずつだんだんに」といったことによりかかっているのである。

 ここに述べられたような穏健な進み具合に加うるに,覚知するようになるためには無条件の積極的尊重が必要とされる。何故なら理論によれば自己概念は「価値(worth)の諸条件」……すなわち,ある重要な他者の「条件つきの積極的尊重」,例えば「私はあなたがかくかくの感情をもたない限りにおいてあなたを愛する」といった態度によって形造られてきた点に関してのみ,経験とは一貫しないと考えられるからである。人格変化にとって,自己概念をこわすためには無条件に,いつも同じ積極的尊重が必要とされるのである。
 われわれは自己概念が実際には自己一貫性だけによって支配されているのではなくて,むしろ,より基本的である積極的尊重への要求によって支配されていることを知っている。

 パーソナルな関係についての他の二つの必要条件(すなわち,共感と真実性)がどのようにして人格変化に影響を及ぼすかについて,理論では説明されていない。

 感情過程(the feeling process):ロジャーズは我々がみてきたように人格変化の過程において個人は単に自己概念のみならず直接的に感じられた経験をも問題にしなければならないと主張する。それによってのみ個人はその自己概念とその経験「との間のずれ」においおい気づくようになることが可能なのである。
 ロジャーズ(1959a)の述べるところによれば心理療法の過程(注26)とは……

 ……心理的機能が硬化し,画定化している一方の極から心理的な流れと変化によって特徴づけられる他の極に至る連続である。(p.96)

……(連続線上の)固定化した一端においては,硬い個人的な構成概念の表明や自己を対象としない話題をめぐっての自己表明や自分にぴったりきていないことがわかるような形で感情をのべること……(といったような行動がみられる)。(p.98)

 彼は彼自らが直接,今経験しつつあることからは遠く離れている。・‥…個人的な構成概念は極端に硬く,それを彼個人が構成した概念とは認めていない……。(彼の)問題は自らにとっては外側にあるものとして受けとられている……。(pp.96〜103)

 連続線の先の方にいくと,われわれは今は存在していない感情や個人的意味についての叙述を豊かに見出す。

 ……(同時に)以前は覚知されることを許さなかった感情が突き破って出てきて,現在,経験されているのだということのおぼろげな認識もしばしば生ずる。(p.99)


 ……人が何かをまさに体験しつつあるという認識は時に気のすすまない恐ろしいことなのである。……すなわち,個人にとって障害となるような内的体験の対象(inner referent)が存在するという漠とした認知である。……自己についての種々の感情(self−feeling)を受け入れ,自分のものにすることが増大すると共に,これらの感情そのものであろうとすること,すなわち「真実の私でありたい」という願いが生ずる。……更にかつては堅固な道標であるかに思われた多くの個人的構成概念も単にある瞬間の体験過程を解釈する方法に過ぎないことが明らかになってくる。(pp.101〜103)


 この連続線の他の極においては,個人は自らの感情に生き,彼の生活のしるべとして自らの感情に基本的に信頼し,それを心得それを受け入れて生きているのである。彼の体験過程は直接的で,豊饒な,変化に富んだものである。彼は自らの体験しているものをレファラント(ar eferent)(注27)として用い,より多くの意味を求めて何度もそこに立ち戻っていくことができる。(P.97)

 この連続線は次にのべる三つの異なった考察に適用される。

 (1)不適応的人格はこの連続線によれば,固定という一方の端によって表わされる。同じようにして好ましい或は適応的人格は連続線の他方の極,すなわち過程としての動きをまさにとっている状態(in‐process)によって表わされる。

 (2)治療の初期においてクライエントがまだ全く不適応な間,面接での彼の行動は連続線の固定の極によって表わされる。他方,治療が進んだ後では,クライエントの面接行動は過程としての動きをまさにとっている状態という連続線のもう一方の極によって表わされる。

