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心理療法における、無条件の肯定的関心の理論 A Theory of Unconditional Positive Regard in Psychotherapy

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メアリー・ヘンドリクス博士、フォーカシング研究所長
Mary Hendricks, Ph.D.
Former Director, The Focusing Institute

(翻訳: 日笠 摩子)

 新しい理論用語を作り出すプロセスは、今まで目に見える形になることはほとんどなかった。TAEのステップは目に見える秩序だったものであるが、そのプロセス自体は直線的でも予測しうるものでもない。最初は、どんな用語が最後に得られるのかもわからない。本論文では、その実際のプロセスを提示しよう。しかし、例えば教示に対していつもすぐに反応が起こったように見えるなど、実際よりもやや秩序だった記述になっている。

 理論構成のためのTAEの手続きでは、私たちが体験的に「知っている」がまたことばでは言えないことから出発する。私たちは固定観念を超えて、知っていることのフェルトセンスから出発する。

 ここで私が取り組もうとしている実感知(felt knowing)は、クライエント中心セラピストとしての長年の経験からくるものである。クライエント中心療法の創始者、カール・ロジャーズは、共感と一致と無条件の肯定的関心(UPR)という3つのセラピストの態度を、治療的変化のための「必要十分条件」であると述べた。これらについては50年間にわたり多くの研究がなされている。私はTAEを用いて、UPRについての理論用語を創成し、さらにそれを用いて、クライエント中心療法の理論を拡張し、問題解決に貢献したい。

ステップ1:フェルトセンスに出てきてもらう

「知っている」がまだ言えないことで、言いたいことを選ぶ。このフェルトセンスとしての知(はっきりとからだに感じられるが曖昧なエッジ)を実感して、常にそこに戻れるようにする。

 

 ここではっきりとしたフェルトセンスをつかむために、私はからだに注意を向け内側で「UPRについてのことこと全体について私は何を知っているだろう。言いたいけれどまだ言えないことは何だろう」と問いかける。ゆっくりと時間をかけて、UPRについて私が知っていることすべての感覚が、からだの中で形成されるのを待つ。

 

 フェルトセンスから数段落の文を書く。

 

 ロジャーズが提唱する「必要十分な」態度の二つの間にはいつも緊張があった。UPRの定義と一致の定義は両立しえないように思える。一致とは、セラピストが自分の感情に正確に気づいていることであり、それに対して、UPRとは、クライエントが何を体験し何をしようとも、暖かさや高い評価や尊重を感じることである。この二つを一貫して実現するにはどうすればよいのかという質問はしばしば投げかけられてきた。クライエントに対する暖かさは、感じようと「決めて」感じるものではない。明らかにセラピストは、クライエントの危険で破壊的な行動を見ることが多いし、クライエントに怒りや失望や嫌気や嫌悪を感じることもある。セラピストは、クライエントに対して尊重と暖かさだけを感じるためには「否定的」な感情を否認することもあろう。これはUPRかもしれないが、一致とは言えない。否定的な感情に気づき一致していると、UPRがないように思われる。つまり、定義からして、私たちが嫌気を感じていることに気づいているときには、同時に無条件の関心を感じているとは言えない。

 私自身の理解は、まだはっきりと表現できていないが、無条件の関心と同時に否定的な感情を抱くことはできないという通常の見方とは異なる。私は人々に不完全さを感じるときにも、ある種の完全性を感じ取っている。「完全性」は通常不完全さがないことを意味する。うまく説明はできないが私が感じているのは、UPRの中では人の完全性をその人の不完全さの中にこそ体験するということである。

 フェルトセンスから、一番重要な所(核心)を、キーワード(鍵になる語か句)を含む短い一文(その文がそれを本当に言えてなくても)にしなさい。その文の中のそのキーワードあるいは句に下線を引く。

 

 私は私のフェルトセンスからことばが直接浮かんでくるようにして荒削りな一文を書く。そのことばの意味はもちろん、まだ謎である。

 

 私も他の人も私たちはありのままでいてこそ完全であり、私は自分も他の人も変えようとは望まない。

具体例を一つ書きなさい。

 私が意味することが実際に起こったときを見つける。私や他の人がこのままでこそ完全であると実際に感じたのはいつだろう。最近私は娘についてそれを感じた。

 娘が私に言った。「これがありのままの私なのよ、楽しくて、不安で、賢くて、強迫的で、狂っているのよ。これが私なんだから、しかたないでしょ。」私はうろたえた。私には、自分のことを「強迫的」で「狂っている」と言うなんて、彼女が自分を(決まり文句の)箱の中に定義しているように聞こえ、ありのままの自分を見失っているように聞こえた。私はそう言いながら、自分こそが彼女の発言で彼女を定義していることに気づいた。彼女は実際にはただ自分の感情を表現したかったのである。私は彼女を定義する必要などないことに気づいた。なぜなら、人々との関係ではそのような(決まり文句の)箱などないのだから。そして私が感じたのは、彼女は彼女のありのままでこそまったく完全であり、私は彼女をどんな風にも変えようと望むことなど決してできないということだった。

これで実際の例が一つと、UPRの最初の一文が手に入った。

ステップ2:あなたのフェルトセンスの中に論理以上のものを見つける

 普通の意味では論理にかなっていない所を見つけて、非論理的な文を(あるいは逆説)を一つ書きなさい。

私も他の人もありのままでこそ完全である。私たちがありのままでいることはすなわち私たちは不完全である。それゆえ私たちは不完全さのなかでこそ完全なのである。

 私は完全性を不完全さの中にありうるものとしてとらえる。それは通常の理解では非論理的であるが。私はまだことばにならない、より複雑なことを感じている。TAEではこれを「非論理的核心」と呼ぶ。

 

ステップ3.あなたの意味したいことはことばの標準的な定義ではないことに気づく

 

 TAEは言語とフェルトセンスの関係に関わるものである。私たちが何か新しいことを言いたいとき、ことばの通常の意味は私たちが言いたいことを言ってはくれない。

ステップ1で下線を引いた語の通常の辞書的な定義を書いて、それが自分の言いたいことではないことを確認しなさい。

完全な:「完全な」という語ではうまくいかない。「なんらかの理想的基準に従って生きること」という辞書的定義は私の言いたいことではない。同様に「私たちのありのままでこそ」という句で私が言いたいのは、特性やパーソナリティ内容の静的集合ではない。

