人格変化の一理論 A Theory of Personality Change
この章を書く過程において, Malcom A. Brownとの討議が私の考えを進め, 明らかにするのに多大の助けとなったことについて氏に感謝すると共に,Sidney M. Jourard博士,Marilyn Geist, William Wharton博士, Joe T. Hart,David Le Roy, Ruth Nielsenの皆様から寄せられた貴重なお考えと編集上の援助に対して感謝の意を表します。
本論では最初に二つの主要な問題と二つの観察事実が述べられ,ついで人格変化の一理論が提示されるであろう。この理論はジェンドリンらにより「体験過程」について継続して行なわれている一連の仕事の新段階を成すものである。(Gendlin 1957,1962b; Gendlin and Zimring.1955)体験過程の理論は種々の理論的考察を今までとは異なった新しい形で見直す一つの枠組をわれわれに与えるものである。
一つの理論は,観察事実を特に分化させるのに役立つような定義された言葉,術語を必要とし,かつ一連の理論仮説の公式化(a formulation)を必要とする。ここに述べられる理論はこうした基本構造にしたがって発展してきたものであり,導入され定義される新しい術語に対しては特別の注意を払っていただきたい。これらの術語は一つ一つそれとわかるように書き出して番号をつけておこう。(真の理論は注意深く定義された術語によってのみ可能となる。そして定義された術語を用いることによってのみ,われわれは後になって理論を修正,改善,拡張しうるのである。)
問題と観察事実
大部分の理論においては,人格の静的な内容―構造の側面がその本質をなしている。このために人格の変化ということは理論上とくに困難な問題とされてきた。これに反してここで提出しようとする理論的枠組は変化ということを説明するのに特別適しているのである。というのはそれは,体験の過程(experiencing process)及び人格の過程局面(アスペクト)と内容局面との関連性に対して適用される諸概念を用いているからである。
人格理論と人格変化
今までの人格諸理論が主として関心を向けていたのは,異なった個々の人格の現在の姿を決定している因子,それらの人格を説明する諸因子であり,かつある所与の人格をもたらすに至った諸因子であった。いわゆる人格は環境の如何にかかわらずその性質を保持する。ある個人のもつ諸面がもしも彼の現在の状況によって説明されるならば,我々はそれらの面に関して別に頭を悩ますことはないのである。またある個人が圧倒的な悪条件の下におかれて,あらゆる種類の望ましからざる行動を示したとしても,あるいは逆に,およそどんな人であっても,たいていは人好きのする安定した人間になってしまうような事象に影響されて,その人が好ましい人間,気持ちが安定した人間になったとしても,我々はそのことを彼の人格(パースナリティ)のせいにすることすら考え及ばないであろう。これとは逆に,我々は普通ある個人が圧倒的な悪条件の下でも相変わらず好ましい人間で気持ちが安定していたり,ある個人が外見上は機会と幸運にめぐまれても相変わらずくよくよ心配事をやめずに苦しんでいるときに,これを人格のせいにするのである。このことからいえることは,我々の現在の諸理論は人格変化を説明するどころか,変化が期待されるときにも変化しない傾向として人格を説明し定義づけようと努めてきた,ということである。
人格を変化に抵抗する諸因子とする見方は,ある程度までは当を得ている。我々は普通,一人の人間を自己同一性(アイデンティティ)と時間的連続性を持ったものとして考える。しかしながら,人格諸理論における内容とか型(パターンズ)は,その定義上,変化を表わすことができないようなタイプの説明概念なのである。(諸理論において)人格構造は,それに変更を加えるかもしれないようなすべての新しい経験に対抗して,自己を維持するという点に関して公式化されている。個人は定義された諸内容をもつ構造化された一つの実体とみなされる。これらの説明概念によって説明されるのは,単にある個人がなにゆえに変化できないかということに止まる。
このように,今までの人格理論は,ある個人がなにゆえに現在のような姿をとっているのか,彼がどのようにしてそうなったか,またそれらの諸条件がどのように働くことによって,環境や偶然や機縁の如何にかかわらず,彼が現在の状態を維持しているかといったことを説明するような諸因子に,もっぱら注意を払ってきた。内容と構造についてのかかる説明概念によって我々が知りうるのは,経験によっても個人が変わらないようにせしめているものは何か,どういう因子が彼に強く働くことによって,彼を変化させたかもしれないすべてを彼が(定義上)永久に見落としたりゆがめたりするに至るかということである。ただし(よくいわれているように),彼の人格が初めに(何となく)変化する場合は別である。
さて,構造や内容がまさしく自らを維持し,現在の経験をゆがめる傾向をもつことは事実である。そこで人格変化を説明するためには,普通これらの変化に抵抗する(change-resistant)と考えられている諸因子がどのようにして変化をもたらすことができるかを,われわれが適確に示すことがどうしても必要となる。(注.以下の〔 〕内は原典からは省かれた草稿の部分である。) 〔このことを考えていくには,二重の課題を解かなければならない。第一にわれわれは人格変化の過程が現実にどのようにして生ずるかを公式化しなければならない。次にわれわれは,われわれの定義づくり(人格における構造と内容の定義づけ)の方法すべてをやりなおして,これらの新しい定義により人格変化ということが理論上不可能ではないということを自ら示さなければならない〕
過去の理論は人格変化の不可能性を描き出すつもりはなかった,むしろ反対に,それらの理論は変化が実際に生ずると主張している。主要な人格理論はいずれも心理治療から,つまり(心理治療がうまくいったときに起こる)進展的(on-going)人格変化から生まれ出てきたものである。
〔では進展的変化の観察からどのようにして,変化ということが不可能に思われるような理論を導き出すことができたのであろうか?
ある個人が心理治療を受けにくるとき,普通その人は既にそれに先立って,自分が自らの生活状況,生活環境,家人,機縁を通じてそれまでに望み,期待してきたようには,「変化」していなかったことに気づいていたのである。彼は,今や,自分の何が悪いのか,自分や友人の大変な努力にもかかわらず思うようにいかないのはなぜかを知りたいと望んでいるのである。手短にいえば,彼が変化することを妨げているのは何か?ということである。それ故,心理治療者はまさに,この疑問がさし示す方向に向かって進むのである。〕
全く逆説的なことだが,人格変化が心理治療者達の目前で,彼らの参加によって起こったときに初めて,治療者は今までどういう点が悪かったのかを組織立てて述べている自分に気づくのである。患者個人でさえも,自分のさまざまの感情に分け人って探し求め,それらを表明するときには,あたかも自分の全努力は,何が悪かったか―つまり彼の人格の中で,普通の順応や変化ができないようにさせているのはどういう側面であったか―を明らかにすることに向けられていたかのごとくに語るのである。またこれに次いで彼が語っているように,彼にとって長いことずっと真実ではあったが,気づいていなかったことについて,こうした人がいろいろと気づくようになるのが常である。
このように我々は心理治療を通して,個人がこれらの手に負えない頑固な内容,およびその内容に以前は気づくことができなかったということを,「あらわにし」(uncovering)あるいは,それらに「気づくようになる」(becoming aware)という事実を規則的に観察することができるのである。今までさまざまの人格理論が,これらの内容および自己継持的,検閲的構造をあまりに巧妙に公式化してきたので,我々には個人が何によって現在の彼になったかを説明する概念は持っていても,どのように彼が変化するのかについて組織立てて述べることができないでいるのである。しかしながらその個人の方はいつの時でも,我々が静止的説明的な内容(注1)によって公式化しているこれらの「あらわにされた」諸因子そのものを,変化させ続けてきているのである。
ここで,現代の人格理論(formulation of personality)において変化ということを理論的に不可能と思わしめているニつの主要な方向を,より詳細にわたって示そう。私はこれら二つの不可能性を「抑圧モデル」"the repression paradigm"および「内容モデル」(注2)‘content paradigm’と呼ぶことにする。
ところでこれらの理論においては反面,変化ということがまさしく生ずるとの主張も行なわれているので,私は二番目に,それらの理論で変化ということを説明しようとする際に,上述のニつの主要な方向がどのような形をとるかについて取り上げてみたい。私が示そうと思うのは,諸理論が通常ニつの観察事実,すなわち感情過程(a feeling process)とある個人的な近しい関係(a certain personal relationship)(注3)を引用しているということである。
二つの問題
「抑圧モデル」"The Repression Paradigm"
大部分の人格理論は(異なった用語を用い,意味も何となく同じではないにしても)私が「抑圧モデル」と呼んでいる考えを共有している。それらの理論が一致して認めるのは,個人はその発達初期の家族関係の中において,一定の仕方でものを感じ行動した場合にのみ愛されるという諸経験を通じて一定の価値をとり入れるということである。彼に向けられたこれらの要請と矛盾した諸経験は「抑圧」され(フロイト),あるいは「覚知化を否認され」("denied to awareness")(ロジャーズ),あるいは「私でないもの」("not me")(サリヴァン)に至る。後になって,個人がこの種の矛盾した経験に出合うとき,彼はそれらをゆがめざるを得ないかあるいは全面的にそれらに気づかないままでいなければならない。というのは,もしも彼が矛盾した諸経験に気づいた場合には耐え難い程不安になると考えられるからである。自我(ego)(フロイト),あるいは自己概念(self-concept)(ロジャーズ),あるいは自己態勢(self-dynamism)(サリヴァン)はこのように基本的に覚知(awareness)と知覚に影響を及ぼしているのである。この影響をフロイトは「抵抗」と名づけ,ロジャーズは「防衛性」,サリヴァンは「安全化操作」と名づけた。極めて多くの行動をこれによって説明することができる。人格が現在の姿をとり,かつそのままに止まっているのは,これらの諸経験をその人格が考慮に入れることができないからである。あるいは例えば,抑圧が何らかの形で無理やりに除かれて,個人がこれらの経験に気づくに至ったとき,自我は「統制を失い」,自己は「統合を失い」,耐え難い「不気味な情動」・("uncanny emotions")が生ずるであろう。精神病者とはかかる経験に気づいており,かつ自我あるいは自己態勢が過去においても現在においてもすっかり損なわれてしまっている(break down)人であるといわれている。
もしも個人にとって単に想起すること,あるいは「抑圧された」要因に対して注意を換起せしめることだけが必要とされるならば,その人の事はたやすく解決するだろう。いつの世でも,このことをやって見ようとする援助心のある人々や逆に怒りに燃えた人々がいる。また多くの無神経な,配慮を欠いた状況下で人々はこれらの要因に注意を払うことを余儀なくされる。しかしながら個人は彼の内部にある所与の要因のみならず,これらの要因に関係をもち,それらを想い出させるような(注4),彼の外部のものをも,抑圧しているのである。
彼はこれらの要因を彼に覚知させるような局面をもつ事象や人々に対してはそれらの局面に注意を払わないように,誤解したり,あるいは解釈しなおしたりする。
このように個々の人格構造は自らを保持するのであり,変化は理論的に不可能なのである。個人を必要な箇所に関して変化させようとするものは,何であれ,それがその人の抑圧を除き,その人を変えてしまう可能性に応じ,かつその可能性のある点に関し,ゆがめられ,注意を払われないのである。
さてこの説明(それは私が上述したごとく,何らかの形で今日の主要人格諸理論が共通にとっているところなのだが(注5))の基礎にあるものは個人が心理治療の間に,それまで長いこと感じてはいたが,そのように過去において感じていたことをずっと知らずにきたことに改めて気づく際の顕著な体験のもち方なのである。さらに,その人は,以前に気づかれなかったこれらの諸経験がいかに強力に彼の感情や行動に影響を及ぼしていたかを認知するのである。そこで多くの人達は今やそれが確かな(valid)観察であることに,もはやあまり疑いはないと報告している。そこで,いかにしてそれを理論的に公式化しうるかが問題として提起されるわけである。
一たん我々が抑圧モデルという線に沿って理論を組立ててしまうと,気軽に向きを変えて人格変化ということを,以前には抑圧していたことに「気づくようになること」として「説明する」ことができなくなるのである。これらの経験に気づくようになる何らかの傾向がどのようにして歪められるらしいか,という点を我々がいったん示してしまうと,我々はもはや,人格変化ということは(定義上不可能であると想像されるところの)一つの覚知イヒであるとだけ主張することをもって説明であるとは見なせなくなるのである。変化は(確かに)起こる。しかし,ただそういうだけでは説明にはならない。それは単に問題をのべたに過ぎない。我々は,「抑圧モデル」を,人格変化についての一つの基本的な様相とみなすことができよう。このことこそ,まさしく本論文が取り組もうとしている二つの根本的因子の一つなのである。人格変化を説明するために,我々は,この決定的な「覚知化」がいかにして現実に起こるかを脱明せねばならないであろうし,さらに我々は今までの抑圧および無意識の理論に立戻って,これを作りなおさなければならないであろう。
「内容モデル」"The Content Paradigm"
人格変化についての第二の根本的な様相,(それは同時に現在行なわれている公式化の諸様式が理論上,変化ということを不可能たらしめているいくつかのやり方の中で,二番目のものであるが)それは人格が様々の「内容」("contents")から成っているという見解に関連している。「内容」という言葉で私が意味しているのは,定義された実体(any defined entities)ということであって,(現実には)どういう名称で呼ばれている概念であってもかまわない。例えば,「体験」「因子」「S-R結合」("S-R bonds")「要求」「動因」「動機」「評価」("appraisals")「特性」「自己概念」「不安」「動機づけの体系」「乳児期固着」("infantile fixations")「発達の失敗」(注6)など,お望みならもっと様々のものをあげることができる。
もしも我々が人格変化を理解しなければならないならば,我々は,これらの人格構成体(constituents)がどのようにして,その性質を変えうるかについて理解しなければならない。
内容の性質(nature)がこのように変わることを説明するためには,これまた,変化しうるところの一つのタイプの定義(説明的構成概念)を必要とする。もしも我々の理論が人格というものを単に内容として定義するならば,この内容が変化することを我々は証明できない。このような理論は,何が変えられなければならないか,その後になって何が変化したか,そして何に変化したか,を公式化することはできる。しかし我々が説明に際して,いつも,あれやこれやの定義された内容という概念を用いている限り,上記の変化というものがどのようにして可能であるかという問いに対する理論的な説明は,何時になっても与えられないであろう。
我々が求めているのは,内容上の変化が如何にして,どのような条件の下に,どういう過程をつうじて生起しうるかという説明を組織的に記述するための,ある種のより基本的な人格変数なのである。
例えば,化学が元素をより基本的な,エレクトロンやプロトンの活動によって定義し,それによって我々は元素が化学変化反応に参加する原子以下の過程(subatomic processes)や,この過程を通して元素に対して原子以下の分子をぶつけることができ,それが別の元素に転換することを説明することができるのである。
元素というものをより基本的な何かの動き(motions)とみなしているところのこれらの概念なしには,我々が観察している化学変化や原子の変化を説明することはできないし,またそれがどのような条件の下に生ずるかを操作的に研究したり,定義したりもできないのである。我々にいえることはただ,ある時点t1おいて試験管の中には,ある内容A,Bがあったのが,t2ではその内容がC,Dであったということに過ぎない。A,B,C,Dがそれぞれ自らは究極の説明概念でない場合にのみ,我々は一方から他方への変化の説明を期待できる。そしてこのことは人格変化に対しても同様である。もしも我々の究極の説明構成概念が,「内容」であるならば,我々は,まさにこれらの内容が変化することを説明することはできない。
我々はここで人格の定義された内容が存在しないというふうに簡単に結論を下しているわけではない。我々がいいたいのは,もしも人格を内容として定義するだけで,それ以上,より基本的な形での定義を行なわないならば,まさにこれらの内容がどのようにして変化するのかを説明するために,同じ概念を用いるのは無理だということである。そして人格(および重要な人格変化が当然生ずるに違いないと思われる部位 respects)を定義づけているものが,今まではまさにこれらの内容であったと考えられるから,人格理論によって変化を説明しようとするときに我々はまさしくこの理論的に不可能な課題に向きあうことになるのである。
たとえば,心理治療をうけている間に患者は,これらの本質的な内容(それらは心理治療者が用いる特定理論の語いが何であろうと,それぞれの語いにおいて概念化されるであろうが)を最終的に悟る(realize)に至る。彼は今や自分がそれまでは「敵意」に満ちていたこと,あるいは自分が「かたよった,固着的な性の欲望」から感じたり,行動したりしていたこと,あるいはまた自分が「父親を憎悪している」こと,自分が「受身的依存的」であること,あるいはかつて「子供として愛されたことが全くなかった」ことなどを悟るのである。「今はどうか?」("Now what?")彼は尋ねる。こうした上記の内容はどのようにして変えられるのか?いかなる方法も与えられていない。これらの内容が実際に,まさに変化するということは我々にとって幸運である。諸理論は,これらの「体験」とか「要求」とか「欠乏」といった定義された内容を用いて人格を説明している。諸理論はこれらの内容がどのようにして,溶解し,かつある異なった性質のものになるべく(それまでの)自らの性質を消失するかを説明することができない。だが,内容がいわば溶解し,もとの性質を失うという事実は存在するのである。
そこで人格変化についての我々のもつ第二の基本的問題は,この「内容モデル」である。それは次のような質問であらわされる。「われわれが,人格内容の変化過程に適合するような定義づけの手段にたどりつくためには人格の諸定義の本質はどんなふうにして変わらなければならないか?」これに答えるには,定義づけられた内容よりもより基本的,あるいはより究極的な何かを記述することになろう。
そこで,われわれは定義された内容がどのようにしてこのより究極的な人格過程の中に生じてくるかを考察する事になるだろう。
人格変化についての二つの普遍的な観察事実
さて今迄のところで私は人格変化についての二つの基本的な問題(すなわち,気づくようになること,及び内容上の変化)について述べてきたので,次に人格変化についての二つの基本的な観察事実(注7)に移りたいと思う。
前記の理論的不可能性とは対照的に,大部分の人格理論の主張するところによれば,人格変化に伴って,殆ど必ず次の二つの事実を観察することができるとされている。それらは,
1.重要な人格変化に伴って個人内にはある種の強力な情緒的(affective),あるいは感情(feeling)の過程を生ずる。
2.重要な人格変化は殆ど常に,ある進展しつつある直接の人間的な関係(an ongoing personal relationship)という脈絡において生起する.
感情過程(The Feeling Process)
重要な人格変化が起こる場合には,強力な,情動的な,内的に感じられた事象(inwardly felt events)が起こるのを常とする。人格変化についてのこの情緒的な次元に対して,私は「感情過程」という名称を与えたい。この場合「情緒的」("affective")という語よりも「感情」("feeling")という語を私が選んだのは,「感情」は個人によって具体的に感じとられる何かを指しているからに他ならない。人格変化に際して,個人は何かが自己の内部で再び働き出していること(an inward reworking)を直接,感ずる。彼自身のもっている諸概念や構成体(constructs)は部分的にその構造を解体され,かつ彼が感じている体験過程は彼の知的把握を往々にして越えているのである。
重要な人格変化にとって,単に知的乃至は行為的(actional)な働きのみならず,この感じられた過程が必要とされることは今までも様々な脈絡において気づかれていたことである。たとえば様々の心理治療者は(どんな立場をとろうと),ある特定の症例において,この感情過程の存在あるいは不在についてしばしば論じている。彼らは個人が,ある所与の心理治療の時間中,「ただ単に」知性化を行なっていたかどうか,あるいは(彼らの表現に従えば)その個人が「真に」("really")心理治療に参加(engage)したかどうか,について論ずる。前者は,彼らの考えでは,時間の浪費あるいは防衛であり,そこからは重要な人格変化という結果は生まれないだろうと彼らは予測する(注8)。これに反して後者は人格変化の見込みがあると考えられている。
ところでこの差違については普遍的に論じられているとはいうものの,その表現は大概の場合非常に不明確であり,かつ,「単に」("merely")という言葉のあとにくる言葉(たとえば,「単に」知性化している,防衛している,避けている,外在化させている(externalizing),など)や「真に」("really")のあとにくる言葉(「真に」参加して,直面している,対処している)が全く定義を欠いているために,我々はこの差異に対して,丁度「単に」と「真に」の差異に対するのと同じように,ただ両者がこのように違っているとしかいいようがないのである。たとえ十分に述べられていないにせよ,通常「真に」という言葉が指し示すこと,あるいは指し示す意味というのは,何かが「単に」という用語で表現される場合には存在していないところの一つの感情過程なのである。
「単に」と「真に」の間の似たような差違については教育の方でも語られている。事実の「単なる」機械的学習と,何かを「真に」学習すること(自らのものとする,それを「統合したり」「応用したり」「創造的に明細化したり」できるようになること)との対照についてはいつも大きな関心が払われてきた。「真に」学習する場合には結果として観察可能な行動の諸変化が生ずると予測されるが,これに反して「単なる」機械的学習の結果としては殆ど行動変化を生じない(か,あるいは異なった行動変化が生ずる)という予測が立つのである。学習過程は,この二つの場合において異なっているといわれているが,それは個人の「内的動機づけ」の度合い,その人が「新しい素材を内に取り入れる」方法,「自分の学ぶことに専念する度合い」,彼が諸々の意味を真実に把握するかどうかということによって左右されるものである。これらの暗喩的な表現句が示していることは,学習中においてもやはり「真に」と「単に」との差違によって学習過程の中に個人の感情がある形で参加していることがわかるということに他ならない。
この観察事実に関して,心理治療から得られたいくつかの側面ではまだとりあげなかったものを示してみよう。
あるアドラー派の治療者が数年前に私に語ったことがある。「もちろん解釈だけでは不十分だ。もちろん人間は治療者が授けた分別ある名言だけで変化したりするものではない。しかしながら,どんな技術も変化それ自身をもたらしたものが何であるかを表現するものではない。変化ということはある種の情動的消化を通して訪れるものである。だがここで認めなければならないのは,我々のうち何びとといえどもそれが何であるかについてはわかっていないということなのだ。」
治療者というものは,しばしばこの事実を見逃しているのだ。彼らは個人を助けて,彼のもっている問題点をもっとうまく説明させようと努める……。しかしながら,その個人が今や明らかに説明されるに至った不適応をどのようにして変えていったらよいかと聞かれた場合,非常に明確な答えは何も出てこないのである。何となく,彼の問題を知れば彼は変わるだろうと考えられているようだが,知るということは変化の過程とは違うのである。
優れた診断家は,多分,二三の心理測定検査を補助的に用いて,ある個人の人格について,非常に正確で詳細な記述と説明を我々に対して行なうことができる場合が多い。こうして検査をうけ,何回かの面接を終わった後で,治療者と来談者の両者は多くの場合,どういう点が具合悪いか,そしてどの点を変える必要があるかについては十分に知るのである。非常にしばしば見られることだが,治療面接開始時に与えられた(もしくは与えられうるはずであった)記述や説明が,2年間面接を続けたあとで回顧したときに始めて全く正しかったと思われることがあるものである。だが人格についての概念的な説明(これはわずか二三時間でできることである)を知ることと,変化することの実際の感情過程(これにはたいてい何年もかかるものだが)との間には,明らかに大きな違いがある。この過程が何であり,どうやってそれを観察し,測定したらよいか,また理論的にいってこの感情過程がどのように働いて人格変化が可能になるか,といったことについては今まで殆ど何もいわれていない。
直接の人間的な関係(The Personal Relationship.)