 (3)連続線は人格変化が進んでいく間における感情の過程を表わしている。クライエントの面接行動が連続線上で,過程が進行しているほうの極に近ければ近いほど,より深く彼は人格変化の進行に伴う感情過程に参加している。
 これらの行動記述は今やますます充分に定義を与えられ,多くの研究における治療ケースのテープ録音記録(注28)に適用されてきている。これらの指標は治療を通じて表われる成功ケースを失敗ケースから有意味に分化させている。また,成功している心理治療においてはクライエントの行動の評定は面接の初期から後期に移るにつれて,連続線のより望ましい方の極に向かって変化する傾向を(注29)示している。

 ウォーカー(Walker,1960)及びトムリンソン(Tomlinson,1962)は数種類の被検者群と様々の基準(カウンセラー評定,クライエント評定,投影法テスト,MMPI,など)を用いて次のような諸結果を最近見出した。それによると成功的な人格変化指標は連続線のより望ましい極にある感情過程指標の評定と連関があるようにみうけられた。

 我々の議論の最初の部分を終えるにあたって留意したい点は,この議論を始めた頃に比べて感情過程とパーソナルな関係という人格変化を説明する際には常に引用される二つの観察事実についての多くの定義を知ったということである。

 二つの基本的問題(我々はそれらを「抑圧モデル」及び「内容モデル」と名づけた)は今だに大部分未解決であり,人格変化の理論もまた極めて不充分な形に止まっている。

 今や我々は,用語を体系的に定義しなければならない。ここで提出しようとする人格変化の理論は一連の定義という形で公式化されるだろう。

 

理 論

基本的諸概念――心理学的事象とは何か?

1. 体験過程(Experiencing)

 (a)"experiencing"という語における"ing"は「体験」(注30)(experience)が一つの過程と考えられていることを示す。(我々は一つの過程という枠組を作りあげている様々の理論的考え方を定義しなければならないだろう。)

 さてもちろん,上に述べたのは真の意味での定義ではない。というのは「体験」という語の使用法が近年混乱し,この言葉は様々の形で使われているからである。心理学の分野は体験についての理論を欠いている。しかしながら体験過程の理論(Gendlin,1962b)は体験についての過程理論を提示しようと試みたものである。

 「体験過程」という用語は極端に意味が広いので体験過程の個々の側面に対してはもっと限定されたいくつかの用語を定義して用いよう。我々が考察の対象としようとする特定の事象は,それが何であれ体験過程のある特定の様式あるいはモードであるか,または体験過程のある特定の作用(function)かあるいは我々がそれに選び与えたある特定の論理的なパターンであるように思われる。このように「体験過程」という用語は過程という枠組によってみられたすべての「体験」をさしている。

 (b)心理学において「体験」という言葉はそれがどこで用いられようと具体的な心理学的事象を意味している。同様のことがここでもいえる。体験過程は具体的なまさに進行している種々な事柄の一過程である。

 (c)最後に体験過程ということによって我々は一つの感じられた過程(a felt process)を意味する。その意味は内部的に感覚され,身体的に感じられた諸事象ということであり,我々の考えでは人格あるいは心理学的諸事象を構成している具体的な「もの」("stuff")はこの身体的に感覚され,感じられたことの流れである。

 体験過程は具体的,身体的な感情の過程であり,それは心理学的及び人格の現象に関する基本を構成している。

2. 直接のレファラント(The direct referent)(注31)

 日常の会話においても理論においても,我々はあまりにも広く外的な事象及び論理的意味を強調しているので,外的な対象や論理以外に内面の身体的感情や感覚があることに気づくことは,殆ど不可能であるかのようにさえ思われる。このことはもちろん,誰にでもたやすく確かめられるごく普通のことである。