 フェルトセンスに戻って、自分の意味したいことを言うための別の単語が出てくるのを待つ。その第二の語についても通常の意味を書きなさい。

動き:私が言いたいのは、人はある種の流れ、あるいは、動きであるということである。「動き」という語の通常の意味で私が言いたいことが言えるかどうか見てみる。私が言いたいのは、「一つの場所から別の場所へ移ること」ではない。

 フェルトセンスに戻って、第三の語が浮かぶのを待とう。第三の語の通常の意味も書きなさい。

開放性:しかし「開放性」には形がなく漠然としているという意味がある。この語でも私が言いたいことは言えない。

 この知を表す既存のことばはないという事実を受け入れなさい。

 

ステップ4.これら三つの語それぞれで言いたかったことを言うために、一文、あるいは新鮮な句を書きなさい。

 

 TAEのこのステップの要点は、今までは言えなかったことを言う新しい句を生成することである。フェルトセンスは自分にとっては固有のものではあるが、それをはっきりと表現できれば、多くの人々にも理解可能になるだろう。私がはっきりと言語化することで他の人々にもそのフェルトセンスを生み出すことができるだろう。

 その単語で言いたかったことを言うために、まったく新しい文や句を書きなさい。その語で言いたかったことを書きなさい。この語によって、あなたのフェルトセンスから引き出されること、他の2語では引き出されないことを書きなさい。

 ステップ3からそれぞれの語を取り、その語の公共的定義ではなく、私のフェルトセンスからその語が語りたいことを語らせる。私は自分がその後で何を言いたいかを感じる。これを言うには新鮮な言語表現が必要である。

「完全な」で私が言いたいのは、人は、生き生きした広大な綾(texture)でありそこからは何も取り去るべきではないということである。

「動き」で私が言いたいのは、人は常に本来的にほどけつつある(untwisting)ということである。

「開放性」で私が言いたいのは、定義があったとしてもそれに妨げられないということである。

 

ステップ5:あなたが各語で言いたかった事を拡張して、新鮮な言語学的に普通ではない文をさらに書く

 

 ステップ4の主要語や主要句を使い、ある意味奇妙な文を一つか二つ書くことで、それぞれの語や句で今あなたが言いたいことをさらに拡張して述べなさい。新しい文のそれぞれにおいて、新しく重要なことに下線を引きなさい(あるいは太字に)。

 これらの句のそれぞれについての実感知にさらに入り、奇妙な句をさらに作り出す。これらは自分でも驚くこともあるが、確かにUPRで私が言いたいことでもある。これらはやっていておもしろいステップである。複雑微妙さがあらわれる。新鮮な新しい句を太字にする。これらは公共言語としては普通ではない句である。これらは理解されないかもしれないが、少なくとも、私の言いたいこととは違う、普通に定義された考えとして受け取られることはないだろう。私は、それぞれの句で何を言いたいかを自分のフェルトセンスに問いかける。

「生き生きした広大な綾でありそこからは何も取り去るべきではない」で私が意味するのは、私たちが切除したくなる否定的な内容があっても、それを切除することは完全性を破壊するということである。

「本来的にほどけつつある」で私が意味するのは、形あるものに常に衝突することであり、自分自身の前向きの動きから生まれるような形で、自分自身に後ろ向きに進む螺旋上の動きである

「定義」で私が言いたいのは、パターンあるいははっきりとした形態である。それによって細胞の成長が阻まれ、体験に空隙を出してしまうようなパターンである。パターンとパターンの間には空隙がある。定義は、大人の自己知覚以上のものを意味している。定義は、物理的なからだのいのちのある種の中断であるということを私は言いたい。

 ステップ1であなたが作った文の下線のところに、もともとの3つの語と主要な新鮮な句を「続けて」書きなさい。その続きの最後に「・・・」を加えて置きましょう。

他の人も私も、あるがままでこそ完全であり、動きの中にあり、本来的にほどけつつあり、定義によって妨げられることない開放性があり、生き生きとした広大な綾をなしており、そこからは何も取り除くことはできず、そこでは分断された形態によって空隙が作り出されることはない、「・・・」であり、私は自分も他の人も変えたいと望まない。

 今私は、UPRについて語る新しい新鮮な表現をたくさん持っている。

 

ステップ6:側面(具体例)を集める

いくつかの側面、実際に起こった具体例を集める。

 

 側面とは、私が求めている、まだ分節化していない「知」の実例である。実例とは、実際にそれが起こったときや、誰かが行ったことや、それに関連する出来事のことであり、なぜそれが関連しているかは、語れなくてもよい。私たちが側面を集めるのは、一つの具体例の方が一般化よりも優れているからである。一般化は抽象であり、それゆえ体験的にはそれ以上のものはないのに対して、本物の生きた事象には具体性がある。問いかけに応じて、複雑な構造が浮かび上がる可能性がある。それゆえ、側面からは、私たちの進化しつつある概念にさらなる構造がもたらされうる。

 

 いくつかの側面を選び、自分のフェルトセンスに関連する点を詳細に書きなさい。自分が留めておきたいことにつながる具体的なところに下線を引きなさい(あるいは太字にしなさい)。

側面:夫

 クライエントが話してくれたことだが、彼は自分の気持ちのまま落ち込むままにしていようと努力しており、人に受け入れられるためにそれを隠すのはやめようとしているそうである。私は彼の努力を暖かく歓迎したいと感じるのに気づく。私の夫と彼の「うつ」気分のときのイメージが浮かぶ。私はいつもそれに困っていた。突然、夫、ありのままの彼への強い愛情を感じる。私は夫を愛している。彼のうつにもかかわらずではなく、彼のうつゆえに。夫のうつは彼のありのままの姿の一部なのである。もし、彼がみじんたりとも違っていたら、宇宙は取り返しのつかない喪失を被るだろう。夫へのこの見方や愛し方が私がUPRとして意味したいことの瞬間である。