たとえ描写や観察可能な形での定義づけや理論的説明は殆どなされていないにしても,人格変化にとって感情過程が本質的に必要だということはいつもいわれてきているが,これとちょうど同じように直接の人間的な関係も,またやはりどことなくはっきりしない形ではあるが,いつも要請されている。
個人が他者との関係の中で生きることで,かくも大きな,決定的差違が生ずることを理論的に定義づけることができるであろうか?われわれの観察によると,個人がその経験や情動について自分だけで考えていても殆ど変化は起こらないことが多い。またこれらのことがらについてその人が,ある何人かの(注9)他人と話しても、やはり変化は殆ど起こらないことを見てきている。
しかしながら我々が「治療的」,あるいは「効果的」なパーソナルな関係をもつとき,すべてこれらの強力な因子は溶け散ってしまう。何故か?ある種の関係において,「暗示」あるいは「リビドーの支持」あるいは「承認と強化」あるいは他者の「治療的態度」あるいは「二つの無意識の間にかわされる会話」によって,ある個人のすべての経験や個人的関係をして,彼の現状を維持せしめるようにつくりあげている諸因子が何となく除かれるのだと我々はいう。今や,何となく,彼は以前には気づくことができなかったことについて「気づくようになるのだ」といわれる。彼は暗示によって「影響をうけ」,転移を「克服し」,彼の「リビドーの釣合」は変更を受け,彼は今やどういうわけか,冶療者の「態度を知覚する」のだ。こうした場合,それまでの彼はいつも他の人々の態度を歪めて予期していたのだった。ところで,上に述べたことは実は,人格変化についての問題点というべきであって,決して説明にはなっていないのである。
しかしながら我々はこれらの変化が殆ど常に,あるパーソナルな関係という脈絡において生ずることを確かに観察している。今までに,人格変化に影響を及ぼすような(そして影響を及ぼさないような)関係についてはいくつかの定義がある。(次章を見よ。Rogers,1957,1959b)しかし,どういう関係事象が如何にして,抑圧をもたらす諸条件や内容の性質と干渉し合ってこれらを変更させるかについては殆ど何もいわれていない。
今までのところ我々は人格変化についての二つの問題を公式化し,ついで二つの観察された事柄を挙げた。個人における感情過程およびパーソナルな関係がこれである。
我々の二つの観察事実と二つの問題とは関連がある。ただ我々にいえるのは,個人にとって自分が何を抑圧しなければならないのかに気づくようになり,かつ彼の人格内容を他の内容に変化させるということは理論的には不可能である反面,人がある深く強力な感情過程及びあるパーソナルな関係の脈絡に関与するときには,上に述べた二つのことが共に生ずることを我々は観察しているということにすぎない。我々にとってこの観察された可能性を理論的に説明できることが必要であり,かつ抑圧の理論と人格構成要素の諸定義を再公式化し,観察された諸変化を理論的に公式化できるようにする必要がある。
三つの代表的人格理論にみられる「二つの問題」と「二つの観察事実(注10)」
フロイトとサリヴァン
以下において私は二つの人格理論を簡単に検討したい。私が示そうと思うのは,これらの理論において,人格変化について我々が公式化した二つの問題(すなわち,抑圧と内容の変化)が中心的な問題であること,および,これらの理論は,問題の解決にとって何となく本質的に重要なものとしてニつの観察事実(感情過程とパーソナルな関係)を挙げているのみで,問題それ自身は未解答のまま残されているということ,この二つである。
フロイト
フロイト派の理論は人格についての用語と新しく発見された事実に関しては非常に豊かであるが,人格変化については多くを語っていない。理論がどういっているか引用してみよう。人格変化に関して,この理論は我々が次のセクションで中心的だとしている二つの問題を公式化し,これらを解決しようとする試みでは,人格変化について我々の示した二つの観察事実の方へと直接われわれを導いていく(但しこの事実の中にまでわれわれを導いていくことはめったにないのだが)。
人格変化についてフロイトが出合った最初の問題は我々が抑圧モデルと名づけたものである。精神分析学の目ざすところは個人をして彼が抑圧してきた決定的経験に気づくようにせしめることである。フロイトは正しい推測や解釈を行なうだけでは不充分なことに気づき,ここに人格変化に関する一つの大きな問題を見出した。というのは個人がもっとも気づく必要のあることはまさしく,彼が,どのような意味ある形においても,彼の聴いた諸解釈からは真に受け入れることができないだろうと思われるようなことでもあるからなのだ。
フロイトが25年以上に及ぶ長い期間かかって通ってきたいくつかの段階を通じて,情報以上の何ものかが人格変化に含まれていることが明瞭になってきた。
『25年間にわたる真摯な研究の結果,今日では精神分析技法の当面の目標は出発点におけるものとはすっかり違ったものになっている。当初,分析医は患者の隠れた無意識を推察し,それを再構成し,そして適切な時にそれを患者に告げ知らせることを目指すだけで,それ以外には何も目標としてもつことができなかった。精神分析学は本質的に推察術(divining art)であった。さてこういったやり方では治療という課題は解決されなかったので,すぐに次の目標が提示されることになった。それは構成されたものを患者が自分自身の追想を通して確認するように彼に強く要請することであった。この目標に向かって努力するにあたっては,患者の抵抗ということに最も重点が置かれた。今や,できるだけ早くこれらの諸抵抗を露呈させて患者にそれらを示し,人間的説得(ここでは転移として作用するところの暗示の状況)を通して患者が諸々の抵抗を放棄させるように動かすことが術となったのである。
しかしながらこれらについで,無意識を意識化するという目標はこの道を通しても十分には達成されないことが全く明白になったのである。患者は抑圧されたものをことごとくは想い出せない。おそらくは本質的なものこそ想い出すことができない。したがって,彼は自分の聴いた構成されたもの(解釈)の正しさについて確信を得られないのである。』
(フロイト,1920,p.16,邦訳p.18)
これらの観察事実は今までに繰り返し何度も確認されてきたことであり,簡単に片づけることのできないものを含んでいると考えるべきである。しからは,一体人格変化はいかにして可能なのか?人格変化は抑圧されたものの意識化に依存しているわけだが,このことは循環的かつ自己維持的方法(a circular and self-maintaining way)をもってしては不可能のように思われるのである。
フロイトはこれに対して二つの解答を与えている。彼によると人格変化が可能になるのは結局の所,次の二つの条件がみたされた場合である。「徹底操作」("working through"),及び「転移の克服」を可能ならしめる分析家との直接の人間的な関係がこれである。我々はここに前述の二つの観察事実を認めることができる。
フロイトが「徹底操作」および「転移の克服」について書いたものを見ていくと,これら二つの条件がどのようにして変化ということに影響を及ぼすかについては何らの理論的叙述もないことに気づくのである。ただ多かれ少なかれ 「何となく」それらのことが影響を及ぼすことが観察されているのである。
さらにまた,フロイトからの以下の引用において,抑圧が除かれる(lift)だけではなく,本能の内容それ自身も変化しなければならないと述べられていることに注意していただきたい。フロイトは我々の提起した二つの問題を共に公式化しているのだ。すなわち,抑圧モデルだけではなく内容モデルをも考慮に入れているのである。人間の感情と人格の諸様態に対して,そのすべてを被う複雑な語いを創造したことはまさにフロイトの巨大な業蹟であった。アダムのように,彼は広大な植物誌,動物誌の領域に入っていってそれらを区別し命名した。たとえどのように完璧に我々が彼の定義様式や諸概念を変更する必要を感じたとしても,彼の果たした大きな貢献は残るのである。この全領域は彼によって一度だけ開発されて,多少とも洗練された相互主観的コミュニケーションが可能になった。しかしながら我々が人格変化について問うときに気づくことは,殆どすべての概念は,人格の内容の記述であって,その内容そのものは変化への必要を意味してはいても,それらが変化しうる様式に関しては何も与えられていないということである。所与の内容は基本的,本能的水準において不適応(maladaptive)であり, 本能水準における変化の過程については何の概念化もなされていない。
このようにフロイトの理論は変化について二つの問題を公式化している。1)抑圧モデル 2)本能の内容それ自身,これら両者に対して知的情報をもつこと及び個人が解釈者と協力して解釈をうけ入れるという決定を行なうというだけでは不十分だといえる。覚知すること及び内容が変化すること,この両者が実現するためにはもっと深い変化過程が要請されるのである。
フロイト理論はこれら二つの問題を「反復強迫」という理論概念によって見事に体系立てて説明した。(しかるに)「反復」という語こそは反応様式を新しく変える傾向をもつ新しい環境が与えられてもなおかつ変化しないこと,あるいは変化に対して抵抗することを意味する。はじめに指摘したように,これこそまさに人格変化の問題なのである。
「反復強迫」によって個人は抑圧されたものに気づくよりもむしろ自分の古い反応様式を反復するのである。このことはまた基本的な本能内容それ自身は新しい諸事象によって変化をうけずに(逆に),事象の上に古い同一の知覚と反応の型を押しつけることをも意味している。これらの本能内容は抑圧され,抑圧を強要し続ける。それらは変化を必要としているものであり,しかもそれらが反復を強要するのである。
初めフロイト(1920)は次のように書いた。『この反復強迫をもっと理解できるためには,……人は"無意識"の抵抗と戦いつつあるのだと考える誤りから自由でなければならない。無意識すなわち抑圧されたもの"は治ろうとする努力に対しては何の抵抗をも示さない。それはただ……"突破する"……ということ以外には何も求めない。』
後になって彼は,真の覚知が可能になる以前であっても,本能内容それ自身にある変化が起こることが必要だと書いている。
『われわれの経験では,自我はその抵抗を捨てる決心をしたあとでも,抑圧を解消させるのにいつも困難を感じ,この立派な決心のあとに,「徹底操作」(working through)といわれる緊張した努力の時期がある。さてこの徹底操作を必要とさせ,またその意味を明らかにさせる力動因子を認めることはたやすいことである。それは自我の抵抗がなくなったのちにも克服さるべき反復強迫の力はまだ存在することに他ならないのであって,この反復強迫はその無意識の原型が抑圧された本能過程に対して発揮するところの引力(ともいうべきもの)である。』(フロイト1930p.105,邦訳1955,p.269)
この引用から気づくことは,「反復強迫」はその力を本能内容それ自身から引き出しており,これらは覚知されねばならず,かつ,ともかく変化しなければならないということである。変化をひき起こす方法としてフロイトは次の二つを提唱する。第一は彼によって「徹底操作」と名づけられたことは上述の引用にある如くである。そして第二の方法は「転移の克服」と名づけられた。
『これらすべての望ましからぬ諸原因と苦痛な情緒は,神経症者によって感情転移の間に反復され,きわめて巧妙にあらたな息吹きをあたえられる。彼らはまた治療を中絶させようと努め,侮辱される感じを受けるようにふるまい,医師が自分たちに対してきびしい業と冷淡な態度を示すように仕向けることを心得ている。』(フロイト,1920,邦訳p.22)
『患者は抑圧されたものを医師が望むように,過去の一片として追想するかわりに,現在の体験として反復するように余儀なくされる。この反復は望ましいことではないが確実に起こるものであって,内容的には小児の性生活の特性が部分的に含まれている。……原則として……医師は……患者の忘れた過去の助けを借りて,患者が過去と現在に関する多少の時間的展望をのこしておけるように心をくばらなければならない。これがうまくいけば,患者の(解釈の正しさへの)確信と,それに伴う治療上の成果がえられるのである。』(フロイト,1920,邦訳p.18~19)
今や「転移」それ自身が変化をもたらすものでないことは明らかである。転移は古い変わらざるものの反復なのである。医師は(我々が見てきたように)反復ではなくて意識された記憶が心に浮かぶのだと考えたいところであろう。人格変化を生ぜしめるのは転移そのものではなくて,その「克服」であり,その「処理」であり,あるいは転移を過去と現在という時間的展望において把握することであると主張されている。しかしながら,古くから在る抑圧や内容によって,新しい関係の歪みを理論的にうまく説明できるにしても,変化を起こさせるところの「転移の克服」や「転移を過去,現在の時間的展望においてとらえること」を説明するような理論を我々はもっていないのである。実をいうと,我々はただ単にそれをうまく説明できないというだけではなく,反復を促進していた否定的な力がいかにして,「克服」とか「展望」とかいった単なる言葉と共にさっと追い払われてしまうのかについても何のヒントも得られないのである。
「徹底操作」と「転移の克服」という事実は観察されたが,それらの理論的追求は忘れられてしまったまま,フロイト理論は「反復強迫」を単に変化の問題,すなわち変化に抵抗する力とみなしただけでなく,(19世紀にすべてを規制していた,あの)「快感原則」を「越えた」ものとみなす方向に進んでいったのである。この不快な反復ということはフロイトをして,変化に抵抗する力というものを仮定せしめ,さらにこの力が非常に強力であるところから,フロイトは「死の衝動」という考えに到達し,さらに彼があれ程誇らかに重視していた「快感原則」でさえも,実はこの死の本能に仕えるものであるということに気づいたのである。もちろん,我々は,一般に非常にしばしば考えられているように,フロイトが人格の内容や定義は,不変の,否定的なものだと主張していたと考えるには及ばない。逆に彼は,積極的な変化は立派に起こると主張している。ただ我々が知りたいのはその変化がどのようにして起こるのかということなのである。
フロイトが二つの中心的な問題,すなわち抑圧と内容変化に関して示した系統的な説明はうなづけるものである。我々はまた,人格変化に影響を及ぼすものとして,彼が引用している二つの中心的な観察事実にも同意できる。それらは個人における「徹底操作」及び彼が「転移の克服」と呼んでいるところの直接の人間的な関係の脈絡の二つである。
しかしながらフロイトの理論では,変化をもたらすところの観察された過程は説明されていない。フロイトの多くの論文は―たとえば以下に引用するものなども―この「転移の克服」と「徹底操作」過程というところでどれもが符調を合わしたかの如くピタリと終わっている。
この二つについてわれわれは理論的理解を欠いているにもかかわらず,すべての変化がこれによって規定されているのである。
『私はしばしば初学者から,患者に抵抗を教えてやったのに何ひとつ変化が起こらなかった,いやむしろ抵抗ははじめ非常に強くなり,分析の状況は全体にわたってますます見通しがつかなくなってしまった,といって訴えられ忠告を求められる場合がある。
……分析医は,抵抗を口に出していいさえすれば,その結果として直ちに抵抗が止むというものではないことを忘れていたのだ。患者が知らなかった抵抗を深く知るようになり,それを「徹底操作」し,それを克服するためには,彼に時を与えなければならない。……
分析操作のうちで,このような「徹底操作」という部分こそ,患者の上にもっとも大きな変化をもたらす影響力をもち,分析治療法を暗示によるさまざまの治療法から区別せしめるものなのである。』(フロイト,1914,邦訳p.170~171)
サリバン(Sullivan)
サリバンはG.H.ミード(Mead)の考えを用いて,いくつかの基本的な理論教法を提唱した。われわれはこれらの概念にあって,人格変化の理論に向かって大きく前進したのである。その説明法はフロイトに比べると,ずっと個別的,特殊的であり,かつわれわれにとって利用度の高いものであるが,彼が説明したのは,心理的内容が環境と有機体との相互交渉の生理的過程のあらわれとしてどのような姿をとるかという点であった。彼は,相互交渉の進行過程において人格内容の変化をもたらすと考えられる一つの理論的な枠組を設定し,発展させた。これによると,抑圧は有機体的緊張の解消が行なわれなかった(missing)ことであり,かつ有機体的相互作用が完了しなかった(missing)ことであると考えられている。そうだとすれば,相互作用においてうまく緊張を完了(解消)することで,どのように「抑圧」が「除去」(lift)されるかということも当然理解でぎるであろう。
しかしこれについては後でとりあげたい。というのは不幸にしてサリバンは彼の革命的な発想が提供している変化の理論のもつ諸々の可能性を十分には展開することなく終わってしまったからである。本論文の後の方で(定義5,6,8,9,15)我々は彼が示してくれたいくつかの基本的な考えを,彼とは異なる,我々独自のやり方で解釈し,利用するであろう。
ここではサリバンの理論が彼の革命的な発想"conceptions"と私が名づけているものと並んで)やはり「抑圧」と「内容」という二つのモデルをある形で持ち続けており,そのために人格変化ということが単に説明されないのみならず,変化自体が理論的には不可能にされていることを示したいと思う。
ここでもまた同じ二つの基本的問題が提起され,かつ同じ二つの主要な観察事実が人格変化に関して,それを説明はしないまでもそのことが起こるのだという主張の根拠として要請されている。サリバンの理論はこれら二つの問題と二つの観察事実とを多少洗練し深めたといえる。
まず初めに,サリバンは,他からは引き出すことのできない一つの基本的なそして純粋に否定的(negative)な人格要因を見出す。それは「不安」である。
『不安の問題に至る迄に乳児について私が論じてきたことは,乳児における他の生活体との接触の要求について私が与えたヒントを除いては,すべて生物学的に必然的な共社会的(communal)存在としての乳児の働きであった。しかるに今,不安を論ずるにあたって私は,幼い生活体のもつ生理化学的(physicochemical)な諸要求とは如何なる点でも何の関係もない何かに逢着している。』(サリバン,1953,p.42)
サリバンにおいては,体験,感情,行動,および相互作用のそれぞれの間には,ある連続性がもっとも具合の良い形で存在していると考えられており,不安というのはこの連続性の中には何ら肯定的積極的基盤をもたないのである。
さらに不安……とくに「ひどい」不安……は,体験や動機を無意識化し,「おおい隠して」「私ではないもの」(not me)にしてしまうようなある体系を人格の中に創り出す。
『自己体系が発達するにつれて,それはますます顕微鏡に似た機能をもつようになる。重要な人の是認は非常に価値があるものであり,否認は満足を否定して不安を与えるものであるから,自己というものが極めて重要となってくるのである。是認や否認の原因となる子供の諸行動に自己が微細に焦点を合わせる反面,ちょうど,まさに顕微鏡のようにそれは人がそこ以外の世界に注意することを妨げるのだ。』(サリバン,1940,pp,20~21)
『自己というものが覚知の監護人(あるいは管理者)になるのみならず,何か自己にとって歓迎できないような目覚ましい出来事が発生した場合には……不安があらわれるのだ。それはあたかも,不安というのが究極的には自己が人格の内で自らの孤立を維持するための道具になるかのように思われる。』(サリバン,1940,p.21)
ここにもまた,順応と変化に抵抗する力があり,抑圧モデルという閉じた輪がある。というのは自己を変容させようとする体験そのものが同時にその自已によって意識から閉め出されているからである。
かくして人格や行動を規定するところのあらゆる種類の「おおい隠された」過程があり,「おおい隠された動機体系」や「私ではないもの」という経験が存在するが,それらはいつまでも自己体系と覚知からは排除されているのである。事象がこれらの経験に対して注意を換起しようとすると不安があらわれる。不安はまず第一に過去においてそれらの経験を覚知から閉め出したものであり,現在では変化に抵抗して,自己を維持しようとする性質を自己体系に付与するものに他ならない。
第2の基本問題……すなわち人格の内容は(単に気づかれるのみならず)それ自身,変化するという事実……もまた理論的には不可能になっている。
もっとも変化を必要としている人格側面は「並列的」(parataxic)な特性をもつ。サリバンの使い方によると,この語は,まず第一に経験が原始的水準においてしか体制化,組織化されていないことを示している。そのような諸経験を理解することは普通にはできないことである。それらは彼とある関係をもった他者の上に投射される。この事実から,この語をより一般的に使って,他者についての誤った知覚を記述するための言葉という用法が出てくる。しかしながら元来,この語は〔原語法的(prototaxic),および統括法的(syntaxic)と並んで〕経験を組織化する一つの様式として定義されている。「おおい隠された」あるいは「私ではないもの」という経験は主として並列的なものである。何故なら,それは最適の (統語法的 syntaxic)組織化以前の発達段階において生ずるからである。同様に不安もまた,組織化がうまくいくことを妨げるものである。
『……不安というものは……頭に一発くらった時に多少似たような影響を与えるものである。というのは,人は不安が激しかった時にどんなことが起こっていたかについて,あとになっては全く定かではないのである。……しかしながら不安によって,想起が妨害されるわけではない。むしろ次々と十分に想い起こすことができてきて,その結果……人は,ひどい不安のために何もかもが秩序を失ってしまった時に,自分の行為が何に向けられていたかについてのある感じをもっており,……こうして誰もが「何か得体の知れない,禁じられたもの」(uncanny taboo)のもつ諸々の姿に出会うのである。……』
(サリバン,1953,pp.160~161)『得体の知れない不気味な感情の目立つ経験は私でないものというパーソニフィケーション(注11)に組みこまれ,それは,原因,結果とは明確に結びつきえないものである。それらは後になってわれわれが思考過程(referential processes)を説明するのに用いるような極めて鮮明な方法をもってしては,扱えないものなのである。……それらは生涯を通じてずっと比較的,作為的な努力を伴わないで自然にあらわれてくる原始的で,手を加えられていない並列的な象徴であり続ける。』
(サリバン,1953,p.163)
これらの"並列的"な諸経験には上記のような性質があるので,自己体系は不安と共にそれらを覚知から排除する。同特にこれらおおい隠された内容は"並列的"な様式をもっていて,「得体の知れない不気味な」感情を伴っているので,経験を分化させ,先見し,体制化するといった通常の過程に従わなくて良いのである。いってみれば,過去において,経験を体制化するための貯えとしての過去の事象が不十分だったのである。不安が「すべての体制を破壊してしまった」ので,その結果非常に不完全で並列的な想起になってしまったのである。
それでは望ましい人格変化というのは一体どのようにして起こるのであろうか?サリバンも同じく二つの観察事実を引用する。(1)人格変化はまさしく直接の人間的な関係という脈絡において,起こるものである。(2)そしてそれは個人内において深く感じられた徹底操作過程を伴って生ずる。
ここでもわれわれは治療関係に関し,本質的であって,もっとも明快に解決された局面は変化に抵抗する局面であるということ,個人はその並列的な経験を変更する代わりに反復し,あるいはそれらを関係に投射するという事実を見出すのである。
『ある女性患者との約300時間目の面接のときのことだが,彼女は奇妙に興奮した状態で私と一緒に面接室に入った。そして彼女のいうには,それまでに彼女が見ていた私と,そのときの私とは彼女には全く別人のように見え,そのことに気づいてすっかり気が転倒してしまったとのことであった。彼女が知っていた私は太った白髪の老人であった。……これは治療状況における精神医についての並列的歪曲の極端な実例をわざと単純化して示したものである(注12)……。
我々が問題にしている彼女の祖父像が、患者の生活史の中で彼女の祖父にふさわしいところに位置づけられた結果,このお祖父さんが彼女の発達過程において果たした役割について我々が何かを知ったとき,治療状況の性質は暫定的なものではなくなって,持続的効果を産み出すようになったのである。
ある患者の遠い過去から未解決のまま現在に至っている諸状況が,現在の状況の知覚や,その状況の中でのあまりにも錯綜した行為をどのように色どっているかを我々が明快に間違いなくしかも具体的に知るまでは,人格素材の再体制化や治療的に有意味な自己拡張,あるいは自己の行為の錯綜性への重要な洞察、さらには自分に関連のある他者の行動が何故予期できずしばしば当惑をもたらすかといったことについての重要な洞察などはいずれも起こり得ない。』 (注13)
(サリバン,1940,pp.205~206)
ここでは人がどのようにして,結局は「ズレ」に気づき得るかという点についての観察はあるが,それについての説明はないのである。すなわち,結局は,歪められていないものとしての現在に気づくようになるという観察なのである。そしてその結果,現在とこれまで知覚してきたものとの間に存在するズレを知るようになると考えられる。だが,このことが一体どうして起こるかというのが人格変化の基本的質問なのである。
この「転移」あるいは「並列的な歪み」,それ自体は変化に強い影響を及ぼす要因ではないことにも留意されたい。変化に強い影響を及ぼす要因は,ズレに「気づくようになる」という(何か神秘的な)ことである。これは単なる知的な過程ではあり得ない。
『たとえ,いわれた言葉の意味が比較的わかり易い場合でさえも、その言葉の意味を即座に捉えることはまずでき難いことである。言われた言葉が我々の生活の種々な面や他人と我々との関係に関する場合,たとえその言葉の含蓄する意味と矛盾するものが何もなくとも,その言葉の意味を把握する行動そのもののうちには過去におけるその言葉と関連の深い経験が時には容易に気づかれるような矛盾や明らかな誤報すらも含めて広範囲にかかわってこなければならないのである―さらに言えば,もっと別の要因,具体的には全自己体系―はあるべき姿としての治療状況の考えに含まれるある内包とは一致しないのである。』(サリバン,1940,pp.206~207)(注14)
我々が検討してきた二つの理論は覚知及び人格内容の望ましからざる変化の諸問題を明らかにする。しかしながら,かかる変化が結局の所,個人的人格的関係の脈絡において生ずるものであり,かつ単なる知的なあるいは言葉に発せられた過程としてではなく,何か深く感じられた過程によって生ずるのだという観察事実について公式化して表現するには至っておらず,単にそのことを指摘するに止まっている。
ロジャーズ
主要な発見:ロジャーズの発見は実践的にはある個人がその抑圧モデルを克服するには如何なる援助をうけることができるかという方法に関連している。
ロジャーズは我々が相手に対して「その人自身の内的枠組にのっとって」("within his own internal frame of reference")反応を行なうならば防衛や抵抗が除かれるということを見出した。(注15)この表現は心理治療家の反応は常にクライエント自身の瞬間瞬間の覚知の中に直接存在している何かに向けられるということを意味している。
ロジャーズは最初次のことを発見した。たとえ治療者がクライエントの伝えていることをただ反復していう以外に何もしなくても……即ち,もしも治権者が瞬間瞬間にクライエントから伝えられることを受けとめ,正しく理解しているのだということをはっきりと示すならば……ある非常に深い自己推進的(self-propelled)変化過程がクライエントの中に始まり持続する。個人がこのような形で理解される時には,彼の中に何かが起こるのである。(注16)
彼がまさにその時直面していることの内にある変化が生ずるのである。何かが溶け,自由になってくるのである。そしてクライエントの内に,さらに何か他のことを言いたいという動きが出てくるのだ。そして,もしこのことも受けとめられ理解されるならば,何かがさらに表われてくるのだ。それはかかる一連の自己表明とそれへの反応が生じなかった場合にはその人が考えもしなかったし(またかつて考えることもできなかったような)ことなのである。
さらにロジャーズは次のことをも見出した。クライエントが今伝えたいと願っていることを治療者が適確に概念化しようと努め,また,この目標をクライエントにはっきりと判らせておくならば,彼はクライエントがそれまで理解していたよりもはるかに深く適確にクライエントが今伝えていることを明らかにして行くことができる。例えば,あるクライエントが自分について起こった外面的報告とそれにまつわる一般的怒りの感情について長々と語ったとする。これを聴いた後で治療者はクライエントが自分自身に対してもまた治療者に対しても,はっきり伝えようと意図しながら意のままにならず苦しんでいた特定の感じられている意味(felt meaning)を感知しうるのである。このようにして,その治療者はクライエントの長い状況的報告に反応して次のように言うであろう。「あなたの言われたようなことが起きて,自分が無力だと思うのがほんとに怖ろしいのですね。」
ロジャーズの見出したところによれば,解釈,演鐸,概念的説明が無益であり,普通抵抗をもって受けとられるのに反して,クライエント自身がその瞬間感じている意味に治療者が的確に言及することは,殆どの場合,クライエントによって喜んで迎えられ,さらにクライエントを自らの束縛から解き放ちより深いより進んだ自己表明と覚知へと向かわせるのである。
私はこれを図式的にコミュニケーションの二つの次元として考えたい。
一つの方向軸(例えば水平軸)に並べられるのは,ある人がいったことから我々がその人について演繹もしくは列挙する様々の他の事柄,即ち彼の背景,彼の日常行動,彼に生じ易い感情のパターン,彼の特性,等々……である。このことは我々が概念とか一般化によって,彼が今感じていることからは離れ,彼が今は感じていない,他の事柄に向かうことに他ならない。
他の(垂直の)次元は,いかなるコミュニケーションも内面的には(inwardly),今感じられている,諸々の感情,知覚,意図,判断,願望などのかたまりに言及しているという事実にもとづいている。あるコミュニケーションが言葉という面ではほんの少ししか語っていない場合でも,そのコミュニケーションは話し手に覚知されて今感じられていることに多分に依存している。このように我々は話し手に対して表面的に反応することもできるし,深く反応することもできるが,いずれの場合にも我々は話し手によって今覚知され,感じられていることの範囲内に止まっているのである。
ロジャーズは,〔クライエントの〕防衛の限界が広げられる前に,〔治療者の〕反応がどのようにしてクライエントの感じられた事柄に達し,それに影響を及ぼすかを発見した。クライエントがどのようにしてかかる反応を十分にとり入れうるかを我々が正確に説明し得たときに始めて,クライエントの防衛の限界がどのようにして治療的反応によって広げられるかということの説明もまたおのずと可能になるであろう。しかし,問題点は個人の抑圧とその限界及び現在の状況下において働いている力があった場合に,その人の防衛と既に折り合わなくなっていたものが一体どのようにして入り込みうるのだろうかということであった。
私はそれをロジャーズの「発見」と名づけた。なぜならそれは理論でも仮説でもなく,一つの観察事実だからである。誰でもこの観察事実は確かめることができよう。その観察事実は二つの部分から成りたっている。
1)覚知され、現在感じられている意味への反応という垂直の次元に沿っての深い反応は,クライエントによって喜んで迎えられ取り入れられる。
2)この種の反応を継続して行なうことによって,個人の中に深く感じられ,かつ再体制化していく深い変化過程が生じ,それはクライエントも治療者も共にあらかじめ計画したり期待したりしたものとは全く異なった予測できない一連の感情に沿って,自己推進的に一つの新しい自己表明から他へと移り動くものである。
この発見の一つの意義を最初に指摘しなければならない。反応は防衛限界が広げられる以前に,個人の中に入り込みうる。なぜたら反応が言及し,さし示す対象は個人の概念(concept)でも,彼の自己構造や構成体でもなく,彼が今体験する(あるいは「感ずる」)ことのできる何ものかだからである。もしも仮に個人の中に概念と構成体しかないとしたら,治療者はこれらのものに正確にあわせて(conform)いかざるを得ないか,さもなくば防衛の限界を越えるしかないのだが,実際には個人には如何なる瞬間においても,ある感じられてはいるが大部分象徴化されてはいない,「意味」あるいは「感情」(feeling)ないしは「経験」という一つの領域が存在しているので,治療者はこれに反応することが可能なのである。治療者はクライエントの言葉にただ反応するのではなく,その言葉の中に含蓄されているものに反応するのである。
言葉と概念は上記の「経験」がになっている特殊の意味をもつにすぎない。他方,ある人の個人的コミュニケーションは常に彼の発する言葉の意味のみならず,各瞬間に感じられはするが充分には述べられていない,「体験的意味」(experiential meanings)の全領域を含んでいる。これらが彼の「内的枠組」を作りあげているのである。
かくして防衛的限界の中に反応を通じてどうやって入り込むかというロジャーズの発見は従来の人格理論に直接体験についての考察をつけ加えたのである。
広範な理論的変更(注17):さて,ロジャーズが基本的人格理論に導入した主要な変更について述べよう。私の信ずるところでは,この理論的変更は彼の発見として上に述べてきたことから直接引き出されるものである。
ロジャーズは彼に先立って存在していた理論の基本的概念のいくつかをそのまま引き継いだが,ロジャーズの見解ではそれまで人格にとって本質的と考えられていたものは単に人格のもつ否定的で,不適応的な局面に過ぎないとみなされるに至ったのである。これら旧来の概念と並んでロジャーズは人格の新しくより基本的な経験的局面というものを導入する。
以前の理論は,普通人格を構成されたものとして,かつ本質的には他者の,より広くは社会の感度,意見,判断によって形造られたものとして定義してきた。例えば,フロイトの考えでは人格は本質的に文明化された社会が個人に課しているいろいろの限定を含んでおり,それ故,本質的に抑圧と昇華を免れ得ないのである。同様にサリバンは次のように書いている。(1940,p.22)『自己についての他者の評価が反映されて自己を形造ると言って良い』ロジャーズも抑圧の存在及び自己概念が他者の態度によって形造られることには同意し(注18)ている。ただ彼はこれらの事実を人格と同じものとは見做していないのである。
人格理論についての大部分の基本的概念に対して,ロジャーズは再公式化を行ない,その際旧来の理論について次のように述べている。『然り,我々はまさにこれらの事実を観察している。しかしながらそれらは人格ではない。それらは基本的人格の上につけ加えられた不適応なのである』そこで彼は,このより基本的人格を公式化すべく新しい諸概念をつけ加える。
例えば,基本的人格は抑圧によって形成されるものではない。抑圧は起こるのだが,基本的に人格は抑圧から自由でありうるし,全ての経験「に向かって聞かれている」。「取り入れ」(introjection)は,次のことに対してロジャーズが用いた用語である。
……ある個人にとって重要な意味をもつ他者のポジティブな関心(regard)が条件つきのものであるとき,即ち個人がある点に関しては尊重され他の点に関しては尊重されていないと感じる場合……この様な態度は次第にその人自身の自己関心複合体(self regard complex)に同化され,かくして彼は他人から引き継いだこれらの価値規定条件(conditions of worth)のみによって,自分の経験を肯定的,あるいは否定的に評価し,経験が彼自身の生活体を拡張するかしないかという点にはまったく注意をむけない。(ロジャーズ,1959b、p.209,邦訳p.20)
従前の理論において,基本的に人格を構成すると考えられていたこの「取り入れ」の概念と対比してロジャーズが基本的とみなすのは,次のようなことである。
……生活体の経験する価値づけの過程(the organismic valuing process)……諸経験は個人が生活体(オーガニズム)として経験する満足感に基づいて刻々と適切に象徴化されていき,持続的にたえず新たに価値づけられていくという過程をたどるのである。……価値はこのように一つの前進的な過程をたどるのである……(ロジャーズ,1959b,p.210)
このようにロジャーズは取り入れは人格の本質ではないと主張する。事実,「価値規定条件」(conditions of worth)がなく,その代わりに「無条件の」(unconditional)ポジティブな関心がある場合に発達する真実の(genuine)人格にとって取り入れは有害である。ロジャーズの主張によれば,全生活体的価値づけの過程をして個人の唯一の行動基準たらしめることが,個人的にも社会的にも最も安全なのである。かくして個人は自己の経験の持つ他の諸側面と調和しうる,社会的期待にかない,他者とより良い関係をもち,また他人を援助するという様々の満足感を体験する。全生活体として価値づけをすることによって個人はこれら多くの点を最もうまく調和させることができるであろうし,彼の経験のもつ様々の側面を微妙かつ新鮮な形で活用し実現化することもできるであろう。このように,「取り人れ」は生ずるがそれは不適応的であり人為的である。全生活体としての価値づけは順応的であり,かつより基本的である。
同様にロジャーズの理論には自已についての他者による評価から部分的に成りたっている評価体制(an organizations of appraisals)としての「自己」という考え方も残されている。
自己,自己概念,自己―構造(注19):これらの用語は,ある体制化され一貫性をもった概念的ゲシュタルトをさしている。この概念的ゲシュタルトを構成しているのに,「主体としての私(主我)」(‘I’)とか「客体としての私(客我)(‘me')のもつ諸特徴についての知覚,および「主我」や「客我」が他人や生活のいろいろな側面とどのように関係し合っているかについての知覚,さらにこれらの知覚に付随している諸々の価値なのである。(ロジャーズ,1959b,200,邦訳p.184)
自己というのは,ここでは自己概念及び評価(appraisal)という語がいみじくも示しているように一つの「概念的な」ゲシュタルトである。しかし,ここでもまた自己についてのこうした考え方が(人格を作りあげているものについての昔の考え方としては同意できるにしても)現実に我々に与えるものは,単に否定的,人為的,非順応的ないしは不適応的側面に限られている。
連続体の画定した〔不適応の〕極限では個人的構成概念(personal constructs)は極端に硬く,構成体とは認められず,外部的な事実とみなされる。経験はこのような意味を持っているとみなされている。個人は自分が経験をこのような意味をもつものとして構成化してきたことには全く気づかない。(ロジャーズ,1959a,p.103)
ここでロジャーズは個人的構成概念の硬さ,及び個人が自分自身及び自分の経験即個人的構成概念とみなす事実の両者をともに不適応と規定している。不適応な個人は自分が経験を構成化しているということを認めない。彼は自分の作った構成体を事実とみなし,ありのままの自分の姿とみなすのである。
そこで次にロジャーズは人格のもっと適応的な諸段階について述べる。
自己はますます単純に主観的なものとなり,体験しつつあるものが反射的に覚知されたもの(reflexive awareness)となる。(ロジャーズ,1961a,p.153)
〔連続体の最も適応した極限においては〕自己は,感情を休験している,過程の中に存在する。……いかなる所与の瞬間においても自己は体験しつつあるもの(the experiencing)である。(ロジャーズ,1959a)(注20)
……自己は本質的に体験しつつある過程が反射的に覚知されたものである。それは知覚された対象ではなく,過程において確言をもって感じられる何ものかである。それは防衛さるべき構造ではなく,内的体験過程の豊かで変化していく覚知である。(ロジャーズ,1959a,p.103)
今や不適応的側面とみなされるに至った古くからの諸定義は,いずれも構成概念,判断,及び構造から成りたっているのに反して,ロジャーズは常に人格のより基本的で適応的側面は,経験から直接成りたっているとみなしていることに留意すべきである。我々が他人から「取り入れる」のは構成概念であり,判断(過程を経ずして得られる結論)であり、評価(appraisals)である。我々は経験を用いる代わりにそれらを用いるのである。最も望ましい適応状態においては,我々はこれらの判断を用いずに他の判断を用いるわけではない。その代わりにわれわれは評価や行動の基盤を直接,経験に求めるのだ。
ロジャーズは自己の実践にもとづき,人は防衛や構成体や概念から離れて自らが刻々当面する経験されたもの,ないしは感じられたもの(felt data)に直接反応しうることを発見した。私見によれば,ロジャーズが前記のことを基本的なものとして新たにつけ加えるに至ったのはこのような彼自身による発見に直接由来している。
この直接経験された次元はより基本的かつ具体的には人間存在(human being)である。そしてこの直接経験された次元を介して積極的改善的変化過程が生ずるようになり,はるかに順応的で建設的な人格をもたらすことができるのだ。
ロジャーズの理論における「内容モデル」(注21):先に我々は人格変化のどの理論においても基本的でありながら未解決の問題を二つ規定した。我々はそれらを「抑圧モデル」及び「内容モデル」と名づけた。ロジャーズの理論にはこれら両者が未解決のまま残っている。ただし,彼の理論ではそれらの解決への方向が明瞭に示されている。まず最初に内容モデルについて考察しよう。
ロジャーズは人間経験があたかも「諸経験」という単位から成りたっているかのように書いている。例えば、「彼は父親を嫌っている。」というのは一つの経験単位である。人格が変化していく際にクライエントは「それらに」(これらの諸経験あるいは内容に)気づくようになり,「それらを適切に象徴化し」,さらにそれらを彼の自己概念の中に「包含する」のである。個人はその「自己概念」がその人のすべての経験と完全に「一致している」(congruent)とき,すなわち自己概念の内容と経験の内容とが等しいときに完全に適応している。(注22)
ロジャーズの主張によれば,いかなる経験も本来的に不適応なものはない。「経験についての」覚知の欠如のみが不適応を引き起こす。「それについて」気づくこと及び「それを」自己概念に含めることが経験をして適応的ならしめるのである。我々は問わねばならない。人間の経験には悪と苦痛が優位を占めることを知るが故に……いかなる経験も人がそれに気づく限りにおいては,それ自身不適応的ではないというのはどういうことであろうか?いかなる意味において,個人はそのすべての判断や行動の基盤を自らの有機体的感情におくのだといえるほど信頼しうるのだろうか?個人がその知覚や決定や行為の基盤をその感情だけにおくならば,すべての社会的対人的問題は最もうまく処理できるだろうとロジャーズが主張する時,彼はどのようにして,そのことを我々に納得させうるのだろうか?