 我々はしたいと思えば何時でも内的に感じられたある素材(an inwardly felt datum)に直接注意を向けそれを指示する(refer)ことができる。

 このようにして直接的にリファーされるという様式の体験過程を私は「直接のレファラント」("direct referent")と名づける。

 もちろん体験過程には他の様式がある。状況とか外的事象,象徴及び行為といったものは直接のレファラントには何等反射的注意を払うことなしに我々の感情過程と相互に作用し合うだろう。我々はこの直接的注意を伴わない場合にも,それを伴う場合と同じに覚知したり感じたりするのである。

 人は常に直接的に体験過程にリファーすることが可能である。

3. 暗々裡の(Implicit)

 この直接のレファラントに意味が含まれているということは余り明瞭ではないが,確かめる気があればやはり誰にでもたやすく確かめられることである。初め,体験過程はただわれわれの身体についての内的な感覚,身体的緊張,あるいは身体の調子の良さといったものにすぎないように思われるかもしれない。しかしながらもう一歩内をみつめていって気づくことは,こうした直接的感覚行為を通じてのみ,われわれが言ったり考えたりすることが,われわれにとって意味をもつということである。何故なら意味についてのわれわれの「感じ」(feel)抜きでは,言語象徴は単なる雑音(もしくは雑音の音響的イメージ)にすぎないからである。
 例えば誰かがあなたのいうことに耳を傾けていて次のようにいったとする。「すみませんけどおっしゃる意味がつかめないのですが」こういわれて,もしあなたが自分が意味していることを別の言葉で言い換えようとする時,あなたは自分の内部に眼をむけて直接のレファラント,すなわちあなたに感じられた意味に内的注意を向けなければならないことに気づくであろう。こういうやり方でのみ,あなたはいい換えるための違った言葉に行きつくであろう。

 事実,我々が明示された(explicit)象徴を使うのは我々が考えることのほんの少部分に対してのみである。大部分の場合,我々は感じられた意味という形で考えるのである。

 例えば,ある問題について考える場合に我々は実に様々のことどもを同時に考えて行かなければならない。そしてこれを言葉で行なうことはできない。事実,もし我々が様々の言語的象徴をくり返し検討し続けなければならないとすれば,問題に関連のあることどもの意味について考えるなどということは全くできない。我々はそれらを言葉で検討するかもしれない。しかしながらその問題について考えるためには感じられた意味(felt meanings)を使わなければならない。そしてこの場合我々は(以前に言葉で表明された)「このこと」と(同様に以前に表明された)「あのこと」がどのように関連しているかについて考えなければならない。「このこと」と「あのこと」を考えるために我々はそれらのもつ感じられた意味を使用する。

 感じられた意味が言語的象徴と相互に作用しあって生じ,かつ我々がその象徴の意味するものを感ずる時,我々はそのような意味を「明示的("explicit")」あるいは「あからさまに知られた("explicitly known")」と呼ぶ。他方,非常にしばしば,我々は言語的象徴化ぬきで,このような感じられた意味だけをもつことがある。言語的象徴化を行なわずにある事象,ある知覚,あるいは「これ」という言葉のようなある言葉をもつのである。(この場合「これ」という語は何も代表せず,ただ指摘を行なうにすぎない。)こういった場合に我々はその意味を「暗々裡に」,あるいは「暗々裡に感じられてはいるがあからさまには知られていない」と名づけることができる。

 ここで留意してほしいのは「明示された」及び「暗々裡の」意味の両者共覚知されている(in awareness)ということである。我々が具体的に感じ,内部的にさし示すことができるものは確かに「覚知されて」いるのである。(ただし,「覚知」という用語は後に,ある再公式化を必要とするであろう。)「暗々裡の」意味はあたかもそれが「無意識的」であるとか「覚知されていない」(not in awareness)かのように論じられてしばしば混乱を招く。しかしながら,直接のレファラントは感じられるものであり,かつ注意の直接の素材であるが故にそれは当然「覚知されている」べきものである。「暗々裡」と名づけられることは何であれ覚知されて感じられるのである。