側面:守らなくてもいい

  私がUPRについてのあることを、次の発言をしたクライエントから学んだ。「次に何が来るかわかっている必要はないのです。何もしなくてもいい。境界を立てて、自分を痛みから守る必要はないのです。」彼女は自分自身の体験や他の人の体験を操作しようとはしない。

側面:さびしさ

  一人でいる時間が長いと私はしばしばさびしく感じる。しかし、同時に、その状況を変えたいとは思っていないことも感じる。自分のさびしさを「ある」がままにしてると、広大な生に大きく開かれてくる。この広大な生の大きな感覚も私がUPRで意味することの一部である。

側面:クライエントが自分を定義する

 私のクライエントたちはある状況について話すとき、自分自身を何らかのやり方で定義する。例えば、「私はばかだ」「私が悪いんです」「私が敏感すぎるんです」などと言う。それに対して私は「でも、その状況全体はあなたにとっては実際どんな風なんですか」「その状況全体についてあなたのからだではどんな風にかんじているんでしょう」と言う。これに対するクライエントの応答によって、これらの定義がほどけていくかもしれない。クライエントは自分自身の前向きの動きから生まれるようなやり方で自分自身に戻っていくかもしれない。

ステップ1のもともとの側面を書き写しなさい。

側面:娘

 娘が私に言った。「これがありのままの私なのよ、楽しくて、不安で、賢くて、強迫的で、狂っているのよ。これが私なんだから、しかたないでしょ。」私はうろたえた。私には、自分のことを「強迫的」で「狂っている」と言うなんて、彼女が自分を(決まり文句の)箱の中に定義しているように聞こえ、ありのままの自分を見失っているように聞こえた。私はそれを言いながら、自分こそが彼女が言ったことを通して彼女を定義していることに気づいた。彼女は実際にはただ自分の感情を表現したかったのである。私には彼女を定義する必要などないことに気づいた。なぜなら、人々との関係ではそのような(決まり文句の)箱などないのだから。そして私が感じたのは、彼女は彼女のありのままでこそまったく完全であり、私は彼女をどんな風にも変えようなどと望むことすらできないということだった。

 これらがUPRについての私のフェルトセンスの諸側面である。

 

ステップ7:この諸側面からより詳細な構造が生み出される

 理論を構築するためにはさらなる構造(パターン)が欲しい。TAE による理論では、概念的パターンは側面との結びつきが維持されている。それぞれの側面は実際の体験なので、その複雑さに入ることでさらなる構造を生み出すことができる。TAEのプロセスも私のUPRの理論も、パターンと体験的な綾との関係に関するものである。TAEの理論は綾との結びつきを維持するので、そこでの定義は細胞の成長を止めないし、空隙を作ることもない。私はここまでで作ってきた句を使って、これを述べることができる。

 

 それぞれの側面で、多くの細部の間には多くの複雑な関係がある。自分のフェルトセンスに関連のある複数の細部の間のパターンを見つけよう。

 

 私のフェルトセンスに「その側面はいったいどういう風に、UPRについての何かを語っているのだろう」という質問を投げかけて反応を待つ。

「夫」の側面におけるパターン

  私たちは、不完全であるにもかかわらず、ではなく、不完全であることで完全である。もし、完全さが、不完全である「にもかかわらず」のものならば、完全であることは不完全さとは異なることになる。私の感覚では、不完全さは、完全さの脇にあるものではなく、完全さから排除されるべきものではない。

パターン:もし何かが取り去られると、それを取る前のものはもはや存在しなくなる

「守らなくてもいい」の側面におけるパターン

  私のクライエントはどのようにして、他の人の感情的痛みから自分を守らないでいられるのだろうか。彼女は言う。「私は痛みを感じますが、そこにあるのがそれだけだということは決してありません。その痛みだけではなく、そこにいるその人も感じます。」

 彼女の言うように試そうと、私はある人について感じる痛みを取り上げた。そして、その痛みのまわりに間を作ることで、そこにあるのが痛みだけではなくなった。彼女の言うことが正しいとわかった。その人全体の綾から痛みを区別することができたのである。そうなると、私は痛みを感じても、自分を守る必要がなくなった。その人の綾を取り入れることにより、私は単に痛みだけではなく、その人を感じることができる。そうすれば、自分を守るために何かする必要はない。

パターン:綾から一つの様相だけを取り上げると、その様相から自分を守らなくてはならなくなる

「さびしさ」の側面におけるパターン

  さびしいとき、私は自分のさびしさにある種の推論からパターンを見ることがある(例えば、私がさびしいのは、誰も私と一緒にいたがらないからである、とか、私が人と一緒にいるより孤独でいる方が好きなのは、自分が何かおかしいのだ、など)。それに続いて、自分のさびしさを「直す」であろうある種社会的習慣を始める(誰かに電話する、買い物をする、何か普通のことをする)。しかし、私のさびしさを変えようとしないでいると、「普通の中の裂け目」と呼ぶ現象が起こる。(ここで普通とは、社会的習慣や文化的パターンである。)そのさびしさのパターンにおける私自身の綾を感じると、広大な生に大きく開かれていることがわかる。

パターン:あるパターンの中の綾を見ることで、広大な生が取り込まれる。

「クライエントは自分自身を定義する」の側面におけるパターン

  私が「しかし、この状況全体の中であなたには何が意味あるんでしょう」と問いかけると、その人はそのパターンに自分の綾を見ることができるかもしれない。

パターン:定義だけから状況全体の感じに視点を変えることで、人はパターンの中で動いている綾を見ることができる

「娘」の側面におけるパターン

  私は娘のことばを使って彼女を定義するという誤りを犯すことを拒否した。彼女はあるパターンのように見えたし、そのパターンであると自分でも言ったが、そのとき私は、人との関係ではパターンは本物ではないことを思い出すことができた。

パターン:人は、パターンは人については本物ではないことを思い出すことで、生きているものをパターン(定義やはっきりした形)として見ることを拒否できる

(ここで、私はステップ8と9「諸側面の交差」と「自由に書く」を省略する。)