過去数十年における社会心理学の諸発見を考慮にいれるならば,文化とか訓練とか,知的操作……,つまり文明社会の全遺産……の影響はロジャーズの理論ではどこに位置づけられるというのだろうか?一人一人の人がこれらを自分自身の身体から,新たに創り出さなければならないのだろうか?社会的訓練の役割としては「取り入れ」という,人が適応するためには行なってはならない不適応的な学習の他には何も考えられないのだろうか?また,個人の破壊的衝動については,どうなるのであろう?ロジャーズの理論では人が適応するためには,それらの衝動に気づき,それらを行為に表わすだけで足りるかのように考えられる。
ロジャーズは次のごとく述べている。
〔人格変化において〕個人はその自己概念を改訂して,それを適切に象徴化された自らの経験に一致適合させていくように思える。このようにして彼は自己の経験のある側面が適切に象徴化された場合には,それが例えば父親への憎しみであり,また他の側面は強い同性愛の欲望であること……などを見出すであろう。彼は以前には自己と一貫していなかった所のこれらの特質を,彼が自分自身についてもっている概念を再体制化することによって自己概念に取り入れるのである。(Rogers,1959b,p.206,邦訳pp.194~195)
二,三頁後にロジャーズは次のように述べている。
全有機体的な価値づけの過程とは……価値は決して固定し,硬化したものではなく,経験が適切に象徴化され,かつ,全有機体的に経験された満足感によって何時も新鮮に価値づけられるような進行過程をさしている。……その最も単純な例を我々は,乳児がある時は食物を求めそれに価値をおくが,満腹してしまうとそれには見向きもしなくなる点に見ることができる。(ロジャーズ,1959b,p.210,邦訳pp.203~204)
明らかにいえることだが,もしも個人がただ単に前には排除したものを取り入れ,象徴化するために,彼の自己概念を変更するにとどまり,かつそうした自己概念に基づいて,あるがままに行動するだけだとすれば,その個人はある瞬間は父親を殺すかもしれないし,次の瞬間にはそれに飽和してその考えに見向きもしなくなるであろう。ロジャーズが上記の理論でいわんとしたのはこんなことではない。
どんな著者といえども,著者が証拠立てようと試みた経験的意味を我々が追求できないならば,その人を誤って解釈する可能性がある。観察や洞察を粘り強く追求し,さらにそれらが必要としているように思える再公式化を重ねていくならば,我々の得るところは最も大きいであろう。
個人がある「経験に」「気づくようになり」かつ「経験を正確に象徴化する」とロジャーズがいう場合に,我々は所与の経験が変化を受けないままでいるのではなく,また変化しないものとして,ある行動の単一の基盤になるのでもないということを彼が意味しているのを読みとらなければならない。
つまり,ロジャーズが仮定しているのは最適の行動がそこに基盤をおくべき「経験」(あるいは「諸経験」)は全ての関連ある思い(considerations)を含むであろうということである。もちろんある状況に関して全ての関連ある思いが「適切に象徴化される」などということはありえない。それらは「感情」(feeling)という形でしか覚知されえないし,しかもその際「感情]によって意味されることが上述の様々の思いを暗黙の中に含みうるような何ものかである場合に限られる。
ロジャーズの理論に対して我々がつけ加えるべきものは,覚知されて感じられ、かつその一部だけは象徴化されているとはいえ,なお含蓄的段階に止まっている非常に多くの思いや学習されたものや諸々の意味―いずれも適切な「全有機体的価値づけ」において役割を果たすべきものであるが―これらすべてを含む何かの働きなのである。
「ある個人の経験の一局面が適切に象徴化された場合に,例えばそれが父親への憎しみであった,ということをその人が見つけ出す」と,ロジャーズがいう時,その人はその経験の新しい局面を包含するために,自分自身についてもっている概念を再体制化するだけでは適応にとって不十分であろう。ロジャーズが暗にいわんとしているのは,経験のこの局面もまた,今やその個人の感じている経験のもつ非常に多くの他の局面と相まって,最もうまい具合に作用するであろうという点である。なおこれらの他の局面はすべて相互に関連しあい,いかなる行動をも規定すると、思われる。
最も微妙な知的分化は,感じられた体験過程の内に暗に含まれているということをロジャーズの理論は仮定している(むしろそう述べてすらいる)。
「自己の有機体に対する信頼の増大」と題する表題のもとに,ロジャーズは「アインシュタインの科学的行動」について,こう書いている。
この始めの時期の間,アインシュタインはただ彼の全有機体的反応だけを信じていた。彼の言葉によると,「これらの年月を通じて何時もある方向の感じ,何か具体的なものに向かってまっすぐ進んでいくという感じがあった。もちろんその感情を言葉に表明することは非常に難しい。しかし,上に述べたようなある感情があったことはまぎれもない事実であり,これと後に解決についての合理的な形式に関してなされた考察とは,はっきり区別されるものである」(ロジャーズ,1962)
ここで明らかなことは,最も洗練された知的認知でさえも感じられた体験過程の内に暗に含まれうるものだということ,及びロージェリアンの理論が成り立つためには,このことが可能でなければならないということである。
いかなる経験も人が「その経験について」覚知しているならば,それ自身不適応的ではないとロジャーズがいう時,ロジャーズは人がそのような変化しない単に覚知された「諸経験」に基づいてうまく行動できるということを意味したかったわけではない。ここでもまた,内容モデルが問題になる……すなわちもし人格と不適応とをある「諸経験」によって説明するならば……人格が変化する時にはこれらの経験はその本質において変化しなければならない。
同様にロジャーズが(1959,b),個人の自己概念とその人の経験とが完全に「一致整合している」(congruent)場合,適切な適応と適度に社会的な行動とが結果として生ずると書いている時,彼が意味しているのは機能上の修正なのであって,これらの経験をただ象徴化された自己記述的な目録のうちに含めるというだけではないのだ。(種々の望ましからざる個々の行動に対して与えられる重宝な合理化であるところの……「少なくとも私はそれに気づいています」……といういい方はこの内容モデルの問題を不明確にし,茶化すもの(parody)である。)
前にみてきたごとく,ロジャーズは経験ということで,変化を受けない覚知,された内容の目録を意味しようとはしていないことを明瞭に示す多くの基本的結論への動きを示している。ロジャーズは情緒(affect)あるいは経験の理論を要請し,ほのめかしてはいたがそれを欠いていたのである。彼がほのめかした理論においては人が「気づくようになる」ことがらは同時に修正を受け,またそこでは,有様体の感情あるいは「経験」は非常に微妙に,かつまことに様々の含蓄的な意味を伴って行動を規定するのである。
個人が自らの体験過程を,判断や評価や行動の基盤として用いることができるというのは,ただこのような場合にのみ,もっとも社会的で人間相互的かつ・個人的な考慮がはらわれるからに他ならない。「取り入れ」と「硬い個人的概念」(rigid personal concepts)を人為的で不適応的とみなしうるのは,ただ体験過程が「ある経験」(an experience)を修正するに必要な無数の思い(considerations)を(暗々裡に)含んでいるからに他ならない。同時に,(体験過程にとって代わろうとしている)人為的で概念的な構造はわれわれの内に実際働いているものをあまりにも著しく狭めてしまうので,われわれはその構造に関連する不適切で葛藤をひき起こすような経験だけしかもてなくなってしまうのである。
ロジャーズの理論における「抑圧モデル」:ロジャーズ(1959,b)は以下のように述べている。
心理的不適応が存在するのは,有機体が重要な諸経験を覚知するのを否定するか,覚知される時にそれらを歪め,その結果それらの諸経験が全体としてあるまとまりをもった自己構造の中に適切に象徴化され体制化されず,自己と経験との不一致をつくり出す場合である。(p.200)
……有機的は覚知に含まれている高等な神経中枢を活用せずに、ある刺激と有機体にとってそれがもつ意味とを弁別できる。われわれの理論において個人がある経験を自らに脅威を及ぼすものとして弁別しながら,この脅威を覚知の上では象徴化しないでいられるのは,まさに上記の能力のおかげなのである。(p.200)
防衛というのは脅威に対する有機体の行動的反応であり,その目ざすところは現在の自己構造の保持なのである。(p.204)
個人が自分自身についてもっている概念と一致しない諸経験は覚知されることを否認される傾向をもつのである。(p.202)
このロジャーズの説明はいわば一つの緊密な循環の輪であり,その輪の中では自己というのはただ単にそれ自らと一貫していることとして定義されるに過ぎないのである。たとえどのような経験であっても自己概念を拡張したり,あるいは改変したりしようとするものは,それらの経験にこのような傾向があるがために覚知からは閉め出される[否認される]のである。レッキー(Lecky)の自己一貫性(the consistency of the self)という原理はロジャーズ自身の考えの線を「強化した」とロジャーズは報告している。事実は「一貫性」こそ,私が「抑圧モデル」と呼んでいるものの最も重要な点そのもの(the crux)に他ならない。抑圧された何かは,まさにそれが抑圧されているが故にいつまでも抑圧されたままでいなければならないのである。自己が変化し得ないのはまさにそれが自己の一貫性,……すなわち,自己のもつ変化に対して抵抗する性質,および自己改変的な経験を志向する力も歪め,もしくは否認するという性質,……としてしか定義されていないからである。
ではこの抑圧モデルという循環の輪は一体どのようにしたら破れるのだろうか?
人格の変化はどうすれば可能か?
私は既に実践においてどうすれば抑圧を克服できるかについてのロジャーズの発見について述べた。その克服には他の人たちも見出したところの二つの主要な観察事実が含まれている。一つは直接の人間的な関係であり,もう一つは感情過程である。
パーソナルな関係(注23)(the personal relationship):ロジャーズはパーソナルな関係に三つの定義を与えている。その三つは建設的な人格変化のために「必要にして充分な諸条件」という名前で呼ばれるものである。
1)「共感」(注24)(empathy),内的枠組からの理解と反応,これは既に述べたものであり,ここでは関係を規定する一つの条件として取りあげるのである。
2)治療者の「真実性」("genuineness")あるいは「内的整合性」("congruence")。
理論的にはこのことは治療者が関係についての全経験「に気づいている」ということを意味している。実践においては真実性ということは治療者が人為的態度やひそかな策略から自由であり,かつ彼の現在の気持ちを何等隠すに及ばないということをさしている。
クライエントが伝えようとしている意味に対する治療者の反応は,治療者自身が今まさに実感として経験していることに根ざして生じるものであり,かつその径験していることを表わしているのである。それらの反応は人為的な言語形式でもなければテクニックでもないのである。
3)「無条件の積極的尊重」(注25),クライエントが自分自身について表明したことに価値を認め,それを尊重し,かつそれによって積極的に動かされる。クライエントが表明する行動とか彼の困難とかが,それ自身望ましいものであるかないかということは関係の,ないことである。困難に直面しているその人自身(the person),表明を行なっているその人自身が常に無条件に尊重される。
ロジャーズの考えでは,上記の三つの条件を述べることは「もしこうであれば(条件)……こうなる(結果)」(if-then)式の叙述なのである。
彼の言葉を引用すると……
私の目的は次のような考えを強調することである。すなわち,私の考えでは仮説を検証するのに力動についての知識というものが本質的には不用であるところの,条件・結果の現象を我々は扱っているのである。心理学以外の他の領域のことで,これを説明するならば,ある一連の操作によって,それが塩酸であると示しうるような一つの物質を,他の一連の操作によって苛性ソーダであると示しうる他の物質と混合するならば,この混合によって塩と水が生ずるであろう。我々がこの結果を魔法のせいにしようと,あるいはそれを現代科学理論の最も適切な用語によって説明しようと,この事実は変わらない。同様にして我々によってここで仮定されているのは,ある定義しうる諸条件がある定義しうる諸変化に先行するということ,及びこの事実はそれを説明しようとする我々の努力とは独立に存在すること,この二つなのである。(1957,邦訳pp.125~126)
このように媒介的説明が欠けていると言明しているにもかかわらず,ロジャーズ(1959b)は,個人がこの種の関係によって,自己一貫性という,定義上は気づきえないようなことに気づくようになりうるということについて,二つの説明を提示している。1)少し先へ進むことで自己一貫性が除かれる。2)無条件の積極的尊重は以前「覚知への否認」の原因となっていた事情を和らげる。このことは次のようにして生ずる。
(関係についての)先行の諸条件が存在し,持続するならば,次のような特徴的な諸方向をもった一つの過程が動きはじめる。
その方向とはクライエントが彼の感情や知覚の対象を次第により分化,弁別させていくという方向のことである……。
彼が表明する感情が彼の諸経験のあるものと彼の自己概念との間の内的不整合に向けられることは益々多くなる。
(ロジャーズ,1959b,P.216)
個人が自分自身についてますます表明するにつれて,治療という自由な状況下において,彼は明らかにそして否定し得べくもなく真実ではあるが,それまでずっと彼が自分自身についてもっていた概念とははっきりと矛盾するようなある感情について言葉に出して述べんばかりになっている自分に気づくのである。その結果,不安があらわれるが,もしも状況が適切であれば,この不安はそう大きいものではなく,建設的な結果が生ずるのである。しかしながら,もしも治療者による解釈が熱心すぎるとか,効果が強すぎるとか,あるいは何か他のことで,クライエントが自分の扱えない程多くの否認された諸経験に直面させられた場合には,体制がくずれてしまって精神病的破綻が生ずる。(p.229)(注.下線は筆者による)
実践において「漸次の」とか「穏健な」とかいうことは単に量や程度の問題ではないのみならず,少し進むということには,各瞬間に個人が活用しうる直接経験に言及し,それに反応するということが含まれているということについて,ここでは何もいわれていない。(前の方で私がロジャーズの実践上の発見について述べたことを参照されたい。)
上記の公式化は私が大事な点とみなすものを欠いており,他の人たちが理論的公式化では不可能なことを実践に当たってはどうやって達成するかという点について述べるときに出てくる,昔ながらの「何となく」とか「少しずつだんだんに」といったことによりかかっているのである。
ここに述べられたような穏健な進み具合に加うるに,覚知するようになるためには無条件の積極的尊重が必要とされる。何故なら理論によれば自己概念は「価値(worth)の諸条件」……すなわち,ある重要な他者の「条件つきの積極的尊重」,例えば「私はあなたがかくかくの感情をもたない限りにおいてあなたを愛する」といった態度によって形造られてきた点に関してのみ,経験とは一貫しないと考えられるからである。人格変化にとって,自己概念をこわすためには無条件に,いつも同じ積極的尊重が必要とされるのである。
われわれは自己概念が実際には自己一貫性だけによって支配されているのではなくて,むしろ,より基本的である積極的尊重への要求によって支配されていることを知っている。
パーソナルな関係についての他の二つの必要条件(すなわち,共感と真実性)がどのようにして人格変化に影響を及ぼすかについて,理論では説明されていない。
感情過程(the feeling process):ロジャーズは我々がみてきたように人格変化の過程において個人は単に自己概念のみならず直接的に感じられた経験をも問題にしなければならないと主張する。それによってのみ個人はその自己概念とその経験「との間のずれ」においおい気づくようになることが可能なのである。
ロジャーズ(1959a)の述べるところによれば心理療法の過程(注26)とは……
……心理的機能が硬化し,画定化している一方の極から心理的な流れと変化によって特徴づけられる他の極に至る連続である。(p.96)
……(連続線上の)固定化した一端においては,硬い個人的な構成概念の表明や自己を対象としない話題をめぐっての自己表明や自分にぴったりきていないことがわかるような形で感情をのべること……(といったような行動がみられる)。(p.98)
彼は彼自らが直接,今経験しつつあることからは遠く離れている。・‥…個人的な構成概念は極端に硬く,それを彼個人が構成した概念とは認めていない……。(彼の)問題は自らにとっては外側にあるものとして受けとられている……。(pp.96~103)
連続線の先の方にいくと,われわれは今は存在していない感情や個人的意味についての叙述を豊かに見出す。
……(同時に)以前は覚知されることを許さなかった感情が突き破って出てきて,現在,経験されているのだということのおぼろげな認識もしばしば生ずる。(p.99)
……人が何かをまさに体験しつつあるという認識は時に気のすすまない恐ろしいことなのである。……すなわち,個人にとって障害となるような内的体験の対象(inner referent)が存在するという漠とした認知である。……自己についての種々の感情(self-feeling)を受け入れ,自分のものにすることが増大すると共に,これらの感情そのものであろうとすること,すなわち「真実の私でありたい」という願いが生ずる。……更にかつては堅固な道標であるかに思われた多くの個人的構成概念も単にある瞬間の体験過程を解釈する方法に過ぎないことが明らかになってくる。(pp.101~103)
この連続線の他の極においては,個人は自らの感情に生き,彼の生活のしるべとして自らの感情に基本的に信頼し,それを心得それを受け入れて生きているのである。彼の体験過程は直接的で,豊饒な,変化に富んだものである。彼は自らの体験しているものをレファラント(ar eferent)(注27)として用い,より多くの意味を求めて何度もそこに立ち戻っていくことができる。(P.97)
この連続線は次にのべる三つの異なった考察に適用される。
(1)不適応的人格はこの連続線によれば,固定という一方の端によって表わされる。同じようにして好ましい或は適応的人格は連続線の他方の極,すなわち過程としての動きをまさにとっている状態(in‐process)によって表わされる。
(2)治療の初期においてクライエントがまだ全く不適応な間,面接での彼の行動は連続線の固定の極によって表わされる。他方,治療が進んだ後では,クライエントの面接行動は過程としての動きをまさにとっている状態という連続線のもう一方の極によって表わされる。
(3)連続線は人格変化が進んでいく間における感情の過程を表わしている。クライエントの面接行動が連続線上で,過程が進行しているほうの極に近ければ近いほど,より深く彼は人格変化の進行に伴う感情過程に参加している。
これらの行動記述は今やますます充分に定義を与えられ,多くの研究における治療ケースのテープ録音記録(注28)に適用されてきている。これらの指標は治療を通じて表われる成功ケースを失敗ケースから有意味に分化させている。また,成功している心理治療においてはクライエントの行動の評定は面接の初期から後期に移るにつれて,連続線のより望ましい方の極に向かって変化する傾向を(注29)示している。
ウォーカー(Walker,1960)及びトムリンソン(Tomlinson,1962)は数種類の被検者群と様々の基準(カウンセラー評定,クライエント評定,投影法テスト,MMPI,など)を用いて次のような諸結果を最近見出した。それによると成功的な人格変化指標は連続線のより望ましい極にある感情過程指標の評定と連関があるようにみうけられた。
我々の議論の最初の部分を終えるにあたって留意したい点は,この議論を始めた頃に比べて感情過程とパーソナルな関係という人格変化を説明する際には常に引用される二つの観察事実についての多くの定義を知ったということである。
二つの基本的問題(我々はそれらを「抑圧モデル」及び「内容モデル」と名づけた)は今だに大部分未解決であり,人格変化の理論もまた極めて不充分な形に止まっている。
今や我々は,用語を体系的に定義しなければならない。ここで提出しようとする人格変化の理論は一連の定義という形で公式化されるだろう。
理 論
基本的諸概念――心理学的事象とは何か?