 さらに我々がここでつけ加えたいのは,たとえある意味が明白である場合にも(すなわち我々が「まさしく我々の意味するものを」言葉に出していう場合でさえ)我々が感じている意味は常に我々が明示したことよりもはるかに多くの暗々裡の意味を含んでいるということである。我々が自分の使った言葉を定義したりあるいは意味したことを「適確に表現しようと努力する」場合,我々は感じられたもろもろの意味に頼るのだが,それらの意味は常に明白な言語的表現を与えられた意味に比べれば,はるかに多くの意味を暗々裡に含んでいることに気づくのである。上述の場合に我々が用いてきたのはこれらの暗々裡の意味に他ならない。それらの意味は明示されたことにとっては中核的なものであり,かつ実際に我々が意味したことを形づくるものではあるが,ただ感じられるに止まるのである。それらの意味は暗々裡なのである。

4. (知覚と行動における)暗々裡の機能

 これまでわれわれは暗々裡の意味をただ直接的レファラントの内にのみ在るものとして考えてきた。すなわち我々は感じられた素材としての我々の体験過程を直接さし示す時にのみ,暗々裡の意味を考えてきた。しかしながら,体験過程へのこのような直接のレファランスを全くもたずに大部分の生活や行動は暗々裡の意味に基づいて進行する。(明示された意味は二,三の特殊の目的に役だつに過ぎない。)例えば我々は現在の状況の解釈やそれへの反応が我々の「過去の」体験によって決定されるという。では一体どのような形で我々の過去経験は今ここにあるのだろうか?例えばもしも私が現在の直接的状況を観察しそれを記述したとするならば,過去の事象についての私の言語知識はどのようにして現存するか,又私が記述したこの状況についての私の記憶はどのように現存し,現在影響を及ぼすであろうか?私がまさに観察した状況について述べるために私の言葉は,私が観察し,反応を行ない,今や言おうとしている事柄についての感じられた意味(sence)から私のために生ずる。私が今観察していることを言葉で考えるということは絶無ではないにしても非常に稀である。また私はこの観察に影響を及ぼしている各々の過去経験そのものを考えることもない。これらすべての意味は私が現在具体的に感じている体験過程として暗々裡に機能するのである。

5. 完了(Completion);推進(Carrying forward)

6. 相互作用

 暗々裡の意味は未完了である。象徴的完了―あるいは推進(carrying forward)―は身体的に感じられた一つの過程である。暗々裡の意味と象徴とは等価なのではなく,相互に作用し合う(an interacting)のである。

 ここで私は「暗々裡の」意味と「明示された」意味とはその本質上別々のものだということをしっかりと明確にしておかなければなるまい。ある言語的陳述が,まさに我々が意味しているところのものを適確にいい得ていると感ずることがあろう,だが,それにもかかわらず意味を感ずることは言語象徴と同じ種類に属することではない。今までに示したように,ある感じられた意味はまことに多様な意味を包含しうるし,かつそれを次々と明細化していくことができる。このように特定の感じられた意味は象徴化された適確で明白な意味とはその種類において同じとはいえない。両者が種類を異にするということをかくも重視するゆえんは,もしもそのことを無視するとすれば,明示された意味が既に暗々裡に感じられた意味の中にある(もしくはあった)というふうに我々が仮定していることになるからに他ならない。この仮定に立って考えると,感じられた暗々裡の意味は,無数の明白な意味が隠されている暗い場所のようなもの,ということになってしまう。その結果,われわれはこれらの意味は「暗々裡」のものであって,それらがただ単に「隠されて」いることの中にのみ感じられるのだと誤って仮定することになる。強調しなければならない点は体験過程の「暗々裡の」,あるいは「感じられた」素材は一つの身体的生命感覚(a sensing of body life)だということである。かくてそれは無数の統合化された局面をもっていると思われるが,このことはそれらの局面が概念的に形成され,明示されていて,しかも隠されているということを意味するものではない。むしろわれわれが明示する(explicate)(注32)ときにはそれらを完了し,かつ形成するのである。