  TAEのこの点以上に進む必要はないという人もいるだろう。最初の9ステップを終えるだけで、自分の領域での新しい取り組み方が開かれることも多い。今までとは違う研究観点に気づいたり教え方に気づいたりすることがある。ここまでで私は、自分のもともとのフェルトセンスと集めた諸側面から多くの句やパターンを開発してきた。豊かな言語と詳細な諸パターンを得たので、ここで中断して、UPRについて今までは言えなかったことを伝えることもできるだろう。しかし、私はさらに理論形成に進みたい。

理論形成

 TAEの第二の相では、理論のために、定義された用語を開発していく。

ステップ10:用語を選び、それを連結する。

 三つの語あるいは句を選んで、それらをあなたの当面の主要用語にしなさい。その用語を「A」、「B」、「C」とする。

 私はこれまでに作った多くの句やパターンを眺めて、自分自身に、私のUPRのフェルトセンスにとってどれが一番重要だろうと問いかける。その結果次の3つが得られた。

A      生の広大な綾
B      パターン(はっきりした形や定義)
C      ほどける

 ここで、AをBの観点から、そしてまたCの観点から定義する。まず、それぞれを無意味な公式としての等式「A=B」「A=C」の形で書く。そして、=の記号を「であるis」に置き換える。AとBとCのところには、それぞれが表す語や句を当てはめる。

生の広大な綾はパターンである。
生の広大な綾はほどけつつあるものである。

 ここで得られた二つの文はかなり正しい場合もあるが、まったく間違っている場合もある。

 もし必要ならば、その文を修正しなさい。「である」という語はそのまま使うことで、新しいパターンが生まれる余地を残しておくこと。その関係を古いなじみのつながりで補ったりしないこと。あなたのフェルトセンスの核心を保つよう気をつけてください。

 私は明らかに間違いではないような形にその文を修正する。これが可能なのは、私の用語はどれも同じフェルトセンスから浮かんだものだからである。だから、当然、互いに関連あるはずである。

生の広大な綾(A)は、パターン(B)の中にある何かである。
生の広大な綾(A)は、一種ほどけつつある(C)ものである。

 A=Bを修正するために私は、の中にある何かということばを加えた。A=Cを修正するために一種を加えた。修正をこれら最小限にとどめたのは、用語の間のつながりを古いなじみのやり方で説明することを避けたかったからである。自分のフェルトセンスから新鮮に関係を開発したかったからである

 

 用語を関連づける、いろいろな可能文を自由に作って遊ぶといい。A=BとA=Cなら、おそらくBはある種のCであったり、Cはある種のBであったり、あるいは、Bの中にはAがあり、かつある特別なやり方でCでもあったりするだろう。固定的な論理ではなく、自由に開かれた論理と遊ぼう。

 また、論理なしでも、自由に文を作ったり、用語を分断したり、組み合わせたり、新しい用語をいくつか作ってもよい。

 私がこのように遊びながら作った多くの可能な文の中で、おもしろいものを次にあげる。

 パターン(B)には綾(A)が含まれており、そして、綾は一種ほどけつつあるものである(A=C)ゆえに、綾はその中にあるパターンをほどいていく

 この奇妙なパタンは真だとは思うが、それは私が自分のフェルトセンスから表現したいことではない。綾は、それが含まれるパターンを常に創造し再創造するとは思うが、「ほどけつつある」で私が意味していたのは少し違うことだった。私が意味していたのは、UPRの中で綾が定義をほどくということである。「定義」で私が言いたかったのは、「細胞の成長を止める」ある種のパターンのことである。細胞の成長を止めるパターンは、人を定義するパターンである。人はそのパターンで定義されるだけの人として見られてしまう。それゆえ、このように論理を試すことで私にわかったのは、「A=B」で私が意味するBは、「B=C」で私が意味するBとは同じものではないということである。

 私のフェルトセンスでは、人間の「パターン」には常にその中に綾があるが、ときには、同時になぜか人を定義してしまう。定義されたことには綾がない。定義されたものは定義の中にはない。この定義をほどくことが、UPRの中で「綾は一種ほどけつつあるものである」(A=C)ということで私が意味しようとしたことである。「パターン」は「定義」ではないが、定義にもなりうるということがわかる。UPRの中で綾は定義をほどいて、定義がパターンとなってその中に再び綾が取り戻される。

あなたのフェルトセンスを中心となって表現する用語の間をつなぐ「である」に焦点を当てることが手がかりとなる。

ここで、パターンと定義の区別が出現しつつあることに私は興奮を感じる。また、「開かれた論理」で遊んで、この私の感じられる興奮からさらに文を作り出す。私が作った用語と遊ぶことで、私は自由に、用語を分解したり、新しい用語を作ったり、組み合わせたりして、用語の間の関係に関する自分のフェルトセンスに焦点を当てていく。

人は定義の中で消える。
人はパターンの中で生きる。
それゆえ、パターンは定義の中で消える。
綾はパターンの中にあるものであり、そのパターンは定義と見なすこともできるが、定義の中には綾はない。
綾はパターンの中にあるものだが、パターンは定義と見なされることもあり、その中には綾は含まれない。
綾はパターンの中にあり、それゆえ、綾は、パターンが綾を含まないような定義になったときに、それをほどく。
綾は、それを含まないものをほどく。

 私は「パターン」の二面性について展開している。綾は常にパターンの中にあるが、パターンがある人がどういう人であるかを定義するために使われると、それは「定義」となり、その中には綾がなくなる。だからここで私が言えるのは、

綾はパターンの中にあるが、綾は定義になってしまったパターンをほどく。

 私の開かれた論理は役に立ち、自分が言いたいことを言ってくれる。

 

 自分のフェルトセンスの核心が、2、3の用語とその間をつなぐ「である」で中心的に表現できたとき、ステップ10は終わる。あなたの用語が変化していたら、中心的な用語を新たに選び、それらをA、B、Cと名づけなさい。

 