1. 体験過程(Experiencing)
(a)"experiencing"という語における"ing"は「体験」(注30)(experience)が一つの過程と考えられていることを示す。(我々は一つの過程という枠組を作りあげている様々の理論的考え方を定義しなければならないだろう。)
さてもちろん,上に述べたのは真の意味での定義ではない。というのは「体験」という語の使用法が近年混乱し,この言葉は様々の形で使われているからである。心理学の分野は体験についての理論を欠いている。しかしながら体験過程の理論(Gendlin,1962b)は体験についての過程理論を提示しようと試みたものである。
「体験過程」という用語は極端に意味が広いので体験過程の個々の側面に対してはもっと限定されたいくつかの用語を定義して用いよう。我々が考察の対象としようとする特定の事象は,それが何であれ体験過程のある特定の様式あるいはモードであるか,または体験過程のある特定の作用(function)かあるいは我々がそれに選び与えたある特定の論理的なパターンであるように思われる。このように「体験過程」という用語は過程という枠組によってみられたすべての「体験」をさしている。
(b)心理学において「体験」という言葉はそれがどこで用いられようと具体的な心理学的事象を意味している。同様のことがここでもいえる。体験過程は具体的なまさに進行している種々な事柄の一過程である。
(c)最後に体験過程ということによって我々は一つの感じられた過程(a felt process)を意味する。その意味は内部的に感覚され,身体的に感じられた諸事象ということであり,我々の考えでは人格あるいは心理学的諸事象を構成している具体的な「もの」("stuff")はこの身体的に感覚され,感じられたことの流れである。
体験過程は具体的,身体的な感情の過程であり,それは心理学的及び人格の現象に関する基本を構成している。
2. 直接のレファラント(The direct referent)(注31)
日常の会話においても理論においても,我々はあまりにも広く外的な事象及び論理的意味を強調しているので,外的な対象や論理以外に内面の身体的感情や感覚があることに気づくことは,殆ど不可能であるかのようにさえ思われる。このことはもちろん,誰にでもたやすく確かめられるごく普通のことである。
我々はしたいと思えば何時でも内的に感じられたある素材(an inwardly felt datum)に直接注意を向けそれを指示する(refer)ことができる。
このようにして直接的にリファーされるという様式の体験過程を私は「直接のレファラント」("direct referent")と名づける。
もちろん体験過程には他の様式がある。状況とか外的事象,象徴及び行為といったものは直接のレファラントには何等反射的注意を払うことなしに我々の感情過程と相互に作用し合うだろう。我々はこの直接的注意を伴わない場合にも,それを伴う場合と同じに覚知したり感じたりするのである。
人は常に直接的に体験過程にリファーすることが可能である。
3. 暗々裡の(Implicit)
この直接のレファラントに意味が含まれているということは余り明瞭ではないが,確かめる気があればやはり誰にでもたやすく確かめられることである。初め,体験過程はただわれわれの身体についての内的な感覚,身体的緊張,あるいは身体の調子の良さといったものにすぎないように思われるかもしれない。しかしながらもう一歩内をみつめていって気づくことは,こうした直接的感覚行為を通じてのみ,われわれが言ったり考えたりすることが,われわれにとって意味をもつということである。何故なら意味についてのわれわれの「感じ」(feel)抜きでは,言語象徴は単なる雑音(もしくは雑音の音響的イメージ)にすぎないからである。
例えば誰かがあなたのいうことに耳を傾けていて次のようにいったとする。「すみませんけどおっしゃる意味がつかめないのですが」こういわれて,もしあなたが自分が意味していることを別の言葉で言い換えようとする時,あなたは自分の内部に眼をむけて直接のレファラント,すなわちあなたに感じられた意味に内的注意を向けなければならないことに気づくであろう。こういうやり方でのみ,あなたはいい換えるための違った言葉に行きつくであろう。
事実,我々が明示された(explicit)象徴を使うのは我々が考えることのほんの少部分に対してのみである。大部分の場合,我々は感じられた意味という形で考えるのである。
例えば,ある問題について考える場合に我々は実に様々のことどもを同時に考えて行かなければならない。そしてこれを言葉で行なうことはできない。事実,もし我々が様々の言語的象徴をくり返し検討し続けなければならないとすれば,問題に関連のあることどもの意味について考えるなどということは全くできない。我々はそれらを言葉で検討するかもしれない。しかしながらその問題について考えるためには感じられた意味(felt meanings)を使わなければならない。そしてこの場合我々は(以前に言葉で表明された)「このこと」と(同様に以前に表明された)「あのこと」がどのように関連しているかについて考えなければならない。「このこと」と「あのこと」を考えるために我々はそれらのもつ感じられた意味を使用する。
感じられた意味が言語的象徴と相互に作用しあって生じ,かつ我々がその象徴の意味するものを感ずる時,我々はそのような意味を「明示的("explicit")」あるいは「あからさまに知られた("explicitly known")」と呼ぶ。他方,非常にしばしば,我々は言語的象徴化ぬきで,このような感じられた意味だけをもつことがある。言語的象徴化を行なわずにある事象,ある知覚,あるいは「これ」という言葉のようなある言葉をもつのである。(この場合「これ」という語は何も代表せず,ただ指摘を行なうにすぎない。)こういった場合に我々はその意味を「暗々裡に」,あるいは「暗々裡に感じられてはいるがあからさまには知られていない」と名づけることができる。
ここで留意してほしいのは「明示された」及び「暗々裡の」意味の両者共覚知されている(in awareness)ということである。我々が具体的に感じ,内部的にさし示すことができるものは確かに「覚知されて」いるのである。(ただし,「覚知」という用語は後に,ある再公式化を必要とするであろう。)「暗々裡の」意味はあたかもそれが「無意識的」であるとか「覚知されていない」(not in awareness)かのように論じられてしばしば混乱を招く。しかしながら,直接のレファラントは感じられるものであり,かつ注意の直接の素材であるが故にそれは当然「覚知されている」べきものである。「暗々裡」と名づけられることは何であれ覚知されて感じられるのである。
さらに我々がここでつけ加えたいのは,たとえある意味が明白である場合にも(すなわち我々が「まさしく我々の意味するものを」言葉に出していう場合でさえ)我々が感じている意味は常に我々が明示したことよりもはるかに多くの暗々裡の意味を含んでいるということである。我々が自分の使った言葉を定義したりあるいは意味したことを「適確に表現しようと努力する」場合,我々は感じられたもろもろの意味に頼るのだが,それらの意味は常に明白な言語的表現を与えられた意味に比べれば,はるかに多くの意味を暗々裡に含んでいることに気づくのである。上述の場合に我々が用いてきたのはこれらの暗々裡の意味に他ならない。それらの意味は明示されたことにとっては中核的なものであり,かつ実際に我々が意味したことを形づくるものではあるが,ただ感じられるに止まるのである。それらの意味は暗々裡なのである。
4. (知覚と行動における)暗々裡の機能
これまでわれわれは暗々裡の意味をただ直接的レファラントの内にのみ在るものとして考えてきた。すなわち我々は感じられた素材としての我々の体験過程を直接さし示す時にのみ,暗々裡の意味を考えてきた。しかしながら,体験過程へのこのような直接のレファランスを全くもたずに大部分の生活や行動は暗々裡の意味に基づいて進行する。(明示された意味は二,三の特殊の目的に役だつに過ぎない。)例えば我々は現在の状況の解釈やそれへの反応が我々の「過去の」体験によって決定されるという。では一体どのような形で我々の過去経験は今ここにあるのだろうか?例えばもしも私が現在の直接的状況を観察しそれを記述したとするならば,過去の事象についての私の言語知識はどのようにして現存するか,又私が記述したこの状況についての私の記憶はどのように現存し,現在影響を及ぼすであろうか?私がまさに観察した状況について述べるために私の言葉は,私が観察し,反応を行ない,今や言おうとしている事柄についての感じられた意味(sence)から私のために生ずる。私が今観察していることを言葉で考えるということは絶無ではないにしても非常に稀である。また私はこの観察に影響を及ぼしている各々の過去経験そのものを考えることもない。これらすべての意味は私が現在具体的に感じている体験過程として暗々裡に機能するのである。
5. 完了(Completion);推進(Carrying forward)
6. 相互作用
暗々裡の意味は未完了である。象徴的完了―あるいは推進(carrying forward)―は身体的に感じられた一つの過程である。暗々裡の意味と象徴とは等価なのではなく,相互に作用し合う(an interacting)のである。
ここで私は「暗々裡の」意味と「明示された」意味とはその本質上別々のものだということをしっかりと明確にしておかなければなるまい。ある言語的陳述が,まさに我々が意味しているところのものを適確にいい得ていると感ずることがあろう,だが,それにもかかわらず意味を感ずることは言語象徴と同じ種類に属することではない。今までに示したように,ある感じられた意味はまことに多様な意味を包含しうるし,かつそれを次々と明細化していくことができる。このように特定の感じられた意味は象徴化された適確で明白な意味とはその種類において同じとはいえない。両者が種類を異にするということをかくも重視するゆえんは,もしもそのことを無視するとすれば,明示された意味が既に暗々裡に感じられた意味の中にある(もしくはあった)というふうに我々が仮定していることになるからに他ならない。この仮定に立って考えると,感じられた暗々裡の意味は,無数の明白な意味が隠されている暗い場所のようなもの,ということになってしまう。その結果,われわれはこれらの意味は「暗々裡」のものであって,それらがただ単に「隠されて」いることの中にのみ感じられるのだと誤って仮定することになる。強調しなければならない点は体験過程の「暗々裡の」,あるいは「感じられた」素材は一つの身体的生命感覚(a sensing of body life)だということである。かくてそれは無数の統合化された局面をもっていると思われるが,このことはそれらの局面が概念的に形成され,明示されていて,しかも隠されているということを意味するものではない。むしろわれわれが明示する(explicate)(注32)ときにはそれらを完了し,かつ形成するのである。
意味をもつに先立って,象徴が感情と相互作用を起こさなければならない。
「空腹」という言語象徴は「食物」という場合と同様に,われわれが消化過程を先へ進めるに先立って感情と相互に作用しなければならないのである。「空腹」という象徴は食物を探求することに含まれる他の側面や私がテーブルの前に座るといったことと同様に消化過程に関して学習された一つの段階であり,それが消化過程を先へ進めるのである。このことが起こる前には筋肉運動の感じは,組織化された相互作用に対して,身体がもつある型にはまった準備状態を暗々裡に含んではいるのだが,しかしそれは形成された概念的諸単位を含んではいないのである。このように暗々裡の身体的感情は前概念的(preconceptual)である。言語象徴(もしくは事象)との相互作用が実際に生起する時にのみ,過程が実際に先へと進められ,かくして明白な意味が形成されるのである。(注33)
象徴化が行なわれる前には「感じられた」意味は未完了なのである。それらはいってみれば,「空腹」と呼びうるような私の胃の筋肉運動と同義語なのである。この身体感覚は確かに食べるということについて何かを「意味」している。しかしそれは食べることを「含み」はしない。より図式的にいえば空腹の感じは食べることが抑圧されたものとは異なる。動物を求める行動や動物を殺したり焼いたりすること,更には食物を食べ,消化し,吸収すること,また消化作用の残滓を排泄し,埋没することはそれ自身(つまり空腹感)の中には含まれていない。さてこれらすべての段階は(それらのあるものは新生児において始めから型にはめられており,あるものは後に学習されるのだが)筋肉運動の空腹感覚のうちには存在していない。そしてまさにこれと同じように,「空腹」という象徴的意味は空腹の感覚中には存在していないのである。その場合,我々はある未完了であり,体制化の前段階的形態において相互作用しうる象徴(もしくは事象)を待ち設けているのである。
かくして明示するということは身体的に感じられた過程を先へ進める(carry forward)ことである。暗々裡の意味は未完了である。それらは隠された概念的諸単位ではない。それらは性質上明白に知られた意味と同じではない。暗々裡の意味と「それらの意味の」明示された象徴化との間には等価な関係はありえない。そこにあるのは等価関係ではなく,感じられた体験過程と象徴「もしくは事象」との間の相互作用である。(注34)
感情過程―変化は如何にして個人のうちに生ずるか
7. 焦点づけ(Focusing)
「焦点づけ」(あるいはより正確には「持続的焦点づけ」)は以下にのべる四つのより特殊の定義「8.-11.」によって詳しく定義されるだろう。「焦点づけ」は個人が体験過程の直接のレファラントに注意を払う時,それに引き続いて生ずる全過程のことである。
以前われわれは直接リファーすること(reference)が体験過程の一様式であると述べた。われわれが体験過程と名づける感情過程はある感じられた素材としてのそれへの直接のレファランス(着目,言及,指示)なしに個人の覚知に生ずるのである。これら他の諸様式においても体験過程は人格の変化にとって重要な機能を持っている。これらについてはあとで論じよう。
「焦点づけ」とは体験過程の一様式,すなわち直接的レファラントが進展する人格変化において如何なる作用を及ぼすかということに関連している。
以下の論議においては今までに述べた定義(1.-6.)が用いられるだろう。そしてこれに加うるにさらに,焦点づけに関する四つの定義が公式化されるであろう。
焦点づけはこれを分析して四つの位相に分かたれる。これら四つの位相への分割は私のやり方で行なった公式化の結果というべきものであって,過程それ自身のうちに内的にはっきりと四つの段階が分かれて含まれているとはいいきれない。それ故,焦点づけということはこれらの明らかに分割可能な位相において生じうるにしても現実にはそういう形では生じない場合の方が多い。
8. 心理療法における直接のレファランス(焦点づけの位相Ⅰ)
ある明らかに感じられてはいるか概念的にはあいまいなレファラントは個人によって直接リファーされる。例えばある男が何か厄介な状況,或は個人の特性についてずっと論じてきたと仮定しよう。彼は様々の出来事,情動,意見,或は解釈を述べたてた。彼は自分のことを「馬鹿だ」とか「非現実的だ」等と呼んで,自らが実際に行動面で反応してきたやり方よりは「もっとよく知っているのだ」ということを聴き手に伝えたとしよう。この場合,彼は自らの示した反応によって困惑し,それらを自らは承認しないのである。或は同じようなことだが彼は自分の反応に対して,あなたの反応は無意味だとか,敗北的だとか非現実的だとか,馬鹿げているといった批評を現実にうけたり或はそういった批評をうけるのではないかと想像して,自分の反応に対して強く弁護しようとするのである。もし彼に対して誰かが理解をもって聴き入り,反応するならば彼はその事柄が彼に対してもっている感じられた意味に直接リファーする(着目し言及する)ことができるかもしれない。そしてしばらくの間,自分の現実の姿についての実際よりも良い判断とか或は悪感情とか,そういった全てを一時脇に置いて,現に今語っていることの感じられた意味に直接リファーするかもしれない。そしてこんなふうにいうかもしれない。「ええ,判ってますよ,それが意味無いってことはね,だけど何か意味があるようなひっかかりもあるんですよ」或は「このことは私の中ではすごくあいまいなんですが,感じていることはたしかにすごくはっきりと感じているのです。」あたかも言語や論理は不充分であるかのようだ。問題はただわれわれが,概念的には漠然としているが,はっきりと確かに感じられているような何かについて語るのに慣れていないという点にある。
もし個人がこの直接のレファラントにその注意を集め続けるならば(もしも彼が自分の感じたことがあまりにも馬鹿馬鹿しいとか,あまりにも良くないことだとか或は自分自身に厳しいのではないか等と疑問を感じたりして,このためにその感じたことに注意を払うことをやめてしまわないならば)彼はその気持ちに含まれるある大ざっぱないくつかの面を概念化できるようになると思われる。例えば,彼はこんなふうに気づくかもしれない。「誰かが私にかくかくのことをする時には何時もあんなふうな感じをもつのだ」或は「私が思うにあの種のことがあると何かがすっかりまずくなってしまうのだが,そこには何かがあるのです。私はそれで脅えてしまうのですが馬鹿げたことですね。そういったことはうけ入れなければならないことなんです。それが人生です。だけどそんなふうに感じてしまうんです。あるひどい恐怖なんです」「それ」についてこのようなある大ざっぱな側面を概念化してしまうとその人は感じられた意味を以前よりも強く,また生き生きと感じるのが常である。彼は自分自身の中の焦点づけの過程についてずっと感動し,希望をもつようになり,もはや前のようには概念的説明や非難や弁解をしようとして身構えることも少なくなる。たいていの人にとって直接のレファランスを続けることができるのだと気づくことは,ある深い発見なのである。それは「私は自分自身に触れているのだ」というようなものとして深い価値感を伴って体験されるに至るのである。
個人がかかる直接のレファラントに焦点をずっと合わせていくにつれて,自分が語っている「これ」というのが,何と奇妙なものかと困惑するかもしれない。彼はそれを,「この感情」とかあるいは「こういった全てのこと」とか,あるいは「かくかくのことが起こる時,私はこんなふうなんです」というように呼ぶかもしれない。非常に明らかなことだが,それは彼の現在の体験過程において内部的に感じられた一つのレファラントなのである。それについての彼の感じ方そのものは明確であって何ら曖昧な所はない。彼はその感じに対して自らの内部的な注意をもって向かうことができる。ただ概念的にそれは曖昧であるにすぎない。
感じられた意味に対する直接のレファランスについての一つの非常に重要で驚くべき事実は,もしも問題になっていることがらが不安を引きおこしたり,或は極めて不快なものであったりした場合には,その個人が感じられた意味に直接リファーする(refer to)につれて,この感じられた不快感は減少するということである。この反対のことも予想できよう。確かに次のような場合その反対も事実である。例えばある人が議論のためにいくつかの話題の一つを選ぶ場合を考えてみよう。この特定の困難で不安を引きおこすようなことがらについて語らねばならぬという見通しは,快でも不快でもない話題や快い話題について語ろうとする時に持つ見通しにくらべれば,その人をより不安にすることは確かである。このように彼がそのことがらを提案しようと決意するときには彼の心のうちは苦しさで一杯であるかもしれない。しかしながらいったん彼がそのトピックに入りこんでしまって,直接のレファラント,すなわち感じられた意味に注意を直接向ければ向ける程,彼の不快感,不安は和らぐのである。仮に彼がその直接のレファラントをわずかの間でも見失った場合には再び不安がわき起こってきて,トピックについての曖昧な不快感が立ち戻ってくるのである。
個人が感じられた意味のある面を象徴化するにつれて彼が感ずる不安がほぐれてくる場合,そのほぐれる度合いによって彼は自分に感じられていた意味の正しさを部分的に感知するのである。
不安や不快感とは対照的に感じられた意味それ自身は個人がそれにリファーし,それを正しく象徴化していくにつれて,よりくっきりと際立ち,よりはっきりと感じられるようになる。事実,彼が「正しく」象徴化したかしないかという彼の感覚は部分的にはまさに,感じられた意味の強さが増大したという感じに他ならないのである。(注35)
この弱く鎮まった不安は,不安を引きおこすような事柄について一般に仮定されているものとは全く反対であり,非常に驚くべき事実である。普通,我々は体験過程に直接焦点を合わせるということは,人をより不安にするものだと考えている。私のみる所では,不安が強められるのはトピックを選ぶ事に由来しており,これが我々が普通に予想していることなのである。他方,いったんトピックが決まり人が直接感じられた意味に焦点を合わせていき,かつそれについての象徴化を適切に行なえば行なう程,その人はより多くのやすらぎを感ずるのである。そしてこの象徴化にさいしてはわずかの誤りでも(例えば「いいえ,私が今言ったのはそのこととは一寸違うんです」)再び不安を増大させる。
この観察事実は定義5と6及びミード(Mead)とサリバンの業績を用いて理論的に解釈されよう。直接感じられた暗々裡の意味を象徴化することは有機体的過程を一歩進めるのである。これはそう感じられるのである。このことからわれわれは直接のレファランス(あるいは留意すること)はそれ自身既に一種の象徴化であると考えるべきであろう。直接のレファランスはその結果としての象徴化と同様に身体的に感じられた緊張解消を生むものである。(注36)
個人がその体験過程の直接のレファラントに焦点を合わせるさまを記述する方法は他にも種々ある。かかる場合にわれわれは彼の体験過程は「彼の持っている概念よりも先へ行っている」ということもできよう。体験過程が彼の概念を「先導する」のである。彼は概念を形成し,直接彼に感じられた意味「に対してそれらの概念をチックし」次いでこれに基づいて概念の正しさを決めるのである。その個人が感じられた意味に直接リファーする(ふれる)ことを続けていくうちに(彼が多分それを「このこと或はこれ」と呼び続けるうちに)以前に正しいと感じられた概念形成を今やより正しいと感じている別の概念によって置きかえなければならないと思うだろう。その場合聴き手もまた,その言葉で「これ,ということ」をさし示し,かつ相手を助けてそれにピッタリくると思われる言葉や概念を見つけることで役に立つことができるのである。(注37)
もちろん聴き手には言葉の正しさを判断することはできない。いっている当人でさえもそれを判断するわけではない。多少詩的な表現を使うならば,その人の直接のレファラントが判断を行なうのである。かくして話し手と聴き手は共に象徴化の方向が示されてから驚くことがある。
上に述べたのは個人があるトピック,状況,行動あるいは人格側面についての感じられた意味を彼にとって構成している体験過程の直接のレファラン卜にどのようにリファーし,或は「焦点を合わせるか」について述べたものである。
9. 開け(注38)(Unfolding)(焦点づけの位相Ⅱ)
直接感じられたレファラントに焦点を合わせていくと,時にそのレファラントが何であるかを一歩一歩次第に明白に知るようになる過程がみられることがある。しかしそのことがある瞬間に劇的に「ぱっと開く」("open up")こともある。非常にしばしば,そのことが次第にもっとよくわかるようになることと,全くはっきり気づかれるような「開け」がみられる瞬間とが共存する。その個人は大きな身体的安らぎを感じ,突然夜があけた如くぱっと知るのである。彼はただそこに座り自らにうなづいて次のような言葉だけで考えるであろう。「ウン,わかった」しかし,この場合彼が「わかった」ことが何であるかを彼自らに告げるような概念はまだ全くみつかっていないのである。だがしかし今や彼は言うことができるのを知っている。もし彼が今突然何かで邪魔されたとしたら「それを見失う」かもしれず,後になって言えることは「あの時には何だったかわかっていたように本当に感じていたのだが今はそれを見失ってしまった」というようなことがありうる。だが通常は聞かれたものを表現する概念や言葉をできるだけ早く見つけ出すだろう。殆どの場合,それは非常に様々の事柄を含んでいる。例えば,ええ,もちろん私は心配しているんだと彼は気づく。彼はこのことや状況のこの側面を取りあげて考えることすら自らに許していないのであり,それはこれらの諸側面が実際に存在していると彼は信じていないからに他ならない。いや,実の所彼はそれらが存在していることには気づいていたのだ。しかし彼は同時にそれらのことはただ彼の空想に過ぎないかのように思い,それらに対してあえて自責の念を感じてもいたであろう。そしてもしそれらが本当に存在する場合には(事実それらは存在するのだが)彼はどうやってそれらの側面をもちながらやっていけるのかがわからないのである。彼はそれらにあえて取り組もうとはしていなかった(ことに今や気づいている)のか或はそれらが単なる彼の想像以外の何かであろうということすら考えようとはしなかったのである。何故なら全くの所,もしそれらが現実に存在するとなると,彼は無力だからである。かくして彼にできることは何もないということになる!だがそれらの側面はそれにもかかわらず,やはりそこにある。そして少なくともそのことを知るということは本人にとって一つの救いではある。この例によってわれわれは一つの「このこと」或は「これ」として感じられた暗々裡の意味の中に一般に見出されるものは決して単純なものではないことを知る。上の例が示すようにそれは一つの多重性をもったものでありながら,依然として「一つのこと」とみなされうるようなものかもしれない。体験過程には所与の確定的な単位経験(definite unit experiences)というものはない。
上の例からわれわれはまた,人がかかる大きなやすらぎと共に見出す意味はしばしば決して楽しいものでも良いものでもないことを知る。問題は決して片づいてはいないのである。それ所か全く逆に今やそれは本当に不可能のようにみえる。今やなぜ自分があれほど心配してきたのかということがはっきりしてきたように思われる。本当に先の希望などはないように思われるのである。だが,直接感じられたレファラントがこのような形で「開ける」時,それは身体的に体験され,かつ本人にとって極めて大きな緊張の低下なのである。
直接的なレファラントが開けると必ずそれに伴って,以前には全く厄介に思われた彼自身の感情についての本当の意味(good sense)を驚きと共に深く情緒的に認識するものである。人はくり返しいう,「もちろん」「もちろん!」と。あるいはこうもいうであろう。「あのね,ほら,前のあれ,あれなんですよ!」("well, what do you know, that's what that was!")
以前にはただ感じられていたことが,今実際に「意味がある」("make sense")ようになったために,問題解決はこの段階で可能になるのである。というのは,あれや,これやの判断,知覚,事象あるいは状況があった場合,「もちろん」私の感じ方は以前と同じなのだが……ただ,今はあんな風には判断しないということに気づくかもしれないのである。しかしながら私が上の例で明らかに示したことは,たとえ解決そのものはずうっと先のことで何時起こるかわからないような場合でさえも,生理学的な緊張の低下は生じており,真の変化が起こっているという点なのである。私の信ずるところでは,この変化こそまさしく特定の問題の解決よりももっと基本的なものである。
われわれの働きが円滑にいっているときも,うまくいっていないときにも,そこには常に広大で多重的,全体的であることを特徴とする様々の暗々裡の局面が含まれている。というのは,体験過程の直接のレファラントが「パッと開ける」ときには,あれやこれやについて現実に認識するのに比して,はるかに多くの変化が生ずるからに他ならない。このことは「開け」に引き続いて,その個人が依然として何の道も外に開かれていないとわかるときに,もっとも劇的に明白になる。彼はいう「それが何であるか少なくとも私は今知っています。しかし一体どうやってそれを変えたら良いのでしょうか。どうやってそれと取りくんだら良いのでしょうか?」だがこれに続く数日の間と次回の面接時間において彼が既に変わっていること,問題の質が変化し,彼の行動も今までとは異なってきていることが明らかになる。そしてこうした全ての解決を良く示すものは次のような言葉であろう。「今は全く具合良いようです」この点に関し,体験過程の全様式には全面的変化(global change)がみられるのである。この感じられた変化には論理的記述は欠けているが,われわれのもつ素朴な意見(simpleminded notions)の内のあるものはここに根ざしている。「ただそのことをうけ入れよ」とわれわれは自らに語り,他人にも語る。ここで想い出すのだが私が今述べたような人びとは次のような単純化された形で,ある根本的変化について報告することが知られている。
「どんなふうにすべてが変わりましたか?」
「いや,今はただ万事これでいいように思えるんです!」
「あなたはいまだに,これこれのことがあなたに起こるのではないか,そしてそれに対してはどうしようもないと感じているのですか?」
「ええ,そうは思うんですが,でも今の私の気持ちは,そうですね,人生ってそういうものだ,という感じなのです。物事はそんなふうになっていくもんです。私たちはそういった事柄を受け入れなければならないのです」
そして彼のこのことばは実は彼がそれまでになんべんとなく彼自身に向かって,無駄に,繰り返してきたことばに他ならない。今違う点は彼がある過程において感じられた意味に焦点を合わせ,その意味が聞かれたのだ!
