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フォーカシングを伝えるワークショップは、どのように教えたらよいか

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   どんな長さのクラスやプレゼンテーションであっても、それに
応じて修正可能な、2時間版ワークショップ用のスクリプト

Joan Klagsbrun 博士 著 、 園田雅代 翻訳

* 著者 Joan Klagsbrun博士について

 私は、ボストンでフォーカシング・コーディネーターをしており、23年にわたってアメリカ国内ならびに海外で、フォーカシングを教えてきています。心理臨床家としてフォーカシング志向心理療法を実践しており、大学院生にフォーカシングを教えたり、一般の人向けのワークショップやクラスの指導をしたりしています。ここ12年ほどは、行動医学の会議において、保健医療に従事している人々に向け、フォーカシングをプレゼンテーション(実演を伴う紹介や提示)することも行っています。

 このスクリプトは、1999年3月にオーストラリアのLorneにおいて200人を超える保健医療従事者に対し、2時間のプレゼンテーションを担当したときの、録音テープにもとづいたものです。少人数のグループにプレゼンテーションする場合は、参加者たちが各々のステップにおいてあなたと「共に」いるかを確かめるべく、参加している一人一人から聴きながら進めていくのが最善でしょう。このスクリプトが、あなたにとって、フォーカシングをプレゼンテーションしていく上での、あなた自身のスタイルを見出すことに役立つものであれば、と祈念しています。
私に連絡をとりたい場合は以下の方法でお願いします。

・ 住所 :173 Mt.Auburn St., Watertown,MA 02472 USA
・ 電話 :(617) 924-8575
・ Eメール: joanklag@aol.com

 質問、示唆、感想などを歓迎しています。



(1) はじめに

 今日、フォーカシングのプロセスについて、ご参加の皆様方と分かち合えることを私は嬉しく思います。というのは、フォーカシングは私自身、そして私の仕事の両方に対して、深い変容をもたらしてくれているからです。私はフォーカシングを、教育活動や、クライエントとの、また、病気を抱えている患者たちとの関わりにおいて用いています。何か物事を決断するときにも、個人的な困難に対応するときにも、私はフォーカシングを使います。フォーカシングは一人でもできますが、フォーカシング・パートナーがいれば、よりよくフォーカシングは機能します。私はフォーカシング・パートナーに毎週会っています。そこではフォーカシングをする側と、それを聴く側を交代で行っています。

 この2時間では、フォーカシングの全てのプロセスを皆様方に伝えることはできませんが、フォーカシングについて、実際にちょっとでも味わっていただきたいと強く願っています。フォーカシングについてはじめて記載したのは、哲学者であり、また心理学者でもあるユージン・ジェンドリンですが、私は彼から23年前にフォーカシングを教わりました。私は自分の世界を大切にするタイプの人間ですから、フォーカシングが内的なプロセスであるという事実に強く惹き付けられました。ジェンドリンに向かって自分がこう言ったことを覚えています。「ああ、フォーカシングは、自分がずっと探し続けてきた手段です。これは、内向型の人間にとってのゲシュタルト・セラピーですね」と。

(2) フォーカシングとは何でしょうか?

 フォーカシングでは、まだはっきりとしていない曖昧でファジーなもの、それに見合ったピッタリとした言葉をまだ持てていない何か、でも、あなたの体のなかに明らかに感じ取ることができる何かに対し、それと共にいる時間を過ごすようにします。頭ではまだ気づいていない、体の中にある知恵とやりとりするのです。意識と無意識のあいだにあり、知性からだけでは得ることができないような情報に近付いていきます。フォーカシングでは、注意を体の内部に向け、あなたが特定の状況・関係・問題・個人などにどう対応しているかについて、注意を向けていきます。
 あなたが日々の生活で出会う全ての状況は、喜ばしいことであれ悲しいことであれ、大きいことであれ些細なことであれ、ある明らかな体のセンスをあなたに及ぼします。フォーカシングでは、この感じている体の微妙な言葉に、どうやって注意を向けていくかを学びます。今、あなたが最前列に座っていようと、最後列に座っていようと、今日どの椅子に座るかについて、体のセンスをお使いになったはずです。おそらく、「4番目の列にしよう。5つ椅子があるし」などといちいち考えたりはしなかったでしょう。でも、ご自分の体のセンスを用いて、もっとも快適と思えそうなところはどこかについて、感じ取ったのではありませんか。

 体験はひとつの川となって、あなたのなかを流れています。あなたはその川(の流れ)について語ること、また自分の注意を川岸に振り向けること、さらにその川の流れる方向を感じ取ることもできます。その川(の流れ)はすでにそれ自体の方向を持っているのです。すべての事柄に関して、あらゆる有機体、あらゆる体、あらゆる生物は、次への正しいステップについて固有のセンスを持っています。どんな関心ごとであれ、あなたがそれと共にいるようにし、曖昧なエッジ(辺縁)にとどまるようにすれば、次への正しいステップについてのセンスが生まれます。この点において、私たち人間は多くの知恵を有しており、フォーカシングとはその知恵に近付くためのひとつの方法なのです。