 私はAを「生き生きしている広大な綾」のまま保ち、Bを「パターン」のままとし、「定義」をCに移行させる。

A=生の広大な綾
B=パターン
C=定義をほどくもの

それらを「AはBである」「AはCである」という形で書きなさい。

生の広大な綾はパターンの中にある何かである。
生の広大な綾は、定義をほどくものである。

ステップ11:用語間の本来的な関係を問う

 ステップ11の目的は、用語間の新しい関係を言語化することである。そのためには、用語を「交差」させ、それぞれの用語が他の用語との関連で厳密な新しい意味を発展させていくのを期待する。用語の間の「本来的な関係」を見いだすために、「この用語の本質は何だろうか。その正体がすでに別の用語の一変形であるような性質は何だろうか」と問いかける。「・・であるようなそれとは何だろう」とか「それが何であれ・・となるようなものは何だろう」という言い方を使って、フェルトセンスから本来的なつながりが浮かぶ場を保つ。

あなたの二つの文において、「〜である」の前に「本来的に」という語を加えて「Aは本来的にBである」、「Aは本来的にCである」という文に書き換えなさい。この文が結局何を意味することになるか、あなたにはまだわからなくてよい。

 

 私のA=Bの文を使って、私は「本来的にパターンの中の何かであるような、生の広大な綾(A)とは何だろう」と問いかける。

 

 今、フェルトセンスの複雑性の中に浸ることで、なぜAが本来的にBなのかを見い出す。これらのふたつのことはどのように本来的に結びついているのだろうか。Aの本質はなんなのだろうか。Bに関係しているような、あるいはBとこのような関係でなくてはならないような、Aの本質とは何だろうか。そこで見いだしたことを書きなさい。その本来的なつながりを名づけなさい。ここで、AとBの間のつながりが得られる。このつながりは新しい用語である。これと同じことを「Aは本来的にCである」でも行いなさい。

 

 私は自分のフェルトセンスに、「ではいったい生を広大な綾とは何だろう。そしてパターンとは何だろう」と問いかけた。

 「生の広大な綾がその中にあるようなパターンとは何だろう。」すでに私はパターンとははっきりした形であると述べた。はっきりした形とは目に見える何かである。形を持つことでしか、何かになれる方法はない。もし無限に均一性しかないなら、何かはありえない。あるパターンは、綾が目に見える何かになる方法である。実際、人間のパターンは、綾が目に見える形になったものである。そうだ!人間の目に見える形こそが人間のパターンなのである!生の広大な綾は、パターンの中で見えるものである。そして見える何かは、外から見える。それゆえ、綾とパターンの本来的なつながりは、外側から目に見えることである。

 私はこの本来的なつながりを私のA=Bという文に付け加える。私の文は「生の広大な綾とはパターンである」であった。それは今次のようになる。

生の広大な綾は、パターンの中で外側から見えるものである。

 ここでA=Cという私の文をとりあげ、「本来的に定義をほどいていくような、生の広大な綾とは何だろうか。そして、綾であるような、定義をほどくこととは何だろうか」と問いかける。

 ステップ5で私は、ほどくことは、人が自分自身の前向きの動きになっていくようなやり方の後ろ向きの螺旋状の動きであると述べた。「後ろに進み、かつ、自分自身の前向きの動きから出てくること」は内側からの動きである。ああ、今わかったが、「生」(生の広大な綾)もまた内側からの動きである。つまり、ほどけることは、内側からの動きであり、内側から動くものが綾なのである。それゆえ、綾とほどけることの間の本来的なつながりは、内側から動くことである。

 そして、綾によってほどかれるような定義とは何か。一日中、私たちのほとんどはもっぱら、自分自身や他の人をパターンが定義しているものとして見ている。人を、記述的カテゴリーや私たちに見える特徴的パターンであるように見ているが、それらは外側でしかない。そこからは綾が抜け落ちている。綾は内側から動き、内側から動くものは、外側でしかないものをほどく。そして、外側でしかないものは定義である。つまり、同じ「内側からの動き」が、綾と定義をほどくことのつながりである。 

 この本来的つながりを私のA=Cの文に戻そう。私の文は「生の広大な綾(A)は定義(C)をほどく。」であった。今それは次のようになる。

内側から動くことによって、綾は定義をほどくものになる。

 しかし、定義には綾が抜け落ちていると主張するだけでは私は満足しない。私はさらなる本来的なつながりを手に入れたい。「本来的に綾が抜け落ちるような定義とは何だろう」と問いかける。

  もちろん!定義は抽象化されたパターンである。「抽象化された」とは、それが一つのことから取り上げられて、別のものに適用されうることを意味する。そして、それぞれものの綾を無視する。それが、抽象化されたパターンの内側には何もないことの本来的理由である! そして、それが、定義は外側からだけ存在するという意味である。つまり、定義とは、人をパターンが定義するだけのもののようにするような形で、人々に適用されるパターンのことである。

私は、パターンが定義するものを単なるパターンと呼ぼう。そして、それを定義を示す別の新しい用語としよう。

 単なるパターンをほどくことと綾との間の本来性を正式に述べよう。

単なるパターンは、一つのことから取り上げられ、他のことに適用される。
一つのことから取り上げられて他のことに適用されるものは、それぞれのことを捨ててしまう。
それぞれのことを捨ててしまうと内側に何もない。
内側に何もないものは外側としてしか存在しない。
外側としてしか存在しないものは、内側から動くものによってほどかれる。

 私の理論をさらに発展させるたびに、私はUPRをさらに正確に定義できる。今ここで言えるのは、

UPRとは、パターンを、綾が視覚化されたものと見ることであり、綾によって単なるパターンをほぐすものである。

ステップ12:最終的な用語を選び、それらを相互に関係付ける 

 

 ここで私は形式的理論を書き始める。形式的理論では、それぞれの用語の意味を他の用語を使って述べなくてはならない。私がここでもっぱら関心を持っているのは、文化的にも個人的にも望ましくないパターンであり、それによってUPRが難しくなるようなパターンである。しかしながら、私の理論的用語はすべての人のパターンに適用される。

 

 新たにあなたの「非論理的」核心を作りなさい。自分自身に、あなたの中心的な核心は、ステップ11で見いだした用語と本来的つながりを用いて、どのように言えるだろうと問いかける。主要点の一つは、あなたの核心を述べるために選んだ他の用語の組み合わせであるような形で文を形成しなさい。

 