このようにして,今まで語ってきたごとく,ほんの時折,開かれるものが言葉で説明できるような,ある解決をもたらすのである。もっとしばしば見られることは,人が直接のレファラントを展開すると深い全体的な感情の変化が起こるということであり,このことは開けの対象が一見予期したよりも具合が悪く,望みの少ないものである場合ですら生ずるのである。外から気づきうるようなある特定の解決があろうとなかろうと変化は広範囲にわたり,かつ全体に及ぶようなものであるように思える。その場合,ただこの問題が解決したとかあの特性が変化したとかいうことではなく,多くの領域と関連点において一つの変化が生ずるということなのである。感じられた意味に含まれる暗黙の,広範囲にわたる多重的な諸相の全てが変化するのであり,かくてそれは全面的な変化(global change)とよばれるのである。われわれはまた,次のようにいうこともできる。すなわち意味というのは体験していく過程(experiencing process)の諸局面であり,この体験過程の様式そのものが変化するために,そこに含まれる意味の全ての性質もまた変化するのである。
あるクイラエントが述べたごとく,「今まで私は何時もこの問題を白か黒かでみてきました。そして,灰色的解決を求めてあがいてきたのです。だけど,今この新しい道は黒でも白でもありませんし,また灰色でもないのです。まさしく色彩つきなんです」このように,ある感じられたレファラントの開けによってその人は,そこに何があったかということについて教えられる訳ではないのだが,彼がものごとを体験する全様式がその開けによって変えられてしまうのである。
10. 全面的な適用(global application)(焦点づけの位相Ⅲ)
直接のレファランス及び開けの過程がその人の様々の局面に全面的に影響を及ぼす仕方は彼が後になって前後の体験の差異について報告する時に明らかになるだけでなく,感じられたレファラントが広げられたまさにその直後においても気づかれることなのである。
その人の感じられたレファラン卜に全て関連のある様々の連想や記憶状況や環境が一度に彼のもとに押し寄せてくる。それらは概念的にはたがいに随分と異なったものでありうるが,そこには彼が取り組んできたある同一の感じられた意味が共通にみられるのである。もしこれがなければ,それらは全く別々の無関係のことがらになってしまうだろう。(注39)「ああ,そのことも私がこれこれのことにどうしても夢中になれない原因なのです」「ハイそうです。そしてそれについてはこういう別のこともあるのです。私は誰かから何をすべきか考えるべきかといわれると,いつでもこういうことになるのです。私には自分(I)が考えることの方がもっと重要なんだとはいえないのです。なぜかといえば,そういう時にはいつでも今話したような形で調子が悪くなるのです」「ああ,それからまた,これこれのことが起こった時にさかのぼってみると,私は同じことをやっていたのです」
感じられたレファラントの開けに引き続いてしばしば生ずるこの「幅広い適用」を行なっている間,その個人は黙って座ったまま,ただ時々押し寄せてくる様々のものから,そのいくつかをきれぎれにとりあげ,声にするに止まるだろう。前述の諸観察のあるものは今迄他の人びとによって「洞察」とよばれてきた。しかし私の信ずる所では,この呼び方は誤っている。何故なら,第一に全面的な適用ということは如何なる点でも考え出すというのとは別のことであり,かつまた本質的にみてそれはより良い理解というのでもないからである。洞察とかより良い理解というのはむしろ,この過程の結果であり,副産物なのである。それらはこの過程に含まれる非常に多くの変化した局面の中の,ほんの二三の点に注意をふりむけたときに気づかれるものなのである。確かなことは,個人がここで明示的に考えるすべての関係や適用に対して,彼の考えには入ってこないが,それにもかかわらず,まさに変化してきたものが無数にあるということである。開けによって生じた違いについて,彼が考えることが,無数のこれらすべての点で彼を変えるのではなく,開けそれ自身によってその変化は起こるのである。彼がそのような適用について考えようと考えまいと,また彼が開けということを解決をもたらすものとみなそうとみなすまいと,変化そのものは生ずるのである。というのは私が強調したように,彼はもしかすると「このことをどうしたらいいのか,どうやって変えたらいいのか全然わかりません」と言いながら出ていくかもしれない。しかしそれはもう既に変わったのであり,「それ」が暗々裡に作用しているところのまことに様々の多重性をもった点はすべて変化したのである。
11. レファラントの移動(焦点づけの位相Ⅳ)
直接のレファラントのはっきりとした変更なり移動なりは感じられるものである。この「レファラントの移動」はしばしば,今までに述べてきた三つの位相に引き続いて生ずる。直接のレファラントが持続して存在する時,劇的な開けが生ずるのであり, 全面的な適用の洪水が治まったときに,その人は自分がそれまでとは違って感じられるある直接のレファラン卜に新たにリファーしていることに気づくのである。この直接のレファラントから彼が象徴化できる,暗々裡の意味(the implicit meanings)は今では全く別のものなのである。それは一つの新しい直接のレファラントなのである。かくして四つの位相を含む過程が再び開始されるのである。
しかしながら焦点づけはいつもこのようにきちんと四つの位相に区別できる過程だとは限らない。上に一寸述べた如く,開けは全面的な適用というはっきりと目につく満溢を伴うこともあり,そうでないこともある。開けということはまた,全く目立だない形で,象徴化を一つずつ非常に細かく段階をふみながら進めていくうちに起こっていくこともありうる。さらにまた,開けさえも伴わず「適切」と感じられる象徴化をも何ら伴わない場合でさえも,直接のレファランスを行なうことによって,感情過程を推進(carry forward)させることができる。そうした直接のレファランスは同時に身体的な緊張解除感として体験されるのである。我々がここで焦点づけの位相Ⅳと呼んでいるところのレファラントの移動ということは上記の様々の時期のどこででも生じうることなのである。普通,直接のレファランスだけでは直接のレファラントが変化したり,動いたりはしない。直接のレファランスはそれをより強く,より鋭く,よりはっきりと感じられるようにするのである。それはレファラントの感情の強さを増大させ,漠然たる緊張や不快感や不安を少なくする。しかしながら時には直接のレファランスが連続的な過程として行なわれるだけで,直接のレファラントが変化したりあるいは「動いたり」することもあろう。もっとよく起こることは,かかる移動が少なくとも何らかのある開けや象徴化に引き続いて生ずるという現象であり,このことはとくに全面的な適用という満溢が感じられたのちにみられることが多いのである。
個人は感じられたレファラントの質の変化をはっきりと感ずる。それは単に一つの変化というに止まらず,正しく(right)また歓迎すべきものと感じられる一つの直接体験された「弾力的動き」("give")(注40)あるいは「移動」でもある。そのことが非常に重要なのは,かかるレファラントの移動のあとでは(例えそれが非常にわずかであっても)暗黙の意味が今や異なっているという点にある。人が直面している「心像風景」ともいうべきものが変わるのである。
我々が自分自身に語りかける時,あるいは様々のもっともな理由,考え,我々の感情のもち方や,ものを感じる際のより分別を備えた態度などを物語る時には,こうしたレファラントの移動そのものは欠如しているのを常とする。
こうした場合には,たいてい,そのあとでも同一の感じられたレファラントが変化することなく,依然として存在し,かつ同一の漠然とした不安も同じように存在するのである。このようにレファラントの移動が起こらないので,実際には何も変化しなかったことがわかるのである。
これと反対にレファラントの移動のあとでは,われわれが形成する意味と象徴化はそれ以前と異なっている。関連のある様々の考えもまた以前と異なっている。全光景が違うのである。もちろん,大部分の場合そのような一つの段階の変化で「解決」がみつかることはない。その当事者は次のように言うかもしれない。「本当にそれは私にはちっとも助けにはなりません。だって今あるのは,この無力感なのです。無力で弱いということはこの世で最悪の罪のように思います。もう全て何事も成り行きまかせです。私はもう何にも耐えることができません。それについて,どういう点でこんなにもうまくいかないのかわかりません。私のいう意味は,現実に私はそれについて全くお手あげだということなんです」。
ここにわれわれがみてとるのは,何か解決に類するヒントは全くないにもかかわらず,関連のある周囲の状況についての考えに今や変化が起こったということである。彼が直接リファーしていく対象である,感じられたレファラントがそれまでとは別のものに移っていくにつれて,彼が目を向けていく対象や,象徴におきかえていく対象はもはや以前と同じではない。
レファランスの移動によって焦点づけ過程に方向が与えられるのである。レファラントの移動をもたらす特定の方向に沿って,個人は注意をふりむけ,象徴化を行なってゆくのである。
レファランスの移動を伴わない場合には,発せられた言葉は「単なる」話であるにとどまり,「単なる」知性化,または「単に」事柄の表面的異同のみを云々すること,あるいは「単なる」報告に止まるのである。
レファランスの移動は直接的経験であって,そこでは論理や言語化を超えた何かが起こっているのである。その動きを論理的に分析することは多くの場合可能である。(すなわち,彼が以前に語ったことと,今語っていることとの間に論理的関係を作り出すことができるのである。)しかしながら,このような論理的分析はレファランスの移動がそれ以前にあろうと無かろうと,如何なる言語化に関してもその相互関係について行ないうるものである。そして,しばしばほんのわずかのレファランスの移動に対して,論理的あるいは概念的推移は極度に大きい。ほんのわずかのレファランスの移動でさえ,概念的には全面的に異なった別の拠点のようにみえるものを生み出すことがある。
レファランスの移動は象徴化において作用しているところの感じられた意味の変化である。
以上の叙述によって私が焦点づけの四つの位相と呼んでいるものの持つ相互に重複する性質について,何かをお伝えできていればと望むや切である。それらを要約すれば――位相Ⅰ,概念的にはおぼろげだが,体験する感じとしてははっきりしている,ある感じられた意味への直接のレファランス――位相Ⅱ,いくつかの局面の開けと象徴化――位相Ⅲ,全面的適用がどっと押し寄せてくること――位相Ⅳ,レファラントの移動,かくて過程は再び位相のIから始まることが可能になる。
これら四つの定義(8~11)が「焦点づけ」を定義するものである。(注41)
12. 自己駆進的感情過程(The self-propelled feeling process)
個人が焦点づけを行なっていき,レファラントの移動が生ずると,彼は自分では選びも予測もしなかった方向に沿って引っぱられているのに気づく。まさに,その時感じられた直接のレファラン卜によって動かされる非常に強力な推進力が働いているのである。個人は時には「軌道を外れる」かもしれないし,「何か他のことについて語ったり」あるいは聴き手の,かなり相手をまどわすような感想や無益な演繹を耐えしのぶこともあるかもしれない。しかしこうしたことがあってもなお,そこにある,感じられた直接のレファラントは彼が取り組まねばならない「次のこと」として,依然まぎれもなくそこにあるのである。もしも聴き手が充分な感受性をもって反応すれば,その個人はおのずとあるレファラントの移動および開けから次々と他の移動,開けへと動いていくだろう。それぞれの時点で心の内面の景色は変化し,新しく感じられた意味が次々と彼の前に現われる。四つの位相の循環が次々と進むことによって全体的な感情過程が動き出す。この感情過程は具体的に感じられた非常に顕著な自己駆進的性質を備えている。
心理治療者として私は自分がクライエントの中にあるこの自己駆進的感情過程に頼らねばならないということを学んだ。これは重要な原理である。何故ならば私には彼を惑わしてしまう力があるからである。もし私が(あまり説明しすぎたり,彼のいうことに私自身の洞察を持ち込みすぎたりすることで)彼を惑わした場合には,この感情過程は生じないのである。他方もしも私が常に相手の感じられたレファラントにリファーしようと意図し,かつ彼をしてそのレファラントに焦点を合わせ続けてほしいと望んでいることを示すならば,私の質問や自己表明は有効でありうるということも学んだのである。
感情過程を生ぜしめるためには,時に少なくともほんのわずかの間でも黙ったままでいることが必要である。もしも彼なり私なりが,のべつしゃべり続けていたならば,直接のレファランスがおこることはまずないだろう。それ故彼が語るのをやめ,また,私が反応するのをやめた時にも,我々がそれまで語ってきたことの意味を彼が感ずることができるような,しばしの沈黙が訪れることを私は嬉しく思う。さらに次いで彼が語ることが,ただ単にそれまで我々が語ってきたことから出てきたものでもなく,またそこから論理的に出てきたものでもなくて,彼が何か感じられたものの中にずーっとすっぽり身をおいていたことを示す場合には,私は特に嬉しいのである。このようにして私は感じられたレファラントによって,彼がかつて語ったものから今語っていることへと移行することが可能になるのに気づくことができるのだ。彼自らの中にこのように「急激におりて行くこと」,この焦点づけ,及び生起する全体的な感情過程はその下を流れる人格変化の諸事象の言語化を可能にするのである。この自己駆進的感情過程は人格変化の本質的原動力なのである。
一度この感情過程が起こるや,それは個人が上に概説した四つの位相よりなる焦点づけ過程に従っている時々の合い間でさえも働き続ける。かくして二回にわたる心理治療の時間と時間の間の数日間にクライエントは重要な考え,感情,記憶,及び洞察が彼のもとに「やってくること」に気づくこともありうる。彼は特定の象徴化された内容無しでも,ある一般化された「感動,躍動」("stirring")や内面的な「多事多面性」("eventfulness")に気づくであろう。かくして全体的が感情過程は自己駆進をおこし,かつ私が前に記述した焦点づけの同位相だけよりも広いものとなるのである。
パーソナルな関係の役割 ―― 他者の反応がいかにして個人の体験過程に影響を及ぼすか,また人格の「内容」(contents)はいかにしてそれにより本来的(inherently)に変化可能であるか
我々は往々にして内容(象徴化された意味)に関心をもつ余り,時に人格とは内容以外の何ものでもないかのように考えて心理学上の疑問を論ずることがある。その場合我々が忘れているのは,所与の瞬間において個人が何を経験するかということに関してだけ明らかな差があるのではなく,いかに経験するかということについても明らかな差が存在するということである。かくて我々は次のような質問を発する。―ある個人が一人でいる時にも,他の人に話す時にできるのと同じような内容を感じることができるとすれば,パーソナルな関係はどういう差をもたらすのであろうか?
心理治療者(あるいは援助を与えようとする聴き手)はしばしば「何かをしなければならない」「何かをつけ加えねばならない」あるいは,ある新しい内容や洞察をもたらさなければならないと感ずるであろう。彼はそうやって相手を援助し,ある違いをもたらすことを望んでいるのである。
しかし,人が自分独りでどのように考えたり感じたりするかというのと,他者と共にいてどのように考えたり感ずるかというのでは,その間に既に雲泥の違いがある。概念の上の内容は個人が彼独りで考えたり感じたりできるものと(一時的には)同じかもしれない。
―しかしながら体験過程の様式(manner)は全面的に異なっているだろう。例えば次のようなタイプの聴き手を考えてみよう。その人は相手の言葉を理解するどころか,まず自分自身の関心で相手をさえぎったり,相手によっていらいらさせられ,批判的になりがちである。彼と一緒の時,私の体験過程様式は著しく制限され,萎縮しているだろう。そこでは,私は自分独りでいるときに比べてわずかしか考えたり感じたりできないだろう。私はいわねばならないことを流麗で,一般的な,すっきりと完結した言葉で表現しがちであろう。私は深く,集中的に,豊かに感じはしないであろう。彼と共にいる時にはある種の事柄は決して私に起こってこないだろうし,たとえそれらが私に起こったとしても,私はそれらを自分独りの時のために大事にとっておくだろう。独りになって始めて私は彼の反応によって制限されたり萎縮されたりされる恐れなしに,十分それらの事柄を感ずることができるのである。我々はすべて,ある人々と共にいるときに我々がもつ体験過程の様式は独りでいるときのそれと比べて,このように別のものであることを知っている。
同様に,共にいて,どのような感情であろうと,常日頃よりも強くより自由に感ずるような他の人びともいる。―(そしてそういう人を一人知っているだけでも幸せなことである。)この人に向かって語っているとき,我々はより多くのことを考えることができ,自分の考えの細部にまでずっと深く入っていく忍耐心と能力とをもち,我々自身の心の中の張りつめた気持ちを持ちこたえることができる。たとえ我々が悲しみのあまり涙も涸れ果て淋しさにうちひしがれていても,この人と一緒にいれば我々は泣くのである。もし我々が自己の罪悪心や羞恥心や不安でせき止められているとすれば,この人と共にいることで,これらの情動を越えた存在として,内面的には,再び生に立ち帰るのである。もしも我々が黙りこくって,心の内側は死んでしまう程にまで,自分に愛想づかしとやり切れなさを浴びせてきたとしたならば,この人といることで我々は再び「生き生きとなってくる」のである。この人に,ある昔の自分にはおなじみの今まで何度となく繰り返しロにしてきた話を語るとき,我々はそれが以前に比べると豊かで,新鮮で意味に満ちているのに気づく。もしかすると,今やあまりに多方面に個人的意味が開けてきて,そこにとことんまで入りこんでいくことができない程の変化かもしれない。
我々が異なった様々の人間関係や独りの状態にあるときに体験をもつ様式に関してみられる上述のような差異を理論的にはどう説明したらよいだろうか?
13. 体験過程の様式
われわれが体験するといわれている内容が何であるうと,同時にわれわれが体験をもつ様式というものが存在する。われわれの形式的な心理学的表現には体験過程の様式における差異をさし示す述語は殆ど見当たらない。それ故,以下にこれに関する術語をいくつか定義したいと思う。(これらの術語は相互に重複し合っているから,それらの―つを十分に明らかにすることで他をも明らかにしたいと思う。)
a)体験過程の即時性(Immediacy)
即時性は情緒の分離,もしくは延期と対比することができる。即時性とその反対のものを記述するため人々は記述的な術語や詩的な表現を案出するのを常とする。「万事うまくやっているんですが,その気持ちにひたりきれないのです」あるいは「私は自分で自分のすることの傍観者なんです」あるいは「そのことの意味が心を支配してしまっているので,何が起こりつつあるのかは全く感じられないのです」「生活は順調にいっているのですが,私自身は何か日当たりの悪い部屋にひっこんだような感じです」「私はただそのことについて聞き知っているだけで,それを今生きているというのではないのです。」
b)現前性(Presentness)
私は現在の状況に反応しているのだろうか?私は,今(a now)を感じているか,あるいは現在の状況はただ単に一つの場合であって,繰り返し見慣れた構造にはまった感情に対する一つの手がかりにすぎないのだろうか?
c)細部の新鮮な豊かさ(Richness of Fresh Detail)
いかなる瞬間の経験も私が暗に体験している新鮮な細部に満ちている。それらの内のあるものを私は,その気になれば象徴化し,分化させることができる。これと対照的に,構造にはまった感情パターンはわずかに二,三の情動や意味から成っているにすぎない。けれども時に私は,現在のもつ豊かさを全然持たずにただ同一の陳腐な感情パターンだけしか持たないことがある。こういう場合、心理学者はややもすると,陳腐なパターンの内容に専ら注目し勝ちである。我々はこんなふうにいう。「これは権威に対する抗議としての反応である」とか「これは優越したいという要求だ」とかあるいは「観淫倒錯」(voyeurism)のような「部分的な」幼児性衝動,さらには,「露出症」,「受動攻撃的欲求」といった具合である。そしてかかる感情のパターンが直接現在の,豊かに詳細化された体験過程とはその様式をも異にするという事実の方は,往々にして無視されがちである。私はただ単に権威に対する反応が拙いだけではないのだ。私は私が権威者とみなす,すべての人の誰に対してもこういうふうに反応するのである。そしてもっと大事なことは,私は彼が一つの権威であることにのみ反応するのであって,一人の人間としての彼や,彼が現在もっている実に様々の側面や他のどの情況とも異なった,我々のこの情況そのものには反応していないという点である。「権威的な型]とかこうしたことに類似した型は,いずれもからっぽの単なる輪郭線にすぎない。私がただこのような,からっぽの輪郭線だけを体験し,こうしたからっぽの感情だけを感じていて,現在というもののもつ無数の新鮮な細部を欠くとき,私の体験過程はその様式において構造に拘束されている(structure-bound)(注42)。私の体験過程の様式がたとえ最適のものであったとしても,私は上役の行動を恨み憤るかもしれない。そして,彼に対して私のとった態度の責任は,私と彼のどちらが負うべきかを決めるのに余りにも多くの時間と関心が無駄に払われているのだ。そんな事はどうでもいいことなのだ。大事なことは,私の体験過程の様式である。たとえ仮に彼が実際にどんなにいやな奴であったにせよ,もしも私の体験過程が構造に縛られているとすれば,私は彼のいやらしさでさえも,私が前から持ち続けてきたからっぽの構造を体験するための,単なる手がかりとして体験する以外に,真にそのいやらしさそのものを体験することはないのである。
d)凍結した全体(Frozen Wholes)
我々が,いろいろの内容や「経験」について話すときに,往々にしてそれらが或るすでに一定のそれ自らの構造を持った,形にはまってしまった単位であるかのように考えていることがある。
しかしながらこのことは,私の体験過程の様式が構造に縛られている程度に応じて決まってくる。例えば,あなたがあなたの感情について何か私に話し,私が聞いているときに私は時々,私自身の諸々の経験について考えるかもしれない。私はあなたの経験に伴う感情やその意味を理解するために私自身の経験を必要とするのである。しかしながら,もしも私が私の経験を私の経験として明確に考えつづけていなければならないとしたら,私にはあなたの経験があなたにとって持つ意味を把握することはできない。そうなると私は,あなたの経験も私のそれと同じものだと言い張ることになる。(あるいはもし私が賢明ならば,自分があなたを理解していないことに気づくだろう。)もしも私の経験が暗に働いていてあなたを新しく理解するということがないとするならば,私にはあなたを本当に理解するなどということは全くできないであろう。
私の体験過程が構造に縛られている限り,体験過程は暗々裡に働いてはいないのだ。構造に拘束されない体験過程は無数の暗黙の局面が作動して,いわば「縫目無し(シームレス)」に感じられるものであり,その結果それを感じている私は或る新鮮な意味,すなわちあなたが私に伝える何かに到達するのだ。しかし体験過程が構造に縛られている場合の感じられ方は全く異なっている。その場合,私の体験は「凍結した一つの全体」であって,その構造を捨てようとはしないのである。体験過程の暗黙の働きが要請されるような状況下においても,私に感じられるのは私の全体的な凍結した構造であって,新しいものは何も感じられない。
e)反復性対変容可能性(Repetitive versus Modifiable)
単に構造だけの凍結した全体の中では,体験過程は現在の細部と相互作用を起こすことはないので,その構造が現在のことによって変容されることはない。当然それはいつも同じままであり,多くの状況においておよそ変化をうけることなく,反復されていく。体験過程の様式が構造の拘束をうけている限り,構造(structures)それ自身が現在起こる事象によって変容される可能性(modifiable)はない。
f)最適の暗黙的作働(Optimal Implicit Functioning)
上記のことから体験過程の様式が構造から拘束を受けている程度に応じて,体験過程の暗黙の働きが生じにくくなるということは明らかである。解釈や反応の対象となるべき現在ただ今現われている細部と相互に働きかけ合わねばならないところの,体験過程の無数の暗黙の意味の代わりに,個人は構造化された一つの感情の型をもっているだけなのである。
これらの用語は体験過程の様式を定義するものである。
14. 過程進行中 対 構造拘束的(In Process versus Structure Bound)
体験過程は常に進行中のものであり,かつ常に暗黙の裡に作用する。それが構造に拘束されている箇所は体験過程ではない。ある抽象的な形をとっている疑念的な内容は,見たところ,異なった様々の体験過程様式と同じでありうる。
しかしながら,構造に拘束された様式のもとでは体験の過程(the experiencing process)は所与の箇所において欠如している。ここで「欠如している」という意味は,我々が外側から眺めた場合に体験過程の暗黙の働きが存在すべきであるのに現実には過程を跳び越えた構造のみが存在していて,体験過程はその構造をとりかこみ,次第に構造に向け引っ張られていく(cleaning up it)にすぎないということをさしているのである。このように我々は構造に拘束された一局面は過程として動いていないと言うのである。
15.再構成化(Reconstituting)
前にわれわれは象徴あるいは事象が体験過程を推進させる(carry forward)ことができると述べた。体験過程は本質的に感情と「象徴」(注意,言葉,事象)との間の相互作用であり,これは身体的生活が身体と環境との間の相互作用であるのと同様である。その基本的性質において身体的生活過程は相互作用である。それは身体の呼吸機構だけでなく酸素をも必要とする。かつ,身体の呼吸機構それ自身は,酸素と食物の分子を含むところのこれも化学的過程であるもろもろの細胞からなりたっている。もしわれわれが相互作用過程についてのこの概念モデルを体験過程に適用するならば,それは感情と事象(ここで「事象」とは言語音声,他人の行動、外的な生起事象など……感情と相互に作用しうることがらすべてを含むものである。)との相互作用であるとみなすことができる。体験過程の理論をこのようなかたちで公式化するならば,我々は他者の反応がなにゆえにかくも基本的に個人の体験過程様式に影響を及ぼすかを公式化することが出来る(注43)。というのは,もしもある反応が存在するならば,ある相互作用過程が進行中(on going interaction process)であると考えられるからである。すなわち,人格のある諸側面が過程として進行中(in process)なのである。だが反応無しでは(これらの点に関して)過程(a process)は存在し得ないであろう。
人はこの経験を,主観的,現象学的に記述して,「心の内が生き生きしてくる」とか,自分自身について「より多く様々の面(facets)を感ずる」などという。反応によって,その反応以前には過程が存在しなかった箇所に体験の過程(the experiencing process)を再構成化しうるのである。(過程が存在しないということは,感情と何かそれ以外のものとの間に相互作用がなく……従って相互作用過程も進行していないことを意味する。)
過程として進行していない「体験」のもつ特異な条件は長年にわたって心理学を当惑させてきた。それは「無意識的」(注44)「抑圧された」「覆われた暗黙の」(covert)「制止された」「否定された」等様々の名称で呼ばれてきた。事実は,人びとがある形で反応されたときには,(それ以前には欠如していた形で)自らの感情を覚知し,それを能動的に持つということを我々は知っているのである。個人はもろもろの感情が「ある意味ではいつも存在していたのだが今までは感じられなかったのだ」と感ずるのである。心理学はこの普遍的事実を否定することはできない。それを公式化する一つのやり方として,我々はそれを体験過程の再構成化として公式的に示すのである。
16. 内容は過程の局面である(Contents are Process‐aspects)
体験(あるいはある所与の内容をさす場合には一つの「体験」)の「内容」とは何であるか?定義3及び5において,われわれは体験過程の感じられた暗黙の意味は言語的象徴と相互作用を持ち得ると述べた。これに引き続きわれわれは次のように言おう。象徴は何「についての」体験であるかを「意味し」或は「代表する」。もっと簡単にいえば,象徴は体験を象徴化するのである。かかる一つの象徴化された単位が一つの内容なのである。(注45)
このようにある内容が存在しうるためには暗黙の作働(定義4を見よ)の持つある幾つかの局面が象徴との相互作用において進行していかなければならない。
だがしかし,もしもいかなる言語的象徴も存在していない場合にはどうなるか?その場合には進行中の体験過程も存在しないのか?答は言語的象徴は感情が相互作用過程を持ちうる唯一の事象ではないということである。外的な生起事象,他の人々の諸々の反応,さらには我々自身の注意でさえも感情と相互に作用することができ,その結果一つの過程を構成しうるのである。
それ故,言語的象徴を伴わずに一つの体験過程が進行中であるという場合がしばしばある。事実,大部分の情況や行動は非言語的事象と相互に作用している感情を含んでいる。体験過程は無数の意味を伴って暗々裡に働く。それらの意味は,(言語的象徴化を伴わずに)感じられたものとして存在し,進行中の相互作用の諸局面なのである。
体験過程が進行しつつあるところ(respects)は,同時に我々が内容を言語的に象徴化することができるところでもある。逆に体験過程が進行していないところを(たとえ外からはどう見えようと)言語的に象徴化することは不可能である。この瞬間において過程としての局面をもたない想像上の内容についての諸概念に対しては,単に蒼ざめた無用の一般的意味を与えうるにすぎない。内容は進行中の感じられた過程のもつ諸局面なのである。すなわち,内容は過程の局面(process-aspects)なのである。
17. 体験過程再構成化の法則(The Law of Reconstitution of the Experiencing Process)
個人は,既に進行中の体験過程において暗黙の中に働いている箇所(respects)のみを象徴化することができる。
いかなる体験過程においても(すなわち,感情と事象とのいかなる進行中の相互作用においても)非常に多くの暗黙の意味は過程局面(process aspects)(いわゆる「内容」)なのである。これらは,或るいくつかの象徴(或るいは事象)がこれらの点における過程を推進させる(carry forward)までは未完了(定義5)なのである。
かくして,次の二つの異なった定義が存在する。推進すること,および再構成することの二つである。「推進する」ということは,象徴(あるいは事象)が進行中の体験過程のもつすでに暗々裡に働いている局面と相互的に作用して生ずるという意味である。「再構成する」ということは,過程が,以前には進行していなかった点において新しく進行するようになってきて,暗々裡に作働するという意味である。
今や我々は体験過程再構成化の法則を述べることができる。すなわち,体験過程のもつ暗々裡に働いている局面が象徴あるいは事象によって推進させられるとき,その結果として生ずる体験過程は常に他の,時には新しく,再構成された諸局面を含むのである。それらの局面はそのことによって過程として動くようになり,その体験過程において暗黙の中に働くのである。
18. 過程局面の階層(Hierarchy of Process Aspects)
もしも内容を過程局面とみなすならば……すなわち進行中の体験過程のもつ暗々裡に働いている局面とみなすならば……再構成化の法則の意味するところは,まず或る内容(過程局面)が象徴化される必要があるということ,およびこれにより初めてそのあとで他の内容(過程局面)が,象徴化可能な過程局面となりうるということに他ならない。
この事実のために個人の自己探究は一つの秩序的もしくは階層的な性格をもつことになる。それはあたかも個人があること(things)に「達し」うるためには必ずそれ以外の他のことを経過しなければならないというようなものである。我々は彼をして彼「自身の路」を旅させねばならない。それは我々が民主主義を信ずるためでもなければ,自治を好むからでもなく,体験過程が再構成されてきて,ある局面がそこで暗黙のものとなった(become implicit)時に始めて,彼はこれらの局面を象徴化できるからである。
19. 自己過程(Self-Process)
体験過程が暗々裡に作働している程度に応じて,個人は彼自身に反応し,かつ彼自身の体験過程を推進させるように思われる。個人の感情と彼自身の(象徴的もしくは実際の)行動とのこの相互作用(注46)を名づけて「自己」と呼ぶ。より正確な用語は,自己過程である。
体験過程が暗々裡に働かない度合いに応じて,個人は彼自身に反応することができず,彼の体験過程を推進させることができない。
体験過程が働かない(構造に拘束されている)ところでは,それがどんな箇所であろうと,まず,これらの点における体験過程の相互作用過程を再構成するための反応が必要である。
個人がすでに暗々裡に働いている彼の体験過程に対して,その構造に拘束された局面を新しく再構成する形で,自らその過程を推進させることをしないのはなぜか?もちろん,彼は構造に拘束された局面にそのまま反応はできない。(それらの局面は暗々裡に働いてはいない。)だが心理治療者もまた反応できないのである。心理治療的反応とは,現に暗々裡に働いてはいるが,個人が自分ではそれに反応しない傾きがあるような体験過程の諸局面に応ずるような反応である,と定義することができる。より正確には,その個人自身の反応とは一つの全体として凍結した構造であって,それは上にのべた諸局面に関して,感じられた体験過程を推進させないようなものなのである。
20. 再構成化をもたらす反応は暗に示されている(The Reconstituting Response is Implicitly Indicated.)