 では、この体験の川(の流れ)を、私たちはどこに有しているのでしょう?そうです、それは体の中にあります。けれども、私がここで言う「体」とは、器官の集合を意味していませんし、また、神経組織のネットワークすらも意味していません。あなたが記憶や感覚、情動、感情を体の中に保持している場合、この内なる知恵に近付いていくには、体に目を向けていく必要があります。そうした場合、頭の中でだけ考えて得られる情報とは違う情報を、人はしばしば得ることがあります。いわば、それは認知的な思考と内的な詩との違いであり、後者の内的な詩とは、全体的に暗黙のうちに、また、心と体とが二つに分割される前の、その両方が関わっているまさにその場所で、物事をつかみとっていく方法です。あなたは、体と心と精神が共にあるようなところを見ていくことになります。フォーカシングとは、普段人々が考えがちな分析的な方法を無視してもよいこと、そして、体験に関する体の声に率直に向き合ってよいことを認めるものなのです。

(3) フェルトセンスの例

 ジーン・ジェンドリンが1960年代にはじめてフォーカシングについて記載したとき、彼はこの体験の川について「体で感じるフェルトセンス」と呼びました。彼がそう呼んだ理由は、それを体のある感覚として感じ取ることはできるものの、同時に、それが単なるセンスでもあるからです。それは曖昧で、はじめは大まかな近似のようなものであり、明瞭ではありません。体で感じるフェルトセンスはあなた方にとって目新しいものではなく、誰もが皆、既に体験していることです。今日ここで私は、その体で感じるフェルトセンスを皆様がこれまでよりも把握できるよう、そしてそれを、あなた自身やあなたの仕事に用いるための適用を考えられるよう、お手伝いをしたいと思っています。

 さて、こういった体験をした人はいないでしょうか?あなたは家を出ようとしていて、何かを忘れたことに気が付いている。でも、それが何かがわからない。たとえば、この会議に出席するためにスーツケースの荷造りをし、何かを詰め忘れたというセンスが働く。そのまま家を出ることを続け、車に乗り込んでも、それが何かはおそらく思い出せない。でも、玄関のところにたたずみ、少し自分の内側にはいって、こんなふうに言うとしたらどうでしょうか。「何だろう?私は何を詰め忘れているのか?何をし忘れているのだろう?」と。そして、少し待ち、内側にある、自分が持っている曖昧なセンスに注意を向けていると、答えがしばしばやってきたりします。こんなふうにできるかもしれません。「オーブンを消したかしら?ええ、したわ。歯ブラシを持ったか?ええ、持ちました、と。ええと、それは何だったっけ?ああ、そうだ。読みかけの小説を持って行きたかったんだ。」こうつぶやいたとき、そこには大きな「そう、それそれ」があり、あなたは、自分が欲しかったものを得たことを「確かめ」られます。

 他の例も示しましょう。夢から目覚めて、夢の詳しい内容は覚えていないものの、それが楽しい夢だったか、恐ろしい夢だったかについては、センスがちゃんと残っているということ、これまでにないでしょうか? それがフェルトセンスです。さてどなたか、自分の夢をここに持ち出してくださる人、いませんか?

(参加者のコメント)

 はい、あなたはその夢について感じられること、夢の小さな部分、そして夢のより糸といったものに立ち戻り、優しくそれらをここに引き出してくれましたね。「その夢は、大勢の人と一緒にいたような感じだったけど」とか、「恐ろしい何かだった気がする」などと夢のことを言うかもしれません。あなたが体のなかで有しているもの、あなたが知っているものと共にとどまるようにすれば、時には、夢の全体があなたに戻ってくることでしょう。

 他の例を示します。このことは、この会議のなかであなたにちょうど起こっていることかもしれませんね。あなたが既に知り合いである誰かにここで会い、その人が知り合いだということがわかるものの、その人とどう知り合ったかが全く思い出せないとします。その人は、去年のこの会議に出席していたのか、昔の学校が一緒だったのか、
あるいは同じ街に住んでいる人なのか。その人を知っているというセンスだけがあるのです。その人の名前や、どうやってその人と知り合いになったかについて、あなたの心が思い出す前に、体はすでに多くの情報を有しているはずです。その人にあたたかく近づいて行きたいと思っているか、あるいはあなたにその人が気づかぬよう、きびすを返したいと欲しているか、こういうことを体は知っています。その人が誰であるかを脳は知らないのに、体がその人を好きかどうか知っているということ、これは興奮すべきことではないでしょうか?私たちは体のなかに、無尽蔵な知恵を持っているのです。

 また、誰かに「お元気ですか?」と問いかけられ、ただ「元気です」と答えたりしないときはいつもフェルトセンスを使っていることになります。自分がどんな調子かを見るために、自分の内側に入り込み確かめる時間を持っているわけです。そして、あなたは待ち、「それ」があなたに語るのにゆだねます。それで、「おやおや、私は疲れています。丸1日、ずっと疲れていますね」などと答えるかもしれません。それから自分の内側を確かめて、尋ねるでしょう。「それで合っている?私は疲れているのかな?」と。すると「それ」が答えるかもしれません。「うーん、疲れているわけじゃない。もっと空っぽになった感じ。そう、空っぽなんだ。私は空っぽになったように感じています」。あなたが「空っぽ」という言葉を言ったとき、体はより正確に、あなたの体験していることを示し、そこには大きな「そう,その通り」と、そして、自分にとって真実であることに触れたという安堵があるのです。

(4) フェルトセンスの練習:実習