 意味をもつに先立って,象徴が感情と相互作用を起こさなければならない。

 「空腹」という言語象徴は「食物」という場合と同様に,われわれが消化過程を先へ進めるに先立って感情と相互に作用しなければならないのである。「空腹」という象徴は食物を探求することに含まれる他の側面や私がテーブルの前に座るといったことと同様に消化過程に関して学習された一つの段階であり,それが消化過程を先へ進めるのである。このことが起こる前には筋肉運動の感じは,組織化された相互作用に対して,身体がもつある型にはまった準備状態を暗々裡に含んではいるのだが,しかしそれは形成された概念的諸単位を含んではいないのである。このように暗々裡の身体的感情は前概念的(preconceptual)である。言語象徴(もしくは事象)との相互作用が実際に生起する時にのみ,過程が実際に先へと進められ,かくして明白な意味が形成されるのである。(注33)

 象徴化が行なわれる前には「感じられた」意味は未完了なのである。それらはいってみれば,「空腹」と呼びうるような私の胃の筋肉運動と同義語なのである。この身体感覚は確かに食べるということについて何かを「意味」している。しかしそれは食べることを「含み」はしない。より図式的にいえば空腹の感じは食べることが抑圧されたものとは異なる。動物を求める行動や動物を殺したり焼いたりすること,更には食物を食べ,消化し,吸収すること,また消化作用の残滓を排泄し,埋没することはそれ自身(つまり空腹感)の中には含まれていない。さてこれらすべての段階は(それらのあるものは新生児において始めから型にはめられており,あるものは後に学習されるのだが)筋肉運動の空腹感覚のうちには存在していない。そしてまさにこれと同じように,「空腹」という象徴的意味は空腹の感覚中には存在していないのである。その場合,我々はある未完了であり,体制化の前段階的形態において相互作用しうる象徴(もしくは事象)を待ち設けているのである。

 かくして明示するということは身体的に感じられた過程を先へ進める(carry forward)ことである。暗々裡の意味は未完了である。それらは隠された概念的諸単位ではない。それらは性質上明白に知られた意味と同じではない。暗々裡の意味と「それらの意味の」明示された象徴化との間には等価な関係はありえない。そこにあるのは等価関係ではなく,感じられた体験過程と象徴「もしくは事象」との間の相互作用である。(注34)

 

感情過程―変化は如何にして個人のうちに生ずるか

7. 焦点づけ(Focusing)

 「焦点づけ」(あるいはより正確には「持続的焦点づけ」)は以下にのべる四つのより特殊の定義「8.−11.」によって詳しく定義されるだろう。「焦点づけ」は個人が体験過程の直接のレファラントに注意を払う時,それに引き続いて生ずる全過程のことである。

 以前われわれは直接リファーすること(reference)が体験過程の一様式であると述べた。われわれが体験過程と名づける感情過程はある感じられた素材としてのそれへの直接のレファランス(着目,言及,指示)なしに個人の覚知に生ずるのである。これら他の諸様式においても体験過程は人格の変化にとって重要な機能を持っている。これらについてはあとで論じよう。

 「焦点づけ」とは体験過程の一様式,すなわち直接的レファラントが進展する人格変化において如何なる作用を及ぼすかということに関連している。

 以下の論議においては今までに述べた定義(1.−6.)が用いられるだろう。そしてこれに加うるにさらに,焦点づけに関する四つの定義が公式化されるであろう。

 焦点づけはこれを分析して四つの位相に分かたれる。これら四つの位相への分割は私のやり方で行なった公式化の結果というべきものであって,過程それ自身のうちに内的にはっきりと四つの段階が分かれて含まれているとはいいきれない。それ故,焦点づけということはこれらの明らかに分割可能な位相において生じうるにしても現実にはそういう形では生じない場合の方が多い。

8. 心理療法における直接のレファランス(焦点づけの位相