(現在は構造に拘束されている個所における)体験過程を再構成すると考えられる反応は,個人の体験過程の中にすでに暗々裡に示されている。(注47)
人は構造に対してではなく,働きつつある体験過程に反応しなければならない。実践においてこのことは,我々が,ある人の働きつつある局面をその額面通りにうけとり,それに対してあるパーソナルな反応を与えねばならないことを意味している。何人も,彼がいかに機能を働かせていないか,ということについての反応や分析によっては大きく変えられるものではない(もっとも我々は往々にしてこの方向に動きがちであるが)。個人の仕事上の行動が現実には仕事をしたいという彼の望みを打ちくだいてしまったり,彼の性行動が彼をして真実の性の在り方(sexuality)を持つ機会を失わせてしまったり,人々を喜ばせたいと願うことが,かえって人々には迷惑であったり,人々に近づこうとして彼のとるやり方が,実際にはかえって人々を彼から遠ざける結果になったり,彼の自己表明が脚色され,劇的に表現されるがためにかえって空虚に響いたりすること・・・を我々は見ている。だがこれらの諸構造はいずれも,仕事をしたいという彼の現実に働きつつある欲望,彼の現実に働きつつある他の在り方,現実に彼のなかで働いているところの,他者とかかわり他者と親密になりたいとの彼の欲望,実際に自己表明を求める彼の衝動(urge,)などこれらおのおのに対する彼の反応なのである。
21. 過程の優位性(Primacy of Process)
我々はとかく,内容は過程の局面(process aspects)であるという事実を無視しがちである。我々は内容に対してもっぱらそれを特定の論理的な含蓄(implications)を伴って象徴化された意味としてうけとり,これに注意を払う傾向が強い。(もっとも内容にはそれぞれ特定の論理的意味含蓄があることもたしかに無視はできないが。)このようなわけで我々は往々にして,自己探究ということをあたかもそれが概念的な答えを求めて行なわれる純粋に論理的な質問であるかに考えて論ずる。だが,心理療法において(かつ人の私的内的な自己探究においても同様に)論理的な内容と洞察とは二次的なものである。過程こそ優位性,一次性をもっているのである。過程を推進させ,それによって過程をある新しい諸局面に関して再構成するために,我々は注意を向け,象徴化を行なわなければならない。そのようにして始めて,新しい内容が感情のうちに暗々裡に機能するようになるので,我々はそれらの内容を象徴化できるのである。
定義9においてわれわれに,「開け」("unfolding")ということが,象徴化を全く伴わずに,「今,それをつかんだのです」という一つの感じられた体験として生じうることを指摘した。これが再構成するということの一つの直接体験である。過程は新しく再構成された諸々の箇所において進行中のものとして感じられる。再構成が起こるのに,それに僅かに先立ってすでに暗黙のうちに存在していた諸々の意味を人が象徴化する時である。これらの暗黙の意味を推進させることは、新しい局面を再構成せしめるところのより広い過程を必然的に伴うことになる。
それ故心理治療において,まず初めに私のどんな点がわるいのか,それをどうやって変えなければいけないのかを悟り,……それに引き続いて,何とかそのことをやってのけるといったことが起こるわけではないのだ。事実は,我々と共にいて彼が体験することは,以前にそうでありえた状態に比して,我々と共にいるときにはすでに全く別のものだということである。この別の体験過程から彼のもつ諸問題の解決が生まれる。(言語象徴として,及び事象としての)我々の諸反応が彼の体験過程と作用し合い,それを推進させる。我々の身振りや態度,彼が我々に語っているというまさにその事実,各瞬間に彼が我々に示す違いというもの……こうしたすべてが彼のうちに暗黙のうちに働いているもの,つまり彼の体験過程と具体的に作用し合うのである。概念的にみれば,そうしたことは問題を無駄に述べ立てたり,述べ直したりしているようなものかも知れない。あるいは,概念的には人は,特定のもっとも基本的な原因と因子(the most basic causes and factors),―すなわち人が変化すべき方法,あるいはそのように変ることを妨げている理由や欠乏因子―に到達しうるかもしれない。だが本当の解決は概念的には得られない。このように解決を概念的に追求していっても,結局は肩をすくめて,あきらめとわからなさを表明せざるを得ないことになり,相手個人は悪意か体質のためにあれこれ様々の本質的条件を欠いているといわれ,だらしのない悪い奴だといったレッテルを貼られるのが落ちである。だがもしもある相互人格的(インターパーソナル)な反応が彼に与えられるならば,彼はすでにして同じではなくなるのだ。
概念的内容に対する過程の優位性とは次のような事実を指している。(注48)
現在進行中の体験過程は具体的に推進されなければならない。これによってその過程は多くの点において再構成され,その体験過程様式はより即時的となり,分化可能な細部をより豊かに持つことになる。これにより,新しい過程の局面(内容 contents),「解決」(solutions),及び人格変化が生ずる。ほとんど大抵の場合,こうした解決は,概念的には(定義9を見よ)おそろしく単純に思えるかもしれないし(注49),そのような理由で変化が起こるなどとはとても考えられないような解決である。
だがそれらは,実はある広範囲にわたり以前とは異なった過程のもつ二,三の局面を大ざっぱに概念化したものなのである。
22. 過程統一性(Process-Unity)
以上のすべてを包含するある単一の過程が存在する。包含されるのは,環境との相互作用,身体生活,感情,認知的意味(cognitive meanings),人間相互関係及び自己である。具体的に生起しつつある過程は一つであり,ただ我々が上記のような様々の局面を孤立化させ,強調しうるに過ぎない。我々の「物・言語」(thing language)はわれわれが論ずることを,それが何であれ,あたかも空間上において分離可能な一つの対象物であるかのように提示する傾向がある。こういうふうにしてわれわれは環境,身体,感情,意味,他者,あるいは自己を人為的に分離するのである(注50)。
それらが分離可能な別々の事物として語られるとき,それらのもつ明白な相互関係はややこしくなる。諸々の感情がどのようにして(精神身体的)な身体病に必ず随伴しうるのか?認知的思考はいかにして感じられた諸要求に影響されうるのか?我々が自らを人と人相互の間(インターパーソナル)で表明することがどのようにして自己の変化をもたらすのか?あらゆる場において,これらの現象を「分離された別々のもの」という観点からみるがために,我々の論議は上のような困惑に直面してしまうのである。だが我々はこうした観点を捨て,具体的に生起、する一つの過程を考えるような枠組を採用することができる。私は一つの具体的な過程がこれら多様な様相の基本をなすと考え,その在り方に対して過程統一性(process unity)という名称を与えたい。
我々は感情が一つの身体的な出来事,生理学的過程の一つの局面であることを示そうとしてきた。我々はまた認知的な意味は単に言語的もしくは絵画的象徴から成り立つのみならず,暗黙のうちにも有意味であり,かつ象徴と相互に作用して機能しなければならないところの,ある感じられた感覚からも成り立つものであることを知った。感情と作用し合い,具体的な過程を推進させることができる。今や我々は自己(個人の暗々裡に機能しつつある体験過程に対する彼自身の諸反応)もまた,一つの具体的に感じられた過程の一局面であって,身体や感情,意味,あるいは人間相互間の関係と連続的なものであることを示そうと思う。
23. 自己過程とその人間相互間的連続性(The Self Process and Its Interpersonal Continuity)
今までの論議を通じてわれわれは感情と事象(events)との間に生ずる一つの具体的な相互作用を問題にしてきた。自己が存在するに先立って人間相互間的諸事象が生ずる。我々が我々自らに反応するようになるに先立って他者が我々に反応する。仮りに,もしもこれらの諸反応が感情との相互作用をもたないとしたら―もしも他者の反応そのものだけがあって他に何もないとしたら―そうしたときの自己は,ただ単に他者の反応を学んだにすぎないものになってしまうだろう(注51)。
しかし人間相互間の諸反応は単なる外的事象ではない。それらは個人の感情と相互に作用し合う事象である。個人はかくして自らの感情に反応するという能力を発展させる。自己(the self)は単に学習された諸反応のレパートリーであるに止らず,感情に対する一つの反応過程でもあるのだ。
もしも仮りに感情というものに暗黙の意味がなかったとしたら,すべての意味は生起する事象や反応に全面的に依存することになるだろう。ここでもまた,自己は他者の反応の反復以外の何ものでもなくなってしまう。
個人は常におのれ自らを解釈し,自らの個人的な意味を形づくっていかねばならないのであって,これはちょうど他者がそれ迄その個人を解釈してきたのと同じことである。
しかし感情には暗黙の意味がある。だから,ある感情過程が進行している程度に応じて,人は他人がするのとは違った形でそれに対してさらに反応していくことができるのである。しかしながら,その人が自分自身の感情に反応するにしても感情過程を推進させるのではなくて,それをとばしたり,止めたりしてしまう場合には,その程度に応じて彼は自分自身になるために他人の援助を必要とするのである。単に発生的に考えた場合に止らず,成人としての発展という点からみても,自己は人間相互間の諸反応を必要とすると思われる。かかる反応が要請されるのは,それらの反応の評価や内容によるのではなく,感情過程を再構成するために我々は具体的にそれらを必要とするからである。もしも我々がひとりでいるときに,あるいくつかの点について過程が進行していかないとするならば,我々が共にいて「より自分自身である」と感じられたような,ある他者から聞いて記憶している話の内容や,その人から聴いて嬉しくなった評価(happy appraisal)を我々が自らに語ってみても何の役にも立だない。その人が我々に及ぼした効果は我々が自分自身に語ることができるような彼からの評価から来たわけではない。
効果は我々の具体的な感情過程への彼の反応によって生じたものであり,かつある点に関しては,その効果が感情過程を再構成し,推進させたのである。もしも,我々がそのことをひとりでやることができるならば,その点に関して我々は一個の独立した自己である。
このように我々の内部の人格変化は,我々が自分についての他者の積極的なよい評価や我々に対する態度を知覚した結果ではないのだ。我々に対する拒否的態度が我々のもつ様々の暗黙の意味を推進させる妨げになるというのは正しい。だがそれは,純粋に否定的な評価そのもののせいではなく,拒否ということが通常,私の感情の含む様々の暗黙の意味を無視するがために他ならない。拒否するということは背を向けること,もしくは押しやる(push away)ことである。これと対照的に我々に対するあなたの「無条件の肯定的関心」は単なる評価や態度ではない。あなたはその反応をもって,具体的に進行する過程に反応し,それを推進させるのである。
それ故我々は,人格変化は治療者の態度についてのクライエントの知覚に依存するというロジャーズの見解(1959b)を修正しなければならない。われわれの理論が示すところによれば,クライエントは治療者の態度を適確に知覚するかもしれないし,しないかもしれない。彼は治療者が彼を嫌っており,どうしても彼を理解してくれないと確信するかもしれない。人格変化が起こるかどうかを決定するのはこれらの知覚(perceptions)ではなく,現実に生じつつある過程の様式なのである。多くの場合,クライエン卜は具体的な人格変化過程が起ってしまったあとで始めて治療者の積極的,肯定的な態度を知覚することが可能になる。(注52)
変化に対して効果的な要因は,具体的な過程と無関係に考えられたある内容や評価や態度の知覚ではない。
人格変化とはあなたの反応によって私の具体的な体験過程の推進にもたらされた相違のことである。私自身であるためには,私自身の反応が自分の感情を推進できない度合いに応じて,あなたの反応を必要とするのである。最初のうちはこれらの点について,私はあなたと一緒にいるときだけ「本当に私自身」なのである。
しばらくの間,個人はただこの関係においてのみ,このより十全な自己過程を持ちうる(注53)。これは「依存」ではない。
それはその個人をして後退させるのではなく,反対に,体験過程を推進させるようなより充実したより深い反応をもたらす。しばらくの間個人はその体験過程を彼の言葉でいえば「ここでだけ」感ずることができる,のである。個人がその体験過程を自己過程として推進させる能力を自ら獲得するのに十分な期間,体験過程を再構成するには、進行する相互作用過程をもたらすような推進作用が連続して生ずる必要がある。
抑圧と内容の諸定義の再公式化(Repression and Content Definitions Reformulated)
24.未完の過程としての無意識
「自我」とか「自己体系」が諸経験を覚知(awareness)から「排除」するといわれるとき,通常これらの諸経験はそうした排除にもかかわらず「無意識の中に」あるいは「有機体の中に」存在していると仮定されている。しかしながら,我々の論議を進めていくならば,それらの経験は存在しないという結論になる。たしかに何かは存在するわけだが,その何かは仮りに諸経験が具合よく進んでいったときにみられるようなものとしての経験ではないのである。現実に存在しているのは,身体相互作用過程がいくつかの点で停止したとき,・・・・・すなわち,そうした過程が生じていないときに,結果的に生ずるところの一つの感じられた生理学的な条件なのである。ではそれはいかなる類の条件であろうか?
今までのところで我々は結果として生じた機能不全がいかなる形で何かを「欠いている」かを示してきた。しかしながら注意すべきはこの欠けているものを,無意識というところに位置づけてはならないということである。(これはちょうど誰かが空腹なときに節食を無意識の中に位置づけるべきでないのと同様である。)無意識というのは身体の停止した諸過程,すなわち筋肉的内臓的な妨げから成り立っている。これはちょうど停止した電流が裏面で秘かに流れている電流から成っているのではなく,(中断箇所ばかりでなく)回路の様々の部位において蓄積されたある電位から成っているのに似ている。この場合,ある伝導体を入れることによって再び電流が生ずるときには,それが中断されていた条件下において生じていたのとは異なった事象が生ずるのである。ただいうまでもなく,両者は互いに関係し合ってはいる。これをみて我々は,これが電流の再構成化(reconstituted)に先立って(静的な形態をとって)存在していた電気エネルギーだ,という。これが「無意識」なのである。
諸々の経験や知覚や動因や感情などが我々の覚知には「欠けて」いるというとき,それらは覚知の下に,(すなわち身体や無意識のどこか下の方に)存在しているわけではないのだ。存在しているのは,ある狭められ,あるいはいくつかの点で阻止された,相互作用と体験過程なのである。我々が記述した体験過程の様式は,多くの点で,体験過程や身体的生命過程が「完了して」いないか,さもなければ十分に進行的ではないようなものに他ならない。
このことは「無意識」というものはないということなのか?我々が覚知しているものだけが存在するのか?事をかように過度に単純な形でとらえることは重要な観察事実を無視することである。我々の理論はこれら様々の観察事実を説明することができなければならない(注54)。
25. 体験過程の様式が極端に構造に拘束された場合
(精神病,夢,催眠,CO2,LSD. 刺激遮断(Stimulus Deprivation))
これまでずっと我々は,体験過程と名づけられた相互作用過程の暗黙の,感じられた働きを論じてきた。我々が指摘してきたことは,すべて適切な行動と混在の状況の適切な解釈とは,この感じられた働き次第だ,ということであった。この働きは何千という意味と現在の適切な行動を規定している過去経験との本質を成している。さらに,我々が自分自身を反応させる対象となるのもこの感じられた働きであり,これが自己過程である。私が論じている働きは感じられるものである。その意味は,我々が自分でそれにリファーできるということである。例えば我々がこの頁を読んでいる場合,言葉は我々にとって音像である。これらの音律はすべて我々が明白に心の中に持っているものである。しかしながら我々は同時に音像の意味をも持っているのだ。では如何にしてか?我々はそれが意味するところをすべて自らに告げることはしない。我々は読み進むにつれて,読んだことの諸々の意味を感ずるのである。それらは暗黙の中に働いている。この感情過程は頁上の象徴とわれわれの感情との間の一つの相互作用である。この感じられた相互作用過程は今進行中であり,これがあなたに適切な感情と意味とを与えるのだ。
相互作用過程が大きく切りつめられた場合(例えば,睡眠や催眠,精神病,孤立化実験の場合のように),内部で感じられる体験過程はそのことで,やはり切りつめられる。そうなると個人は感じられた体験過程のもつ暗黙の機能を欠くことになり,「自己」についての感覚,および内外に対して反応し現在の状況を適切に解釈する能力とを共に失う。この両者とも上に示したような感じられた過程を必要とするのである。
これらの諸状況の下で生ずる特殊の現象は,相互作用過程及び感じられた体験過程の暗黙の機能の削減,ないしは停止という考え方を用いて考えることで,今までよりも何となく容易に理解できる。
以下において,体験過程が(幻覚的あるいは夢幻様に)極端に構造に拘束された様式のもつ特質をいくつか叙述してみたい。
a) 構造は構造としてそのまま知覚される
普通の場合,過去の経験と学習は感じられた体験過程の中に暗黙のうちに働いており,その結果として我々は過去の経験それ自身ではなく,それを現在として解釈し,知覚する。しかし催眠中や夢の中,及び幻覚の中では我々は硬い構造と過去の事象をそのままに知覚すると考えられる。特徴的なことは,その結果我々は,それらの構造に関連した様相をもち,通常働いている感情体験の過程をもっていない。かくして幻覚や夢は,現在のその人には何のことだか理解できないのである。彼はそれらにとまどうかびっくりしてしまう。往々にしてそれらは彼にとって「自分のものではないもの」のように思える。それらが「彼のもの」であるという感覚を彼に与え,彼をしてそれらのもつ意味を知るようにさせるところの感じられた体験過程が進行していないのである。夢とか幻覚というのは,いってみれば,もしもそういう状態でなければ機能し,感じられるはずの過程がバラバラに分解された断片のようなものである。ここには現在との相互作用過程が進行していないので,感じられた意味もまた働き出して来ない。
これら幾種かの異なった状況を追求していって,その各々の場合に相互作用過程がどのようにして初めに削減され(curtai1),ついで,感じられた体験過程の機能がどのようにして失われていくかを考察してみよう。
b) 極度に構造に拘束された様式は相互作用過程が大きく削減された時に常に生ずる 夢,催眠,精神病,CO2とLSD,及び刺激遮断のすべてに共通する要素が少なくとも一つある。それは,進行していく相互作用の削減という点である。
睡眠中は外的刺激が著しく減少する。このように平生,環境との間に進行している相互作用過程の削減に伴って夢が生ずる。
催眠でも同様に被験者は現在の刺激との相互作用を閉め出してしまい,かつ彼自身の,自己感応性(self-responsiveness)を止めてしまわなければならない。彼はある一点に注意を集中することを求められる。
精神病はしばしば指摘されてきたように(例えばShlien,1960),その発生起源においても,後年においても共に一つの「孤立」("isolation"),すなわち感情と事象との相互作用の削減を伴う。同様に人々からの物理的孤立もまた,ある人々においては幻覚をもたらす。
ある種の毒物(CO2,LSD)は身体生命の生理的な相互作用過程にとって有害である。CO2は呼吸過程を弱め(そして最後にはとめてしまう)。
個人を実験的に,音も光も遮断し,触刺激からも遠ざけてしまうような衣類に入れておくと(2,3時間後には)精神病様の幻覚を見るようになる。
これらの広い範囲にわたる様々の条件下に生ずる体験の間に,奇妙に似たところがあることは,それらの諸条件に関して何か類似したものがあることを示唆している。それらのすべてが共有している少なくとも一つの要因は,感じられるものとして体験されつつある進行していく相互作用過程の削減である。我々はかくして通常,進行していく体験過程がもたらす暗黙の働きがそこに欠如していることを予想してもよいだろう。
さてこのことは,これらの状況のすべてに生ずる現象にまさしく共通するところである。これらの現象のもつ奇妙な性質は,この感じられた機能の硬さ,あるいは欠如として理解することができる。通常の場合,我々はこうした感じられた機能によってすべての現在の状況を解釈し,かつそうした働きに対して自己過程の中で反応しているのである。このように,諸状況を適切に解釈すること,及び自己の感覚のいずれもが失われるのである。
c) 暗黙の機能の欠如
これらの条件の下では一様に,感じられた体験過程の暗黙の機能(定義4を見よ)が硬化し(過程として進まなくなり),あるいは「字義通りの」動きとなる。例えば,催眠下において「あなたの手をあげて下さい」といわれると,その人は手くびを使って手のひらを上にあげるだろう。彼は目覚めているときのように,慣用句を適切には解釈しないだろう。(なぜなら,上の句の意味はいうまでもなく,手全体を空中にあげる,ということなのだから。)このように「字義通りに」うけとるという特性は夢や精神病にもみられる。「一次過程」と呼ばれるものの多く,「分裂病的思考」あるいは分裂病者における自己の「具体的な」思考を「抽象する」能力の障害,やはり分裂病者の「部分を全体ととってしまう傾向」(Goldstein,1954),これらはすべて.体験過程の働く様式が正に字義通りであり,硬化していることを示すものである。夢や催眠の場合と同じく,体験過程の感じられた過程が削減され,その暗黙の働きが出てこないのである。
適切な解釈と反応に必要とされる多くの暗々裡に感じられた意味がそこでは働いていないのだ。なぜなら感じられた過程が進行していないからである。(様々の意味はこの過程のもつ様々の局面(process aspects)である)
「字義通り」ということの意味は,まさしくこういうことなのだ。つまり,所与の一組の言葉や事象を我々が解釈するに当たって情報として役立つべき他の意味が慟かないこと,これである。
d) 「自己の喪失」
夢,催眠,精神病,刺激遮断及びLSDで得られる現象に共通の他の特徴は、自己という感覚の喪失である。夢で我々が知覚することは自己(あるいは自我)の統制,解釈,所有を超えている。催眠をかけられた人は他者の暗示を彼自身のものとして特別に受けいれ,それらの暗示が彼自身,自分で反応することに取って代わるのを許すのである。また精神病に関していえば,患者はよく「それは私がしたことじゃありません。何かが私にそうさせたのです」とか「私は、自分じゃない」とかあるいは「この声は私のじゃない」「私の内部は全く無です」などと訴える。彼の頭の中の,幻覚,声,ものは彼自身のものとは感じられていないのである。彼は自己という感覚を欠いているのだ。もしも彼が自己(「損われていない自我」)の感覚をもっているならば,この感じられた感覚が幻覚現象を告げることはない。これらの現象に関して彼には,その意味を暗に包含している自己という感覚がないのである。
この自己の喪失は,体験過程の感じられた働きが欠如していることに帰せられる。ちょうど外的事象の解釈と事象との相互作用が,感じられた体験過程にもとづいて行なわれず(精神病の段階にまで至ってしまうのと同様に),この感じられた体験過程が自己反応に欠けているのだ。
我々は自己を自己過程として定義した。自己は,人が自分に感じられた過程を自らの象徴,行動,あるいは注意によって推進させうる度合いに応じて存在する。刺激遮断の実験が示すところによると,なかなか精神病的発展を示さない人は自分自身に反応する能力に,より恵まれている。(それは最大の「想像性」および「創造性」と呼ばれてきた。)研究成果は我々の見解を確証するものである。何故なら,ある個人が自らの体験過程を推進させうる程度に応じて,その人は自己の相互作用過程を(象徴や注意によって)維持していることになると考えられるからである。
相互作用過程が著しく限定されるとき,ただ単に精神病様の体験が生ずるばかりでなく,「自己」の感覚が失われる。そこでは自己反応の対象となりうる感じられた過程は静止的となり,その人は自分のものとなっていない(unowned)知覚を行なうのである。
e) 静止した,反復的,変容不能の様式
感じられた体験過程の暗黙の機能が硬化している限り,現在の諸状況がそれと相互に交渉し合い、それを修正する術はない。従ってそれは現在の状況の解釈にはならず,ただ現在の状況によって変容を受けない反復的パターンが見られるだけで終わってしまうのである。現在の諸事象によって「きっかけ」を与えられる結果として,事は連続して「進んで」いくかもしれないが,それは現在の諸事象の解釈でもなければ,それら事象への反応でもないのだ。
f) 精神病的「内容」(contents)の普遍性
極端に構造に拘束された様式下での諸経験は過程局面(process aspects)ではない。それらはまさしく,感じられた過程が進行していない度合いに応じて生ずる。あるいくつかの主題がどんなに普遍的に反復して出現するかには驚くべきものがある。通常それらの主題は我々に馴染み深いあの「口唇的,肛門的,および性器的な」主題である。
すべてこうしたことが我々をつくりあげている材料となっているのだ。そして進行中の過程がその進行を止めているときには,通常それまで進行していた過程がこうした材料に分解,還元されてしまうと考えられる。
g) 精神病的諸経験は「抑圧されたもの」(the repressed)ではない
上記のように,構造に拘束された諸現象を今始めて「あらわれた」あるいは「噴出した」過去の抑圧された経験とみなすのは誤りである。もしも現象をこのように考えると,次のような厄介な質問が出てくるのである。つまり,多くの理論において適応は覚知を必要とし,抑圧は不適応をもたらすといっていながら,他方,同じ理論において精神病はこれらすべての体験に「気づきすぎており」それらを「再抑圧する」必要があるといわれているのである。
事実をよりよく公式化して,上の疑問を解決するためには,観察事実を次のように解釈すれば良いように思われる。事がうまく行っているときには,これらの普遍的な過去経験は感じられた体験過程の中に暗々裡に機能している。
その過程が進行を止めたときには,分解され,静止した諸々のパターンが感覚中枢の中心を占めるのである。
組織的なはっきりしたとらえ方をこのような形でやり直すことによって,例えば次のような具体的事象をよりよく説明することができる。この見解によれば「精神病」はその底にあると我々がみなしている様々の内容ではないのだ。
(その意味では誰でも「精神病的」である。)否むしろ,「精神病」とは,感情と事象との相互作用過程の削減,もしくは停止ということに他ならないのだ。だから我々がある個人を「境界線の精神病者」であると分類するとき,これは,彼の中にある危険な諸々の内容が横たわっているという意味ではないのだ。彼は「孤立し」「吸入せず」「何か十分には存在しておらず」「退避しており」あるいは「自らに触れていない」のであり,これすなわち彼の体験過程様式が構造によって強く拘束されていることなのである。「精神病」の発生を防ぐには,暗黙のうちに機能している感情にできる限り反応してやることによって,相手の中に進行しつつある相互作用と体験過程を前進させ,再構成することが必要である。
「精神病的な内容が潜在している」という考え方に従うときには,二つの誤りに陥る危険がある。我々はある人間の感じている困難や障害を(それらの感情が明らかな精神病という階段にまで発展してしまわない場合には)無視したほうが良いと決めるか,あるいはそれらの感情を「解釈し」,かつそれらを「掘り出す」かのどちらかをとる。
どちらにしてもこれによって,パーソナルな相互交渉と個人の中に暗に働いている諸感情は否認され,わきへ押しやられてしまう。どちらに決めても,その結果は精神病ということになるだろう。……それら二つの決定のどちらにも共通している点は「内容」が精神病的なのだという,明らかに誤った考えである。
何か「底にある内容」が「精神病的」だなどというようなものはないのである。精神病的なのは体験過程の構造に拘束された様式であり,感じられた体験過程と相互作用が欠如しているか,文字どおり硬化していることである。
「境界線にあろうと明らかな精神病にまで至ってしまったように見えようと,もしもまだ機能しているものを前進させるようなパーソナルな反応によって(注55),相互交渉や体験過程(注56)が再構成されるならば,その人は「生気をとり戻す」であろう。
26.内容の変転(Content Mutation)
暗黙のうちに機能している感じられた意味が推進され過程が再構成され,かつその様式がより即時的なものとなるにつれて,「内容」にも,ある不断の変化がみられる。レファラントの移動が起こると,象徴化と直接のレファラントは共に変化する。連続している一連の「内容」(contents)というものがある。時にはこれらの連続的な諸内容が,以前からずっと存在していたかのごとく考えられ,それらが「あらわれる」("emerge")のだといわれたり,あるいは最後の基本的な内容が今になって遂にその姿をみせるに至ったかのように「あらわれ出る」のだといわれる。しかし私はこれを内容の変転(content mutation)と呼びたい。それはただどう解釈するかという点だけの変化ではなく,感情と象徴((feeling and symbols)の両方の変化なのである。内容が変化するのは過程が諸反応によって新しく完了され,再構成されるからである。どんな内容が結果として出てくるかは反応の如何によるところが大きい。
内容変転の例としては既にその一つを示した。(定義8-9)それ以外にも次のような例をあげることができる。
クライエントはひどく脅えている。「世の終わり」("doom")が来るだろうと語る。世界はバラバラに飛び散ってしまうだろう。何か恐ろしいことが起こりそうだ。怪物がいる。
ここにあるのは「精神病」だという人もあろう。とにかく全くありふれた精神病的内容である。
すごくこわいのです,と彼女は言う。私は,彼女が恐れを感じており,だから私が一緒にいて,親しくなりたいと思っている旨反応する。彼女は恐れているのだ。たとえ「世の終わり」という言葉についての意味豊かな象徴学がいかに十分存在しようと,はたまたその言葉にはたいした象徴学的意味がなかろうと,ともかく,彼女は今,恐れているのである。
何分かあるいは何カ月か後になって彼女はこんなふうに言えるようになる。
「私は破滅する(being lost)のがこわいのです。私は破滅です。私は全く破滅です!」
「長年,私はいつもいつも何をすべきかを正確に知らなければならないと思っていました。私は何をすべきかを正確に知ろうと計画し,それで気が気でなかったのです。ちょうど馬の目隠しをされているようなものでした。言ってみれば,見上げる(look up)のがこわかったのです。私には誰か,あるいは何かすがりつくものが必要なんです。さもないと私というものが消えてしまうような気がするんです。」
これは世の終わりよりもわかりやすい。内容としては,「対象喪失」"object-loss"あるいは「受動―依存を求める要求」であろうと今は思われる。しかしそれが何であろうと,必要とされている反応によって接触が生まれなければならない。そこで私は彼女の手を握ったり,あるいは静かに語りかけ,何かを口に出していう。それは関連のある事だろうとなかろうと……とにかく私の中から相手との接触を維持するために出てくる何かである。その言葉には破滅するという彼女の恐れをこちらの言葉で消し去ろうなどというつもりは毛頭ないのだ。過程の統一性(process unity)という観点からは,かかる語りかけも触れることも同じであり、そこにおいてはどちらも相互作用を再確立する働きをもつのである。そうするためには,相互作用はパーソナルなものでなければならないし,それは「すがりつきたい」という要求を,順調に進行していく現実的あるいは象徴的な接触へと転換せしめなければならない。
「私はすがりつきたいのです,だけど私は一匹の怪物です。誰も私を愛してはくれません。あなただって私がいやでたまらないはずですわ。私は何もかも欲しいのです,私のすることすべてが要求なのです。私は利己的で邪悪なだけです。もしできたらあなたを吸い干してしまいたいのです。私はただ一つの恐ろしい口にすぎません。」
今や口唇要求,口唇取り入れが内容だという考えが出てくるかも知れない。
だが彼女の要求は,終わりなき無限の空腹を感じているのだ。私はこんなふうにいう。「まさしくあなたにとってそれは終わりのない,底無しの,何かひどく恐ろしい感じなんですね。それはあなたが永久に食べさせてもらい,養ってもらいたいと望むにも似ているのですね。」
そのとき,あるいはいつか別の時に彼女は言うかもしれない。「私って本当に赤ん坊なんです。その子どもを私は憎んでいます。醜い子ども。私は醜い子どもでした。誰だって今のような在り方の私を好きになろうったって好きになんかなれませんわ。」
しかし,我々二人は長い道のりを経て,今,かつての怪物が一人の子どもだというところにきているのだ。一人の子どもというのは,いとも結構な(nice)ものである。では何がかつては怪物になっていたのだろうか?子どもは全くのところ一人の人間であり,普通の,当たり前の存在である。以前の身の毛もよだつような恐怖は何がなったものなのだろうか?ある精神病だろうか?(The psychosis?)