 私は私の主要用語「A」(広大な綾)を、それがどういう意味かを他の用語をいくつか使って、新たに定義する。私は、ステップ11からの本来性を使って、この定義の中に論理以上の核心を入れる。私の核心は、「UPRでは、人はその不完全性の中でこそ完全である」(ステップ2)である。これは今次のようになる。

 UPRがあると、人は、生の広大な綾であり(完全であり)、そしてその綾は、内側から動くことで、パターンの中に外側から見えるものである。                                                     

 ここで、前の核心的陳述でであるに続く(*日本語ではであるの前の)用語をとりあげる。核心的陳述を書き変えて、この第二の語が、この陳述の他のすべての用語の組み合わせであることを主張する。この用語の意味ある定義になるように、その文を調節しなさい。

外側からの人の見え方は、綾が内側からパターンに動いていくものである。

 では、これを次の用語やその他の用語に行おう。 

内側から動くことは、人間の綾がパターンとなって外側から見える形になるやり方である。
パターンは、人間の綾が内側から動くのが外側から見える形になったものである。

 それぞれの用語はここで他のすべての用語の組み合わせからなる文で定義されている。

 核心的陳述からの私の4つの用語はここで形式的に相互連関している。これによって、論理的関係が作られる。

 

 ここで、今までのステップからの句の中で、自分の理論で次にどれが必要かを問いかけて、その理論が自分の言いたいと思っていたことを言えるようにする。それを一つずつ付け加えて行きなさい。それぞれを自分が先に定義した用語から引き出しなさい。「引き出す」というのは、新しい用語と先の諸用語との本来的な関係を見いだすことである。その本来的な関係を説明し書きなさい。

 

 私は次のもっとも重要な用語として、単なるパターンとほどくことを、ステップ11からの第二の本来性と上記の用語をいくつか使って、結びつける。

外側だけである単なるパターンは、内側から動く綾によってほどかれなくてはならない。内側から動くことは、外側でしかないものをほどかなくてはならない

 

ここで用語は論理的にかつ体験的に結びつけられたので、あなたはお互いに用語を代替することで文を作り出すことができる。これらの文によって、あなたの中心的核心的パターンが見いだされる。

ほどかれた単なるパターンは、パターンの中から綾が動くようなパターンである。
れゆえ、ほどかれた単なるパターンは、外から見える綾である。
それゆえ、パターンの中で外側から見える綾は、外側だけであるものをほどく。

私の非論理的な核心が今、厳密に奇妙なパターンとして出現しつつある。私の内側外側の間に通常とは異なる関係である。一つの内側と二つの外側、つまり、目に見える綾と単なる外側、がある。UPRは、内側(綾)が、単なるパターンを見るだけでは見逃されるような、外側から見えるものであることを、見ることである。1

 それほど形式にこだわらない形では、まだ使っていない語や句をそれと同等の主要語のもとにまとめておいてもよい。そして、あなたの奇妙なパターンの中にそれを代用することで、論理に従う文をさらに作り出してもよい。

完全性は形の中に見えるものであり、単なる形をほどいていく。
そこからは何も取り去られるべきではないもの(完全性)は、不完全さの中に見えるものである。
遮られないものは、妨害の中に外側から見えるものになり、単なる妨害をほどいていく。
後ろに戻るものであり、それ自身の動きから生まれるものは、内側から動くことのできないものをほどいていく。

 この種の非公式な代用によって、新しい文をたくさん作り出すことができる。このようなやり方で、私は新しいパターンによって生成される文をすぐにたくさん作ることができる。私はこの理論を適用する、世界のどの部分にも、フェルトセンスの中で価値あるものをもたらす。このパターンに置かれた何についてであっても、新しいことを言うことができる。

例えば、クライエントが多くの達成を成し遂げているにもかかわらず、自尊心の低さに苦しんでいるとする。それは彼が望む高いレベルに失敗するからである。しかし、誰でも発達の先端(エッジ)では、うまくできないことがある。私の理論からは、低い自尊心は、単なるパターン(「失敗」)をほどくことが欠けていることであると言える。そのために、失敗した出来事において、生の広い綾を体験することができないのである。

 代替によって、文から形式的な進展をして結論に至るという推論の力を発展させることができる。結論は、あなたのフェルトセンスに受け入れられるものかもしれないし、受け入れられないものかもしれない。こんな風に、論理と体験の力はあなたが理論を洗練させる上で役立つ。

 

 私の理論に「すべての人間は常に内側から動いている綾である」という陳述を入れると、私の理論の論理はいくつかのおもしろい結論が導かれる。

人々を単なるパターンとして見ることもできる。
単なるパターンには内側はない。
そして、内側に何もないものは内側から動くことはできない。
しかし、すべての人間は常に、内側から動いている綾なのであるから、それゆえ、内側から動くものであっても、内側から動くことのできないものとして見られることもありうる。

 これは重要である。なぜなら、私たちはしばしば、他の人が内側から動くことができないと思って、他の人を外側から変えようと何かをしたくなるからである。しかし、綾は常に内側から動いている。単なるパターンのように見える人であっても、内側から動く綾なのである。そして、もちろん、自分自身や他の人を単なるパターンと見る人もまた、内側から動いている。なぜなら、人々は常にパターンの中で内側から動く綾なのだから。これが、UPRが可能な理由である。人が単なるパターンしか見なくても、あるいはそうとしか見られなくても、その人はどの瞬間にも内側からまた動き出している。それゆえ、その人が、あるいは他の人が、外側に、単なる外側としてではなく、内側のあらわれとして反応することは可能である。

  UPRは、抽象的パターンを見る能力の後から出てきた新しい発展である。人間の世界はもっぱら、単なるパターンによって定義されるという観点で見られている。抽象的なパターンを作り出し、それを適用する能力は、人間の大きな力であり、そこから科学が生まれ、家から飛行機まで作りだされたのである。しかし、この能力には、人を単なるパターン以上のものと見ることができるような、さらなる発達が必要とされている。UPRの中で、私たちは定義をほどくことができ、それによって、定義は生のパターンとなり、そこに綾の広大な生を見ることができる。2

 ここで、私は理論を拡張して、新しい用語をいくつか生成する。私は、さらにフェルトセンスに入って、私の奇妙なパターンを洗練させる。私の中心的な奇妙なパターンを明確にするためにさらに言いたいことがある。

 ここまで私の新しいパターンには2種類の「見る」ことが関わっている。外側だけを見ることと、外側に内側を見ることであり、これがUPRを定義するものである。しかし、外側を内側のあらわれとして見ることは、「見る」ことの通常の意味ではない。さらに私のフェルトセンスに入って、このUPR的な「見ること」で何を意味したいかを探ろう。

 私たちは単に、特定のパターンを見るのでなく、綾のあらわれとしてのパターンを見る。この「見ること」にはステップ4で「妨げられない動き」と読んだものがある。UPRでは、妨げられない動きの感じは、私の中にわき起こり、私から外へ、他の人の綾に転がり出る。この転がり出る動きは喜びであり、それは、また、何の障害なく内側に戻ってくる。それゆえ、「UPR的に見ること」についての私のフェルトセンスから、私は、「妨げられず転がり出て戻ること」という新しい用語を作ることができる。

 さらに、この妨げられず転がり出て戻ることの中に、私は同時に私自身の綾も感じる。 UPRは、他の人の中と同時に自分の中に綾を見たり感じたりすることである。

 私は、この転がり出て戻ることはある種の触れあいであり、ある種の愛であると考える。この種の「触れあい」と「愛」には、私の理論の奇妙なパターンがある。愛することは単なる外側をほどき、「目に見える内側」を転がり出させる。

 しかし、ここで古いパターンが侵入してくる。綾を愛するためには、その前に綾を綾として見て認識する必要があるのではないだろうか。私はフェルトセンスに確かめる。いや、そうではない。綾を綾として見ることは、すなわち、見ること-触れあい-愛-転がり出し戻ること、なのである。見ること-愛-転がり出すことは綾を綾として認識することである。しかし、他の人の綾を見て-愛する前に、自分の綾を見て-愛することができないといけないのではないだろうか。いや、そういうことはない。他の人の綾として見て-愛し-転がり出すことは、すなわち、自分自身を綾として見て-愛することなのである。どちらが先ということはない。

 ここで私が言えることは、UPRは見て-愛し-転がり出て戻るである。UPRは綾から綾への見て-愛し-転がり出すことである。それゆえ、UPRは、綾が、「それ自身」(他の人のものであれ自分自身のものであれ)を見て-愛している綾を見て-愛することである。「それ自身」はすなわち、綾を見て-愛する綾である。3 ここで、それ自身というさらに新しい用語がでてきた。

 私の形式論理からは、受け入れられない結論が出てくる。

 私は、UPRなしでは綾が捨てられるということを暗示してきた。人は単なるパターンとして見られる。しかし、綾を捨てて単なるパターンと見る人自身はもちろん綾である(なぜなら、すべての人は常に綾なのだから)。それゆえ、そこから次のことが言える。UPRがなければ、綾は(他の人の中にも自分の中にも)それ自身を見ないでいることができる。しかし、私はつい先ほど「それ自身」を、綾を見る綾として定義した。理論自体からは、綾がそれ自身を見ないでいることは不可能になる。私の理論からは私は、人が単なるパターンを見るとき、そこにはそれ自身はないと言わなくてはならなくなる!それでも私は、誰もが常に綾であることを知っている。

 同じ問題は別の形でも登場する。

 

 綾は単なるパターンをほどくものであると言ったが、単なるパターンしか見ない人は綾である。それゆえ次のように言える。綾は単なるパターンをほどくものであり、綾は単なるパターンを見る。論理的にはこれは、ほどけることはほどけないと言っていることになる。

 もし、この結論が受け入れられなければ、あなたは自分のフェルトセンスに再び入り、さらなる区別をしていかなくてはならない。このようなやり方で論理と体験の力を使うことで、あなたの理論は洗練される。

 これは、受け入れられない論理的結論の例である。だから、私は自分のフェルトセンスにもう一度入り、さらなる区別をしなくてはならない。これは私の理論の発展なのだろうか、それとも間違いなのだろうか。私の「非論理的核心」のフェルトセンスに戻って、これが実際にはどのような仕組みになっているのかを見いだす。私が見いだしたのは、

 そうだ、私は、この自己認識(「それ自身」)を綾の真の本質であると思っていた。そうだ、私は私自身を私のパターン(私の、単なる私らしさ)に見るということを意味している。私は、私は私自身をの間の奇妙な距離を意図しているが、二つの私がある、一方が他方を見ていると言っているわけではない。つまり、綾が孤立していて、それを見たり、見なかったりするようなものであると言っているのではない。私が言いたいのは、UPRでは、綾が見るものが、すなわち、それ自身である、ということである。これは一つの認識であって、どちらも他方の前にあるものではない。

 それゆえ、この問題は間違いではない。私は元に戻って何かを変える必要はない。この論理的問題が示しているのは、私の理論には他の用語が必要でありそれを開発しなくてはいけないということである。それは、理論内ではまだ、綾がそれ自身を認識する以外のことをどのようにするのかを説明できないからである。

 ここでまた、フェルトセンスに戻る。

私は、綾はUPRの中でのみ、そしてUPRの中では常に、それ自身を認識するといいたいことに気づく。それ自身UPRの中でのみ存在する。非UPRの中では、綾は「それ自身」ではない。

 私のUPRの理論はUPRの一例である。それは、UPRにおいて真実のことしか語れない!ここで、私は最初のところで非論理的に思われたパターンをつかんでいる。

 私がUPR状態になく単なるパターンしか見ていないとき、私にわかるのは、もし私がUPRにあれば、常に内側から動いている目に見える綾としての人を見て-愛し-転がりだすだろうということだけである。しかし、これ以外には、UPRにないとき私や他の人は何かについては、理論は何も言わない。私たちが何「であるか」は、UPRの中でしか見られない。私たちの「真の本質」はUPRの中にある。