このような内容の変転は二,三分のうちに起こることもありうるし,何ヵ月以上にもわたって生ずることもある。それは上記のような言葉や象徴のうちに生ずるかもしれないし,全く社会的にうけ入れられる言語において,あるいは奇異なまとまらない言葉と共に,あるいは沈黙のうちに生ずるかもしれない。私が主張している論点は,人が反応を行ない,それによって相互作用過程を推進させ,再構成するにつれて内容は変化するということなのである。かかる相互作用は感じられた体験過程を構成するものであり,内容は常にそれの局面なのである。過程の変化につれて,内容は変化する。それを名づけて,私は内容変転(content mutation)と呼ぶことにする。
内容変転はいわゆる「精神病的内容」を顕著に伴って生起する。怪物,異様な恐れ,際限のない飢え,および世の終わりを予想させる烈しい恐怖は非常にしばしば,孤立や自己および相互作用の喪失のあらわれた局面である。それらは一人の人間の中にある精神病的な「もの」(things)ではなく,狭められ,あるいは停止された相互作用過程なのである。相互作用過程が回復するにつれて,内容が変化し,同時にそれらの内容はより理解し易くなり,普通に人間的となる。
しかし内容変転は上の例で示したような,極めて劇的な表現を伴うとは限らない。それは黙しがちの,自己を表現しない,「動機づけをもたない」人々においても同じように生ずる。我々は分裂病者との心理治療の研究(Rogers等,1961;Gendlin,1961b,1962a,1962c)においてこうした人々と共に,おおいにやってきたし,現在もやっている。ただしこれらの人々は,往々にして自分が感じていることを殆ど全く概念化しない。以下は内容変転についての別の一例である。
ある人が彼を悩ましている一連の事情について語っている。これらの事情についての彼の報告には,無数のパターンや特質や人格「内容」を指摘しうるように思われる。
多分反応に助けられて,彼はこの一連の事情が彼を非常に怒らせてしまうのを知るところまで進んでいく。おおそれだ!彼は怒り猛る。彼は事柄に関連のある人々を傷つけ,滅ぼしてやれたらと考える。彼は今度その人達に会ったら,自分が相手をやっつけてしまうだろうと懸念する。この破壊的な欲望を統制できたらと彼は希望する。彼は自分自身の敵意と,それを自分で恐れていることに驚く。彼にはこれ以上事情を報告する必要は殆どない。彼にとってこの怒りと破壊要求の体験は,かくも深く真実なのである。さて,ここでも我々は人格「内容」を考察しようとしている。我々の初めの演繹は今や広すぎるようだ。事実,ここに我々は,この男の人格の内容をいくらか知っている。我々は彼が自分自身の敵意を恐れていることや,この敵意の基になっていることのある部分についても通じている。
しかし彼が言葉を続け,(私も彼の感じられた諸々の意味に反応し続ける)としよう。彼は自分がその怒りをこれらの人々に向けて吐き出そうとするところを想像する。彼は今や自分が彼らを無統制に攻撃し,傷つけはしまいかとは懸念していないことを知る。(何にも増して!)予想できそうなことは,彼は彼らに向かってどなることさえできないだろうということである。なぜなら多分彼は,声を出して泣いてしまうと思われるからである。彼の声が,のどのあたりでふさがって出てこないだろうということは,彼がよく知っている。事実それは,今この時も,のどのあたりにふさがっている何かなのだ。このことは敵意そのものではない,それは今あらわれたのだ。むしろ彼は今ひどく傷ついたと感じているのだ!彼らは彼に対してこういうことをすべきではなかったのだ!彼らは彼を傷つけ,そして……彼には何ができるというのか?そして今や彼はいくらかほっとした気持ちで,とうとう,このことすべてが実のところ,彼にとってどんな意味をもっているのかということに触れているのを感じているのだ。(我々はここで,再び別の,第三群に属する人格内容を提案してもよい。)
しかし彼が語りつづけるにつれて,情況そのものはたいしたことではないということがわかってくる。驚くには当たらないのだ!それについてあんなに気持ちが混乱するなんて全くつまらないことだと思われて来たのだ。内容は実際何か別のものであり,それが痛むのである。そして今や彼は,それが結局は傷ではないことに気づく。彼はそれによって,自らが弱く無力無援であるのをしみじみと感じたのである。「私は本当は傷ついてはいないのです。」(と今や彼は知る。)「それ以上にそのことは私がどんなに世の中でやっていけないかということを,私に指し示してくれているのです。」(このことを今や受動性,去勢(キャストレーション)と呼んでもよいだろう)。
「内容変転」という用語を,「内容」(the"content")と思われる事がこのように継起的に移り変わることに適用できる。内容(contents)は進行中の感情過程の過程局面である。内容は感情過程の中に暗々裡に機能しているが故に,象徴化されうる。それが推進されていくにつれて,レファラントの移動と象徴化されうるものの変化とがみられるのである。それは単に解釈の変移にとどまるものではない。レファラントの移動―すなわち象徴化されることが変化していくのである。
内容変転という考え方は,我々が今迄に持っている概念がすべて全く適用できないと主張するものではない。そうした概念は個人の他の諸行動を予測するのに用いてしばしば適確であるし,またそれらの概念を用いることによって次の内容変転を予測したり,それに対し敏感に用意して整えることが可能となることも多い。しかしながら,人格内容の諸概念は静止的であり,かつあまりにも一般的(注57)に過ぎるのである。それらは直接リファーすること,レファラントの移動,及び内容変転の代わりとは決してならない。
注1 進展的変化をこのように,そこに示される静止的内容によって眺めるという傾 向は,人間の診断的,分類内側面を研究するために心理治療や病院という状況を利用している非常に数多くの研究計画の内にもみることができる。これらの計画とは対照的に変化を研究するために,これらの処遇伏況(treatment settings)を利用している研究の数は寥々たるものである。
注2 「規範」 "paradigm"あるいはモデルという語は,これらの理論において用いられている理論的モデルを指しており,それらの理論で「抑圧」とか「内容」という用語そのものが用いられたかどうかということとは無関係である。
注3 大部分の理論は変化の不可能性について極めて注意深く構成された理論構築全 体を,これら二つの観察事実に言及する時には,何の説明もなくパッと振り捨ててしまうのである。通常このことは,変化は事実起こるのだ,というふうに実践について唐突にニ,三言ふれるだけで片づけられている。個人は,彼が気づき得ないことに,(特定の理論の記述にもかかわらず)実際には,「何となく」「気づくようになり」,(理論のいうところでは)彼がかかわることができないような新しいやり方で,心理治療者に,実際に「かかわる」(relate)のである。
注4 抑圧モデルのもっとも過度に簡略化された用いられ方を示せば,次のようなものである。人Aが,「人BはB自身では気づくことができないようなある内容をもっている。なぜならその内容は"無意識"のものだから」と主張する。B自身の様々な体験や感情は定義上,切りとられ「一顧だにされない」のである。この想定された内容に至る道で,Bが自ら活用できるものは何ら存在しないのである。
注5 S. Freud,1914(p.375),1920(pp.16-19),1930(p.105).
H. S. Sullivan,1940(pp.20-21,205-207),1953(pp.42,160-163).
C. R. Rogers,1957,1958,1959a及びb,1960,1961a及びb,1962.
注6 以上の「 」印のカッコでくくられた諸概念は原文ではいずれも複数となっている。
注7 観察された事柄は理論の出発点でなければならない。観察された事柄は理論によって秩序づけられ,解釈され,定義づけられ,この理論に導かれて,さらに多くの観察事実が発見されるのである。観察事実はこのように理論概念によって発見され,記述されるのだが,この理論概念と観察された事柄との区別は事実上はしばしば困難である。しかしそれにもかかわらず,我々が理論を作ったり,変えたりするときには観察された事柄を区別して,これを固守していかなければならない。理論諸概念の助けによって一度ある観察事実が発見され,定義されてしまえば,たとえその概念の方が変更や棄却を止むなくされた場合でもその事実は立派に残るのである。様々の理論がいつになっても我々に役立つのは理論そのものよりもむしろ,それに導かれて我々が観察し得た事実によるのである。
さらにまた,観察された事柄がいろいろの理論によって様々に定義されていても,もしも我々が,それらの事柄の方をしっかりと見つめるならば,それらがもっている理論としての諸々の矛盾の解決ももっと容易に行なわれるのである。
注8 ここで定義されている新しい概念や言葉は,一貫して,新しいそしてより効果的な操作変数を導き出すという意図をもって用いられている。研究が引用されている場合,そこでは既に理論によっていくつかの操作変数が導き出されている。理念概念は操作変数から区別されねばならない。たとえば,上の「感情過程」は一つの理論概念である。
操作諸変数は一つの理論概念の助けによって隔離され,定義されるもので(多くの特殊の変数が存在するであろうが),それらは行動の指標であり,かつまたそれらを信頼できる形で測定できるために用いられるところの,正確に反復可能な諸手続きでもある。
本文で述べた「真に」("really")と「単に」("merely")ということの差違が「主観的な」差違であるとする場合,これはただ,常識的な観察者にとっては異なった行動結果を予測させるのに役立つところの観察可能な変数というものを,我々の方がまだ定義してはいなかったということを意味しているに過ぎない。
注9 変化が殆ど生じない場合については説明可能である。すなわち(たとえば理論によってその内容は異なるにしても)ある個人をして現在の状態に至らしめ,またそこにとどめている因子そのものによって,彼の思考や個人的関係が限定され形づくられているのである。だから彼の中には殆ど何の変化も生じないのである。
注10 (訳者)この章の前半は著者の草稿にのみとりあげられ,原典では割愛された節分であり,後半は原典では注にまわされている。訳者は諸般の事情を考慮した結果,著者の草稿を全面的にいかすことに決め,新しくこのような見出しの下に一つの章を挿入することにした。従ってこの見出し名は訳者により付加されたものであることをお断わりしておく。
注11 (訳者)personification‥‥‥個人が自分自身,あるいは他者についてもつイメージであり,要求充足と不安の経験から生ずる様々の知覚,感情,態度の複雑な総合体を指す。
注12 (訳者)サリバンの原文からジェンドリンが省略した部分を一部訳出して読者の理解の助けにしたい。
「私(サリバン)には白髪は殆どなかった。身体的属性について大きな幻想をもつことはそうざらにみられることではない。いうまでもなく,ここで述べられた太った白髪の老人というのは患者の過去において関係のあった人物に由来しており,この人物の重要な気性を示していだのである。この時まで私は誤った解釈を退け,並列的随伴現象を探索しようと努めたが全然失敗に終わってしまい,かかる幻想を防ぐことはできなかったのであった。」
注13 (訳者)訳者の参照した版ではp.101である。
注14 訳者の参照した版ではP.102。
注15 フロイトも何かこの種のことに気づいていた。フロイトによれば『しかしその際我々は,我々の知識と患者の知識とはあくまでも別々のものだということを心得ている。……原則としてわれわれは,構成を話してきかせること,つまり説明を与えること(解釈の投与)を,患者がそこまで接近してきて,ただもう一歩,決定的な綜合(the decisive synthesis)だけが残されているという時期になるまで差し控え,待つ場合が多い。もしこれとは違ったやり方をとり,患者に準備ができる以前に我々の解釈を浴せかけて彼を襲ったりすれば,我々の伝えたことが何の効果も及ぼさないか、あるいは激しい抵抗を呼びおこす……であろう。』(フロイト,1940,邦訳P.360)
注16 伝えられ理解されることがこのような効果をもつということは,ロジャーズ以前にも気づかれてはいた。サリバンは言っている「人は他人に伝えようとするところ迄は自分の経験について知っている。」(サリバン,1940,p.185)
注17 (訳者)この百分は原典から除かれている。
注18 この点に関し,ロジャーズは外観上古今の見解と広く共通したものをもっている。
注19 (訳者)ここから以下のロジャーズヘの言及は再び原典で注となっている部分である。
注20 ロジャースと共に働いた過去10年間に私は上記の公式化のある面に貢献してきた。ただしその公式化の基本的な意向は,体験過程の理論が出現するに先立ちすでに今日の姿と同じであった。フレッド・ヅィムリング(Fred Zimring)は協同研究者としてロージェリアンの理論のこの局面を公式化するのに私を助けてくれた。
注21 (訳者)ロジャーズに関する以下の議論も原典からは除かれた部分である。
注22 (訳者)congruenceという語は合同,一致という意味をもち幾何学における二つの三角形の合同といった形で用いられる。
注23 (訳者)パーソナル(personal)な関係を強いて邦訳すれば「直接の人間的な」関係とでもいえるが日本語として,原語にぴったりした良い言葉ではないので,以後原語をそのまま用いることにした。
注24 (訳者)empathyは「感情移入」とも訳されるが,ここでは人間相互間のコミュニケーション現象の一側面を示す言葉として「共感」を採用した。
注25 (訳者)unconditional positive regardの訳。絶対の肯定的顧慮と訳すこともできる。
注26 ロジャーズはまた(1958,1959a,1960,1961a,1961b)この連続線を「過程尺度」(Process Scale)という一つの評定尺度に作った。この理論と尺度は体験過程の理論からの変数をいくつかとり入れている。(Gendlin,1955,1957,1961a,1962b,)
注27 (訳者)この語の意味と訳語についてはp.91の訳注を参照されたい。
注28 データーについてはクライエントの許可が得られており,法によって秘密性は常に保たれている。
注29 我々の予想によれば面接を重ねていく聞にこの感情過程の指標が増大していけば,その判定された治療的帰結は成功的なものとなるはずであり,かつ面接の後期では,この感情過程それ自身への参加そのものさえ,より深まってくると思われたのである。
注30 訳者はこれまでのところexperienceを「経験」と訳してきたが,以後「体験」と訳すことにする。この語の使用法にこめられている,全有機体的な直接の感覚を重視するからである。
注31 (訳者)referentは元来言語学の術語で「語が指示する対象」を意味する。本論では体験の主体がリファー(refer)する(注意を向ける,指示する,言及する)内的な体験対象をさしている。適切な訳語が見当たらないので以後,レファラントと仮名書で示すことにする。またreferに対しても従来邦訳文献では「照合」と訳されていることが多かったが,これでは上記の諸内包を含めることができないし多少意味もずれるので以後原則としてリファーと仮名書で示すことにする。
注32 (訳者)explicateの意義は「(論旨,原理などを次第に展開して)明らかにする」こと。
注33 体験過程は本質的に感情と「象徴」(注意,言語,事象)相互間の作用であり,これはちょうど身体的生命が身体と環境との間の相互作用であるのに似ている。
物質的生命過程はその根底的性質において相互作用である。(これはサリバンの基本概念を適用したものである。)例えば身体は環境(酸素と食物)を含むところの相互作用過程である細胞から成っている。もし我々がこの相互作用という概念を体験過程に適用するならば,体験過程は感情と事象との相互作用とみなしうるのである。(ここで「事象」(events)というのは言語的音声,他者の行動,外部的に生じた事象―即ち,感情と相互に作用しうる事柄は何であれすべて含められるようなものをさしている。)
注34 情緒(affect)と意味に関する合理論に関しては,ジェンドリン(Gendlin)(1962b)を見よ。後に(定義15-18,及び26)示すようにここでなされた議論は「内容モデル」すなわち「心理学的事象は概念的に形成された静的諸単位から或る」という誤った仮定を排するところの一つの人格観に基盤をおいている。
注35 「正しく」という言葉はここではまさに,惑じられたレファラントと我々が今記述している象徴との間のこの相互作用そのものをさしているのである。数分後には更に別のシンボルとの間に同じタイプの相互作用が起こって全く別の,だが今や「正しい」一段と進んだ概念化が再び起こりうるという事実がある。この場合の「正しさ」ということは,感じられたレファラントのみのもつ意味が所与の一連の象徴と意味的に対応するということではない。ここでいいたいのは,「正しさ」ということはあるいくつかの象徴が作り出し,また我々が上の所与及び定義5と6において述べてきたところの,体験された効果というものをさしているということである。
注36 自律神経的相関現象を用いた研究(Gendlin and Berlin,1961)は操作的にこの観察事実を立証している。被験者達はテープに録音された教示に従い様々の過程をとるように求められた。各々の教示を与えられた後,その教示が作用するための沈黙の時間があった。その結果見出されたことは彼等が厄介な個人的問題についての感じられた意味に内部的に焦点を合わせるようにといわれ,かつそのことを後で報告するようにといわれていると,その間緊張低下が起こっていることが皮膚電気抵抗(GSR)(及び皮膚湿度と心臓鼓動の速さ)から判る。この教示やあれこれ様々の教示の後で個人がどう動くかということを規定しチェックすることはいつも困難であった。だからこの研究からは結論的なことはいえない。それにもかかわらず被験者から得られたいくつかの返答によって,一般に脅威を与えるトピックスは緊張を増大するが,直接の内部への焦点づけは緊張低下をもたらすという観察事実は支持された。
注37 聴き手が相手個人の内部の「この」感じられた素材(datum)に彼の言葉でリファーすること,そして何が正しく,何が正しくないかを素材それ自体が決定する感じを聴き手の彼が分かち合うことが極めて重要なのである。聴き手の言葉が正確であったか,なかったかということはたいして重要ではないのである。
注38 (訳者)unfoldは外に開くことを意味するが,われわれの場合,小川信男による訳語「開眼(かいげん)」すなわち悟りの境地のニュアンスを含んでいる。しかし悟りとは一応区別する必要を感じて大和言葉「開け」を採用した。
注39 われわれは常に過程が過ぎたあとで論理を適用し,そこに意味されている諸関係を公式化することができるのだが,上に述べたような具体的なある感じられた過程において,様々の問題やトピックの間の無数の可能な関係のうちのどれが機能しているであろうかということを,あらかじめ適切に選択するということは殆どありえたいのである。
注40 (訳者)"give"とは「圧力を加えられて曲がったり,動いたりすること」転じて「順応性」「伸縮性」を意味する。
注41 ここで私は直接のレファランスを含まず,それ故焦点づけではない所のいわゆる,「内面的(internal)」注意に共通に含まれるいくつかの性質について述べなければならない。
「体験過程」という用語にはいかなる種類の体験であれ,すべて含まれるのであるから,我々がそれを内部的に感じられたものとみなし,それに対して過程という,理論的公式化を適用する限りにおいて,直接のレファラントと呼ばれる体験過程の様式に関して様々の誤解が生まれている。この「直接のレファラント」という,より特殊の用語は内部への注意と呼ばれうるようなことについては,何も意味していないのである。
特に直接のレファラントは「感じられる」ものであるので情動(emotions)とまぎらわしく用いられてきた。(情動もまた,「感じられる」というふうにいわれる)しかし,直接のレファラントというのは内面的に複合しており,個人がそれにリファーする時には「彼自らに触れている」ように感ずるのである。これに反して,情動の方は内面的には全く単一の性質のものであり……それら情動は「まさしく情動そのもの,それですべて(sheer)」といった類のものである。しばしば,それらの情動のためにそれを感じている本人がその情動の複雑な基盤であるものを彼自らの中に感ずることができなくなることがある。
この区別や他の区別をもっとはっきりさせるためには,直接のレファランスでなく,それ故焦点づけでもない個人内の様々の生起事象について,次にあげるリストをみていただくのがよかろう。
直接のレファランスとは次のようなものではない。
a. 全くの情動そのもの(Sheer emotions)
罪悪,羞恥,困惑等の情動やあるいは私が「悪い」のだ,といった感情は私についてのものであり,あるいは私の経験のこの側面やそれが私にとってもつ意味についてのものである。これらの情動はそれ自体が体験ではないし私にとってのその体験の意味なのではない。このようなものとしての情動は感じられた体験過程への直接のレファランスではない。このすべてが私にとって意味するもの,すなわち,例えばなぜそして何が私をして恥ずかしいと感じさせたかといったことに直接リファーするためには,私は少なくとも瞬間的にはこれらの情動によって,そのあたりを(或は私自身のまわりを)まさぐることが必要なのである。例えば私はこう独り言をいわねばならない。「よろしい,確かに,私はずい分恥じている,しかし今この瞬間それは私にとってすごく恥ずかしいことだが,同時に私はこのことが私の中では何であるのかを感覚として感じたいのだ」。
例えば―― 一人のクライエントが不安や恥辱や憤激で毎晩何時間も眠れぬ時を過ごした。彼はある情況に対する自分の反応に対して,自らを責めた。彼はすべての事柄について,馬鹿だったと思い恥ずかしく感じていた。彼がそれを解決しようと試みた時に,彼は激しい怒りを感じたり(彼はそれらのことに直面しよう,決して退かずにそれと戦いをまじえようなどと決心したであろう),また別の時には恥辱を感じたりした(自分は愚か者だった,辱められた等)。心理治療の時間中だけ,彼が直接「このこと」や,それが何なのか,それはどんなふうに感じられるのか.自分の中のどこにそれは「住んでいる」のかといったことに焦点を合わせていくことが可能になったのである。「このこと」の内に彼はそれ以前には特にとり出すことができなかったところの,他の人びとやある状況に関しての様々の確実な知覚と,彼自らについての様々の個人的側面を見出したのである。しかしながら,治療時間と次の治療時間との間一人でいる時にはこのことをすることはできず,ただ恥辱や怒りだけを感じていたのである。これらの情動の「そばを過ぎて先に」一時的に進んでいくことによってのみ,彼は直接「このこと」「私が感じていること」にリファーできるのである。いうまでもなく彼がリファーしたこれらのことについて彼は上に述べたような種々の情動をもやはりもっているのだ。ある事柄に関してわれわれが恥辱や罪や悪の感情を今自分がもっているということを認識する代わりに,罪や恥辱や悪を直接感ずるということは全く驚くべきことであり,しかもこれは普遍的なことである。
あたかも,われわれの感情とはわれわれにとって一体何なのかと感ずることを,これらの情動それ自身が排除してしまうかの如くである。……それはこれらの情動がひどく不快だからというのではない。情動はわれわれが中心的に感じていることをわれわれが完成し,象徴化し,それに反応乃至は留意しうる地点にはかかわらないで,そこをとばして(スキップ)しまうからである。私の気持ちとしては,罪の意識(guilt)や恥羞心(shame),悪の意識(badness)は反応一般(responses)として生じた情動であって,行為や象徴イヒによって,我々が自分に感じられたレファラントに対して与えていこうとするような特定の反応(the response)とは違うのだと仮定したいところである。これらの情動は未完の暗々裡の意味を完了するかにみえて実はそれをとばして巡りすぎているのである。それはあたかも飢えてきて,遂に自分の足にかみついたある動物を連想させる。自らの飢えをある,形で「象徴化し」,有機体としての消化過程を推進させるような一つの行動をもって飢えに反応する代わりに,このような動物は自分の足の痛みをもっとも強く覚知し,それに応じて行動したと考えられる。とにかく,これらの情動にとりつかれているということと,感じられた意味とは別個のものであり,両者を混同してはならない。感じられた意味はこれらの情動と結びついてはいるが,それにとどまらず焦点づけを必要としているのである。
一人のクライエントはそれを台風に例えて描与している。「もしあなたが何かにそこまでしか入って行かないなら,それはちょうど台風の中に入りこんで,手ひどく吹き廻されてしまうようなものですよ。あなたはそこに入っていき,台風の目に達するまでは,どんどんどんどんその奥に入りこんでいくことを続けなければならないのです。台風の目のところは静かですし,そこまで行けば自分かどこにいるのかについての意識も持てるのです」このたとえは,焦点づけの方向が情動から離れたものではなく,まさにはっきりと情動の中にあるということ,しかしながら同時に,その焦点づけは情動によってただ単に「吹き廻されている」のとは全く質的に異なった何かを含んでいるという事実を見事に表現している。この説明はまた焦点づけに見出される何か中心的な,深み,静けさ,すなわち他のクライエントが私自身に触れている」と述べていたところの性質をとらえている。
その瞬間の,感じられたレファラントは「私」である。それは開け行く(unfold)のである。それは千もの事柄(a thousand things)である。これに比べると,それに伴い,またそれに先立つ情動の調子は,それ自身では千もの事柄を含んではいない。そこにとどまることはただ単にそれに供給して育てるだけのことである。これらの情動の調子の大部分には,いつも,ある「息をのむような」緊張した,ゆとりのない性質がつきものである。しかしそれでいて情動(the emotion)に背を向けて去ることはまた,我々が「自らをそこに見出す」ところの方向に背を向けて去ることでもあるのだ。このように人はこのような情動の調子の「中に向かって動いていき」「入りこみ」「そこまで動きつづけ」遂に感じられた意味であるところの直接のレファラントにまで到達すべきなのである。
焦点づけとある情動に「溺れている状態」あるいは「捉えられている状態」との相違はある人が自分一人で自分の性格上の難点と取り組んでいる時と,彼をよく理解してくれる他のある人の前で同じことをする場合との両者の経験を比較してみるならば,最も明らかなことである。両者間の差異が顕著なのは何時間もの長い間,彼はただぐるぐると廻り歩き,同じような系列の情動を味わい,結局のところレファフントの移動を全く欠いていたからに他ならない。これと対照的にある人が感じたり考えたりしてきたことのほんの一部を他の人に話すだけで直接のレファランスとレファラントの移動がもたらされるのである。あとの方で私は焦点づけやその他の治安的諸過程を可能ならしめる他者のこうした役割について論ずるつもりである。
他者が諸情動に反応することにより,例えば「それらの情動を承認し」,「それらをあるがままに置き」,「それらによって動かされる」("get by")ことが可能となり,かくて感じられた意味に直接リファーすることができるようになるのである。ただし,個人にとっていつも不確実で困難ではあるが,自分一人で焦点づけを行なうこともしばしば可能ではある。
b.情況的施回(circumstantial orbit)(注 circumstantial……場合次第の,付随的な,くわしい orbit……〔空〕着陸待ち場旋回飛行のコース)
人が罪や羞恥や悪の情動そのものの中に迷い込んでしまうのと同じように,情況をあれこれと気持ちの中で物語りながら,その中に迷い込んでしまう場合もある。例えば,今までにあるいは過去において何をなすべきであったかとか他の人びとは何をしたか,何をやり得たか,何をすることができるであろうか等々。再三にわたるかかる情況への働きかけ,心の中で行なわれる会話の反復,情況の劇的再演,これらはそのことのすべてが担っている感情的意味(感じられた意味)及びその人が(多分他者に助けられて)焦点づけを行なうことのできるような感じられた意味とは明らかに異なっている。しばしばクライエントは,この種の情況的「どうどうめぐり(runaround)」で何日も眠れず,疲れ果てて,治療のためにやってくる。彼は「このすべて(all this)」がもつ意味のある感じに対して与えられるほんの二、三の反応に助けられて,全くほっと救われたようになり、その感じられた意味に今や直接リファーし,それを展開していくのである。それがもつ外見がどんなに悪いものだとわかっても,身体的に感じられ,言語化された焦点づけの諸段階は情況的旋回とは明らかに異なっており,そこには救いがあるのだ。
c.説明的旋回(explanatory orbit)
説明をしようとする様々の試みは直接のレファランスとは別のものである。「私は一体そんなに敵意をもっているのでしょうか?」
「そのことは私がある潜在的同性愛を投射しているという意味に違いありません」「これは私に失敗したいという要求があることを意味しています」「それはまさに私が正しくあろうとしているということなんです」「私はまさに自分が子どもの時に得られなかった愛を得ようとしているのです」「これは妄想です」「他の人たちはこんなことで動転したりはしないのです。だから私は自分がもっているものに感謝していないに相違ありません」
説明概念が単純で馬鹿げていようと,洗練されていて全く正当であろうと,もしも我々がそれらの概念を,直接的に感じられた意味にさしあたり命名し,それに注意を集めるための指示手段(pointers)として用いるのでなければ,そうした概念を使っても何にもならない。直接感じられる意味を伴わないで熟考したとしても真空の中で考えるようなものであり,今いるところから「一歩も先へは進めない」のである。説明的「どうどうめぐり」は心のエンジンを車輪から離して空転させるようなものである。それは人を疲れさせ,混乱させてしまう。それは感じられた意味に焦点を合わせるのとは全く別のことである。焦点づけ過程がほんのわずか歩を進めるだけでも個人の内的光景は変化しうるものであり,その結果その人の全説明概念は突然関連性を失ってしまう。感じられた意味と比較した場合,説明概念の方は極めて大まかで一般的かつ空虚であるから,例えこういう諸概念が正確であってもそれらは役に立たない抽象に終わってしまう。
d.自己操縦(self-engineering)(注 engineer には「(巧妙に)管理経営する,処理する」という意味がある。)
四番めのどうどうめぐりは「自己操縦」(self engineering)とも呼べるべきものから成っている。この場合にも人は自己の感じられた意味に注意を払うことはない。人はその代わりに心の中で自己に「話しかける」(talk at)(注 talk atには「……に聞こえよがしにいう」という意味もあり,「心に語りかける」といった内面的な動きではなく,「表面的に話しかける」といった感じが強い)。彼は非常にアクティヴで構成的ではあるが,自分の様々の感情がまさにどういうものであるかを立ち止まって感じとることなく,ただそれらの感情をあれこれと,もて遊び,いじり廻すにすぎない。この自己燥縦は感じられたレファラントヘの焦点づけやそのレファラントに含まれる暗黙の意味を感知し,象徴化することとは明らかに異なっている。
自己操縦は必ずしも無益とは限らない。事実ある点に関して,体験過程が暗々裡に作用している程度に対応して自己操縦は効果を発揮する。サリバンが主張しロジャーズも時に仮定していたように思えるのだが,意志力と操縦性とのあつれきというようなことがないわけではない。そういうことはあるのだ。人は必ずしも常に自動的に行為とか自己統制に向かって「す-っと送られていく」(wafted)とは限らない。意志力,決定,自己操縦はいずれもしばしば必要とされる。しかしながらそれらは体験過程が暗々裡に働いていない所では効果的に作用することはできない。そのような場合,自己反応やあるいは他者による反応がまず必要であり,そうすれば過程が推進され,かくて体験過程が暗々裡に働くのである。
この焦点づけは普通宗教上の表現でいえば「なおかそけき声を聴く」という言葉が意味してきたものをさしているように思える。このことは近年では良心ということと混同されて来た(だが良心と直接のレファランスとの同一視はただ非常によく適応した人びとにおいてのみ可能である)。わずかの人びとを除いて大部分の人は何れも「この声」を内部のどこで「傾聴し」「聞きとる」かについて困惑するのである。しかし上のことが示すように「傾聴する」ということの本来の意味はじっと静かにすること,自らに「話しかける」のをやめること,そしてまさにそこにあるもの,身体で感じられた,意味深く,より明らかになろうとし,言葉であらわせそうな何ものかを感じとることを意味している。
焦点づけのための原則――心の中で自分自身に適用すべき一つの原則――それは「静かに黙って耳を傾けよ!」ということである。そうすれば具体的に感じられたレファラントにリファーすることによって,レファラントは開けゆくであろう。そしてその意味の感覚,ついで様々の言葉が焦点に入ってくるだろう。
注42 (訳者)structure-bound 小川信男はこれを「殼に縛られた」と訳している。日本語訳としてこなれてはいるが,structureは必ずしも外側の殼のみをさすものではないので,あえて構造と直訳することにした。
注43 ここでわれわれが行なっている公式化は,前にわれわれがサリバンについて諭じた際に始めの所で言及したところのサリバンの基本概念の拡張であるとみなすこともできよう。
注44 抑圧モデルについての前述の論議を想起されたい。また無意識についての後述の論議,定義24.を見られたい。
注45 「内容モデル」についての前述の論議と比較されたい。
注46 G,H.ミ―ド(George Herbert Mead)(1938,p.445)の次の考えと比較されたい。「自己は……他者(others)に対して指差しを行ない,後にはある他者の反応を有機体の中にひき起こすような,原始的な態度から発生する。何故ならば,この反応は有機体にとって生得のものであり,その結果,反応を他者の内にひき起こすような刺激状況(stimulation)は当の個人自らの内にもその反応をひき起こすからである。」
注47 この点は何人かの人によって述べられてきた。フロイトは「防衛のエネルギーは抑圧されたものに由来する……すなわち,行動を動機づける具体的な力は,行動を規定している構造の性質が,その力とは正反対の非現実的なものであるにもかかわらず,現実的なものである」と述べた。ロジャーズは述べた。もっとも治療的な反応とは個人の自己表現のもつ,基本的な意図され感じられた意味を,たとえその防衛性と合理化がどんなに明白であったにしても,その表現の額面通りにうけとることである,と。しかし我々はこれらの一般的な叙述につけ加えて、より特殊性をもった叙述を行なおうとするものである。
我々が彼の体験過程の持つ,これら現実に働いている局面に反応するときにのみ(彼の行動や象徴的な自己反応性(self-responding)は明らかに正反対の性質を持つにもかかわらず)今現実にあるものを我々は推進させ,且彼自身が過去においては(象徴的且現実的に)構造をもってのみ反応してきた過程を再構成しうるのである。
注48 私がそれを事実(a fact)と呼ぶのは,心理治療において我々はそのことを観察するからに他ならない。上記の文脈においては,それは理論的公式化に属することであって,事実ではない。
いくつかの観察可能な研究上の変数が今迄に明らかにされた。成功した心理治療においては「即時性」についての一巡の記述に合致する度合いが有意味に増加することが見出された(Gendlin and Shlien 1961)。ある一群の治療者たちは治療がうまくいっている事例において過した時間中には,上述の新しい体験過程を有意味により多くもったことを見出した(Gendlin, Jenny, and Shlien 1960)。治療が成功したクライエント達は,失敗したクライエント達と比較して,体験過程と表現(自己,個人的意味,治療者,問題などどんな内容に関するものでも)の様式の即時性と呼ばれる尺度として定義された変数に関して,有意味により高い得点を得たと判断された。
注49 このことによって人格変化と心理治療についての大部分の概念は,理想,道徳価値,人生智に関する大部分の概念の場合同様,ややこしいことになるのである。つまり,それら諸概念は人がある目標に到達したときにどんなふうになるかについては少しばかり何かを語ってくれるのだが,そこに達する迄の過程については,何一つ語ってくれないのである。われわれは目標に達するには非常に異なった過程がありうるということを認めないで,ただ(理想としての)概念に適合しよう,適合しようと,しがちなのだが,このためにかかる概念はありとあらゆる害毒を流してきたのである。そこに到達する過程について,もっと良い概念があれば,この旧来の問題は癒されるのである。
注50 多くの現代著作家は人間個人の本質的かかわり合い(relatedness)を指摘してい る。現存在分析,サリバン,ミード,ブーバーらは個人の人格とは,すべてを完備した一つの機械製品のようなものではないし,何かそれ自身の本質的一次的性質をもち,次いでそれが他と相互作用を超こすというようなものではない点を明らかにした。すなわち,人格は一つの相互的に作用するものなのである。 (Personality is an interacting.)
注51 サリバンについての我々の考察と比較せよ。
注52 サリバンからの我々の引用と比較せよ。患者がサリバンと共に過ごした300時間,のうちにある具体的な過程が含まれていたに違いない。そしてその結果として,患者は遂に300時間目に彼を新しく知覚し,自己の並列的(parataxic)な歪曲を克服することができたのである。サリバンの考えでは心理治療はこの時になってやっと始まったとされたのである。しかし患者が並列的歪曲を克服したということは一つの基本的な変化であって,その変化はサリバンとの相互作用において具体的に生じたに違いないのである。それは変化過程のもたらした一つの結果であると考えるべきもので,予備条件ではない。
注53 心理治療における「自己探究」はその言語的概念的内容においてのみ,パーソナルな「関係」("relationship")と区別されるにすぎない。進行する一つの体験の過程としては両者は同じである。ある個人は「ここでだけ私は私自身なのです」というかもしれない。(この言葉は自己と関係の両者を共に含む過程がそこにあることを示している。)彼はまた,ほとんど関係ということについてだけ話すかもしれないし,あるいは自分自身について専ら話すかも知れない。内容が専ら彼自身に関するものであろうと,関係についてのものであろうと過程に変わりはないのである。
この点に関連するいくつかの操作的変数を扱った一つの研究がある(Gendlin,Jenny, and Shlien,1960)。何人かの心理治療者が,あるクライエントとの「治療」の主眼がどの程度そのクライエントのもつ問題に向けられているか,あるいはどの程度そのクライエントが治療者との間にもつ関係に向けられているかについて評定を行なうように求められた。これらの評定結果と治療成果とは関連がなかった。
他方,治療成果は次にあげる二つの尺度とは相関することがわかった。すなわち,「関係は新しい体験の源泉としてどの程度クライエントにとって重要であるか?例『私はいまだかつて自由な解放された気持ちを持ったことはありません。いつも今と同じように誰かに頼りたい,自分は無援だという気持ちだけだったのです。』あるいは『誰かに対して私が本当に腹を立てたなどというのはこれがまったく始めてのことです。』治療成果とやはり相関があった他の尺度は,「どの程度,クライエントは自分の感情を表明したか,そして逆にどの程度彼はそれらの感情について語ったか?」というものであった。これらの所見の示すところによると,治療の成果は内容(トピック)が自己であろうと関係であろうとそういうことによって,影響されないのである。重要なことは個人の動きが,新しく再構成された体験過程の諸様相をもつところの進行中の相互作用過程のある様式に従うかどうかということである。
この研究は,内容的な諸概念と比べて過程的な諸概念の方が操作的な研究変数を産み出すのに有用であることを具体的に示している。初期の研究(Seeman,1954)では心理治療の成功と,治療者との関係についての論議との間には有意味な関連が見出されなかったので,関係の意義が問題となった。この研究の結果は〔それ迄にいわれてきた〕関係の重要性と矛盾するように思われたのであった。新しい研究は同様のことを再現すると共に,進行中の相互作用過程に関する二つの尺度をつけ加えたのである。
操作的な定義を創造するには理論を必要とする。その目的のためにもっとも効果的な類の理論は,体験過程に関して過程的な諸概念を用いている理論である。我々はまた理論と操作的な用語とを注意して区別しなければならない。(後者は前者によって導き出されるものではあるが)後者の定義づけは,両者の区別に続いて与えられる手続きと観察によってなされるものであり,理論によってなされるのではない。
注54 二つの観察事実を選び,それらが再公式化によって,いかに説明されるかを見よう。
1)一連の言葉を瞬間露出器を使って,各語1秒の何分の一という短い間パッパッと暗幕に映し出す。被験者に言葉が判読できない場合には同じ語を何度でも繰り返し見せる。さて,例えばある人が「草」「民主主義」「机」「独立」といった言葉は平均の反復回数で読めたのに,「性」という言葉に対しては平均の倍の反復回数を要したとする。無意識の諸理論はこのことを次のように説明する。
有識体は覚知に含まれる高度の神経諸中枢を活用せずに,ある刺激とそれが有機体に対してもつ意昧とを弁別することができる。
現代の諸理論はこの仮定を共通に持っている。「無意識」「抑圧」「覆われた暗黙の](covert),「私に属さない自己」(not‐me),「覚知に至ることの否定」(denial to awareness),「閥下知覚」(subception)などこれらすべては,気づかれた弁別が生ずる以前にある弁別が存していること,及び個人が覚知においては欠いている体験,あるいは内容が実際は彼のどこかに存在しているという愉快ではないが必要のように思える仮定を伴っているのだ。では上述の例やこれに類似した他の多くの観察事実を別の形で説明することはできないものだろうか?
実はわれわれは個人の中の何かが,まず初めに性という言葉を読み,ついでそれについて不要になり,かくして強いてそれを覚知の外においておくのだと仮定するには及ばない。我々は試みにこの観察事実を個人が覚知し,しかもその語を読むまでは,それを読んだことにはならないのだというふうに解釈してみよう。だがそうすると他の語は半分の時間で読めるのになぜこの語に限って長い時間かけないと読めないのかが問題となる。先にわれわれは(定義の4と16),ある語を読み,それが何であるかを言うためには感じられた体験過程の働きが必要であるということを示そうと試みた。我々は読んだものの意味を明白に(explicitly)考えないでものを読む。我々は音像(sound-images)をもち,感じられた意味をもつ。さてもしも,何らかの理由により我々の感じられた過程が言葉と相互・作用を起こすことができない場合には,我々の眼は行を追い続けながらも,何を読んだかを語ることはできないのである。
問題となっていることを説明するには,過程理論が内容理論にとって代わらなければならない。象徴との相互作用の過程,「それらの象徴を読む」という過程は体験過程の働き(内的に感じられた身体過程)を必要とする。もしもこの感じられた過程がいくつかの点で働かないならば,期待された弁別作用はこれらの点においては生じないであろう。「暗黙で」("implicit")あるべき様相が働かず,そのために現在の状況と相互に作用し合いその状況を解釈することができないのである。このようなわけで,個人はこれらの点において過程の解釈を間違えたか,あるいは単に過程を欠いた(それを完了することができなかった)にすぎないと考えることができるのである。
つまり,この事実を考えるに当たって,彼がはじめにそれらを十全に解釈してから,それらを覚知から閉め出したのだとするには及ばないのである。
二つの考え方の違いを簡単にいえば,内容理論では,人はもの事を知り,体験し,解釈し,反応する過程を完了はするのだが,この過程の或るところが覚知には達しないのだと仮定するのである。これに反して我々の理論によれば,過程が完全には生じていないと考えるのである。
2)二番目の観察事実
ある人が全く幸せな気持ちを感じながら場を去った。だが四日後に,彼は,あの時実は自分は起こったことについてひどい怒りを持っていたのだと覚る,彼は自分がず-っと怒りの気持ちを持ち続けて「いた」(has been)のだが「そのことに気づいていなかったのだ」と感ずる。
さて我々の理論は彼が現在,怒りと呼んでいるものがずーっと気づかれることなしに彼の身体の中にあったという考え方を否定する。我々の考えでは,何かがあったのだが,怒りを持つという過程はなかったのである。彼はそれを今怒りを持つ,と呼んでいる。なぜならば,今彼はその過程に参加しており,彼の現在の怒りが,過去4日の間自分が身体的に感じていたある条件を「満たし」「放電し」「解放し」「象徴化し」「完了している」こと……すなわち早くいえば,その条件とある深く感じられた関係をもっていること……を生理的に彼に知らせるようなある解放惑(定義8を見よ)をはっきりと感じているからに他ならない。過程は生じていなかったのであり,それは,今になってはじめて変更をうけている或る生理的条件の方へと進んでいたのだ。「構造に拘束された」体験が「完了する」ときに我々は,以前にそれが何であったかが今わかるのを感ずるのである。そのときに,そのことがわからなかったのは,今進行している過程はそのときの停止した条件とは異なっているからである。
そのときに存在している(そして腹立ちではない)感情,あるいは感じられた意味に反応することによって過程を完了することで,始めて個人は自分の怒りに「気づくようになる」のである。もしもこのことを内容によって観ようとしても,すべてが全くややこしくなるだけのことである。初めには内容はなかったのであり,ついで,後になって,それはずーっといつも存在していた(どこかに隠れて存在していた)といわれる。しかし過程という概念で考えてみるならば,後で起こった腹立ちが以前に感じられた条件とどんな関係にあるかについての深く感じられた経験こそまさしく,ある以前には停止していた過程が今になって始めて完了したことを我々に物語るものなのである。
かるが故に我々は,個人には二つの心があり,その一つの無意識の心がまず内容を知覚し,ついで,もう一つの覚知した心がそれを知覚するのを許すか禁止する,といったふうに仮定するには及ばないのだ。気づかれている感情は(それが例えば緊張であろうとある不満足感であろうと,ともかく怒りでないことはたしかだが……それが何であろうと)反応の対象となり,推進させられねばならぬものである。それによってのみ,過程は完了し,怒り(あるいはどんな内容を想像してもよいが)は再構成化された過程の一つの局面となるのである。
注55 過程を再構成するための治療者の自己表現。
クライエントのいう言葉あるいは行動から我々が,彼の話の源である,暗に彼に感じられている諸々の意味を感じとる場合には,(たとえその感じが十分に明瞭だとはいえないときでも)それに反応することによって,過程を前進させ,かつそれを再構成することができる。だがもしもクライエントが黙していたり,外面的な事柄しか語らないときには,治療者が自らの感じている気持ちを彼のほうから声に出していうことが,そのクライエントの体験しつつある過程を再構成しうる一つの重要な反応形式(mode)なのである。
むずかしさは他にもいろいろある。時にはクライエントの語ることが奇異で理解し難い。その場合,もしも意味があると感じられたことが少しでもあれば,自分の理解が適切かどうかをチェックしながら,その少しのことを注意深く繰り返さなければならない。これによって,その孤立している人間はある接触の感じを刻々にもつことができる。これは例えていえば,溺れる音にとってのさん橋のような何ものかである。こういうことを言ったからといって,私はただ詩的な表現をしたいと望んでいるわけではない。語り手(この場合は治療音)と相互に作用し合っている聴き手が,ある具体的に感じられた感覚を持つことが必要だという点を指摘したいのである。治療音はこの感覚を,それがクライエントに喜んで迎えられる場合には,容易には意味をたどれないような話の間,二三分毎に聴き手であるクライエントに与えるべきである。
時には話の内容が論理的には理解し難く,象徴的な様々のイメージが,ある感情に付け加わる。(クライエント:「オーストリーの軍隊が私の持っていたものをすっかり取りあげてしまったのです。奴等は私に100万ドル支払うことになっています。」治療者「誰かがあなたにひどい仕打ちを加えたんですか?あなたから洗いざらい取っていってしまったんですか?それであなたはその分を払い戻して欲しいと思っているのですね?」)
時にはもっと理解し難い場合がある。ただ相手が苦しんでおり,孤独感,傷ついた心を持ち,荒んだ,どうにもならない時間を過ごしていることだけは確かに感じられるのだ。治療者はこれらの気持ちのどれについても語りうるが,その際大切なことは,自分の言葉に対してクライエントの方からそれを確認するような反応を求める気持ちをもたないで〔虚心に〕相手に告げることである。
時には治療者がクライエントの中で,あるいは進行しているかもしれないことをただ想像しなければならない。
もしも治療者が,自分にはわからない,わかればいいのだがと願ってはいるが,話してもらうには及ばないのだ,だが自分はかくかくのことを想像するのだが,と告げるならば,治療者は自分が想像することについて語れるわけであり,かつそのことによって,ある相互作用過程が復活するのである。
クライエントが一言も語らないにしても,そこにはある感じられた相互作用過程が生じつつあり,まさしくこの過程において,彼の諸感情は分節化され象徴化されるのである。ある一人の人間の行動が他者の相互作用と体験の過程を再構成しうるのである。(定義23を見よ)
クライエントが黙している間,治療治はそこに不快気に座っているところの問題を抱いた一人の人間の内に進行しているかもしれないと思えることを表明することができる。さもなくば,彼は次のような場合に治療者である自分の心の内面で進み行くものを表明することもできるのだ。それは彼が援助をしたいと願い,聞きたいと望み,圧力をかけたくないと思い,無用の存在ではありたくないと強く感じ,あるいはクライエントが黙っている時間が有益であるとわかれば嬉しいのだがと思うとき,或はまたクライエントの心中に去来していても,まだ話すだけの気持ちの準備ができていない多くの感情,多分諸々の苦痛な気持ちを心に描いているときである。
これらを治療者の自己表現と呼びうるためには四つの条件が必要とされる。
1. それらは治療者自身の自己表現として,明白に表明される。もしそれらの表現に何かクライエントについてのことを示唆するようなところがある場合に治療者は,自分のいったことが事実かどうか確信はないのだ,ただそう想像するのだ,こういう印象を受けたのだ等と言うのである。それについてクライエントの側から,確かにそうだとか,間違っているとか示してもらう必要は少しもないのである。治療者がまさに自分自身のために語るという点が重要なのである。
2. 治療者は彼が表明しようかと感じている気持ちに二,三分の間,焦点を合わせる時をもつ。彼は感じていることのすべてから,安心して単純にいえるようなある一部,ある局面を探し求めるのだ。人間にとって,ある瞬間に暗黙のうちに感ずる何百,何千もの意味をすべて言うなどというのは不可能である。一つあるいは二つの,とくにその瞬間には,あまりに個人的にわたり過ぎたり,具合悪過ぎたり,困惑が大きすぎるように思われることどもが,1分間の焦点づけ(focusing)の後には,現在の相互作用のパーソナルな表現と変わるのである。
具体的に述べよう。私にとって共に黙っていることが耐え難いところであり,かつ私はどうも彼にとって何の役にも立っていないらしい。〔……と私が感ずる場合〕これぞ!〔まさに我々が関心を払い,活用すべきところなのである。〕それこそ私が彼に語りうる何ものかである。あるいはまたこうして共に黙っていて一体彼の中に何かが動いているのだろうかと私の方で疑問に感ずることがある。私はもし彼にとって黙っていることが,考えたり感じたりする時間と心の平和とを与えるものならば,私も喜んで黙っていたいと感じていることがわかる。私はそのことを表明することができる。かかる表明は二人の個人的なものの暖かい交わり,一つの相互作用なのである。だがこのような自己表明のためには二,三分の間,自己に注意をふり向けることが必要とされる。この間に私は,この相互作用において現在私が体験している過程に焦点を合わせ,それを展開させるのだ。
3. 我々のうちに湧いてくる言葉使いや意味は,我々が話しかける相手に対してこちらが抱いている感情全体から非常に強い影響を受けるものである。一人の人間としてのクライエントに対する治療的な態度とは,彼に対して全体的に存在する(being totally for him)という態度であり,ロジャーズ(1957)のいう「無条件の尊重」(unconditional regard)ということである。ホワイトホーン(Whitehom)(1959)はそのことを患者の「弁護士」のような在り方と名づけている。それは我々両者が共にこの問題をどんなに嫌だと思っていようと,一人の人間としての個人が自らのうちにおいて,そのことに「あえて直面する」("up against")ような態度を指している。私は常に真実の気持ちをもってそう考えることができるのだ。
(この感度というのはあれこれの行動,特性,態度,あるいは特異性についての承認や同意や好意とは何の関係もない。)
しばしば私は,こうしたすべてのことに「直面して」いる或る内面の個人というものを想像しなければならない。こうしたことをして後,何カ月も経ってから始めて私はその人を愛し,知るようになるのだ。
このことがいかに具体的で規定可能な態度であるかには,驚くべきものがある。我々はそれを頼りにして良い。個人の中にある,どんなに好きになれないことにでも「あえて直面する」一人の人間というものは常に存在するのである。
4. クライエントが自己を表明するときには,そのことへのある反応が必要である。かかる場合,治療者の自己表明はかえって妨げになる。
クライエントの感情や彼に感じられた特定の意味に反応する機会と,何かを知覚し解釈する正しい確実な方法とがある場合には,そのことに対して正確に反応することが最上のそしてもっとも強力な反応なのである。自己表明的な反応様式(モード)はこちらが反応しようにも反応できるようなものが殆ど見つからないクライエントに向くのである。
一つの反応様式としての治療者の自己表明は,ただ外的な状況について述べるか,全く沈黙を保って座っているような人で,殆ど感情を表明せず,精神病的だと分類された人々にとっては重要なことである。しかしながら具合よく行っている人々の中にも,深い相互作用をつくることがむつかしい人も多くいる。それは彼らが自己を表明しないからである。カートナー(Kirtner)(1958)が見出したところによると,面接の第一回目のときに殆ど自己の内面に注意をむけないような人々は,治療で失敗することが多いことを我々は予測できる。近来我々は,治療者の自己表明がそのような人々の相互作用及び体験しつつある過程を再構成する助けとなりうることを学びつつある。
注56 私が今参加している,分裂病者との心理治療における大規模な研究において,(Rogers,1960,P.93)我々は精神病者の行動変化に過程変数を適用しつつある。
今までに得られた結果(ロジャーズ,等,1961)の示すところによると,診断的な検査での改善は,次のような操作的な行動変数と対応している。すなわち体験過程様式の硬さ,反復性,構造的拘束性の減少及び感じられた体験過程を直接のレファラントとして,また行動,表明,かかわりの基盤として,はるかに多く用いることがそれである。こうした今迄に得られた一応の結果は,評定尺度諸変数と諸々の評定手続きによって定義される。
注57 多くの新用語についての覚え書―。 人格変化の領域において,我々は観察事実を論議し定義するのに十分に特殊的な概念を欠くこと甚だしいものがある。本理論はかかる諸概念を提供しようとするものである。これらの諸概念(及び他のもの)を用いることによって,我々の思考と論議の行為が進展し,観察事実を単独に取り出し,定義する我々の力も鋭く磨きあげられるだろうと希望しているのである。直接のレファラント,レファラントの移動,推進すること,再構成化,体験過程の様式,暗黙の機能といった新しい諸定義をしっかりと守るには多少むずかしいこともあろう。私はここで述べられた26の定義がすべて言語としてうまく認められるだろうと希望しているわけではない。ただそれにもかかわらず,我々は人格変化を論ずるのにこれら(の用語或はより良い用語)を必要とするのである。
*本稿に関しては村瀬孝雄訳『体験過程と心理療法』(牧書店 1966)の第1章3節をそのまま掲載させていただいた。ただサリバンの引用に対して最近の定訳を鑑み、一部原文を訂正した。