 私はこれを受け入れる。それは正しいように思える。しかし、私はどうすれば、非UPRについて何かを言えるような理論を工夫できるのだろう。

 続いて先のステップから得られた句の中で、あなたが言いたいことを言うために、あなたの理論の次に必要なのは何かを問いかけよう。

 非UPRについて考えるために、私は先に得た別の句を持ち込む。(ステップ5より)体験における空隙を形式的理論に関連づける。

単なるパターンは内側に何もない。
単なるパターンからは推論しか続かない。
推論は単なるパターンから作られるものであり、それゆえ内側には何もない。
単なるパターンからの推論は、外側でしかない連続性を構成する。
単なるパターンから推論が続くと、単なるパターンは体験の空隙を作る。

 例えば、誰かが電話をすると言っていたのに電話をくれないとき、私たちは単なるパターンを見て、そこから「彼女は私を好きじゃない」と推論する。あるいは、私たちは一日中眠っている人を見て、推測する。「彼は機能不全だから、決して自立できないだろう。」そして、私たちは怒ったり心配したりする。私たちが愛している人が問題を起こすと私たちは、「私がしたことが何もかも悪かったんだ」と推測する。私たちの子どもが泣いていると、私たちは泣いていることだけを感じ、泣いている中にいる人を見て-愛そうとはしない。

 これらの例ではどれも、綾が失われて単なるパターンになっており、そこからそれぞれのつらい推測が導かれている。単なるパターンを見ることによって、私たちの体験には空隙が作られる。その空隙をこれらの推測が埋めるのである。 

 推測は普通理性的思考の「客観的連続性」であると見なされるが、それは不連続性でもありうる。セラピストはしばしば人を診断的な単なるパターンと見なす。そしてその単なるパターンから結論を引き出し(そしてありそうな結末まで憶測し)、そこに空隙を作り出し、内側から常に動いている人との触れあい(綾が綾を見ること)を維持しようとしない。これをしているセラピストは空隙に気づいてもいない。私の理論では、セラピストたちはクライエントをあるパターンの一例であると見なすことは少なく、そのパターンとその推測にのみ関わる。

 私は私の理論で「体験」ということばの意味することを再構築しよう。

  体験は綾それ自身に従うのであり、単なるパターンに従うのではない。単なるパターンからの推論は体験ではない。推論は体験の空隙である。文化には人々に関する単なるパターンが満ちていると私は考える。「体験の空隙」で私が意味するのは、人(自分自身の人であれ、他の人であれ)を体験することにおける空隙である。推論では、私たちは(綾である)人を体験しない。私たちは人を見て-愛し-触れあい-転がりでることをしない。

 私の理論からはさらに疑問や新たな用語や本来的関連性が生成される。

 しかし、人々は常に綾であるから、綾がそれ自身で(それ自身を見て-愛して)ないときには、綾とは何だろう。それ自身ではないとは綾が失われて単なるパターンになっていることを意味している。私たちは人をパターンが定義するものとしてのみ見ると、綾を捨ててしまうが、その単なるパターンを作っているのは私たち(綾)なのである。ここで「単なるパターンは綾(人)によって作られる」と言うことが重要だと感じる。最初、これは関連あるとは感じていたが、これがどうして私に役に立つのかはわからなかった。そこで、それ自身を見ないこと単なるパターンを作ることの間の本来的な関連性は何だろう」と問うた。もちろん!私が見いだした関連性は、それ自身でないこと作ることの間のものである。綾はそれ自身を作ることはできない

 作っている間、綾が見ているものは綾が作っているものである。そして、それが作っているものは常に何か別のものであり、それ自身ではない

 UPRでは、その、推論すること作ることがそれ自体パターンであり、その仲に綾が見える。単なるパターンを作っている人は自分が作っているものを見るが、その人は、単なるパターンと推論を作るというパターンの中に見える綾である。

 ここで私は私の中心的な奇妙なパターンを言語化したことに満足している。

 さらに、自分の理論があなたが言おうとしていたことを言うために、次に必要なのは何だろう、以前のステップからの句のどれが必要なのだろうか、と問いかけよう。

 私の基本的な核心に統合するもう一つの用語は、守らなくてもいいこと(ステップ7より)である。私はこの守らなくてもいいという用語を特殊な意味で使っている。私たちはしばしば、自分の、あるいは他の人の心理的な痛みから自分たちを守る。しかし、しかし、私たちが、その痛みを、その人そのものである生の広大な綾から取り出したりしなければ、私たちはその痛みだけでなくその人を感じる。その痛みを一つの独立な側面として見ると、それは耐えられないものとなり、私たちはその人から自分を守らなくてはならないように思われる。しかし、私たちが自分を守るのはその人からではない。私たちが自分を守ろうとしているのは、綾が捨ててしまったものから、つまり、単なるパターンとその推論からなのである。もし、心理的な痛みの中に、広大な綾を持つ人を見て-愛すれば、私たちは自分を守る必要はない。

 私たちは、危険な状況においてさえ、人を綾としてみたい(UPR)と望む。しかし、もちろん、そのような場合、私たちは具体的な環境を再編成することで自分を守らなくてはならない。同様に、私たちは決して自分自身が心理的に虐待されるのを許すべきではない。これを防ぐための具体的方法を見つけることで、UPRはそのような状況ですら可能になる。

 私はここで一つの理論の核を手に入れた。そこには論理的な関連と本来的な体験的理解が含まれている。4

ステップ13:あなたの理論を自分の領域外に適用しなさい

 このステップは小休止である。

 あなたの用語の新しいパターンは、理論モデルとして役立つ可能性がある。そのパターンだけを、芸術や宗教や教育や比喩のような、一つ以上の広い領域に適用してみよう。

 私のパターンを教育に適用する。

 次のような形式で文を書きなさい。_____(ある話題の一側面)についての何かは、_______(あなたのパターン)である。ここで、その文を真実にするような何かが浮かび上がるのを待ちなさい。見いだしたことの説明を書きなさい。

      

 教育についての何かは、パターンの中にそれ自身を見て-愛す広大な綾、体験の中の空隙を作る単なるパターンしか見ないときにはそれ自身を失ってしまう広大な綾のようなものである。

 私はこれを単なるパターンの一つとして使おうとは思わない。つまり、外側から押しつけようとはしない。そうではなく、私のパターンを教育領域を私が全体的にどうとらえているかというセンス(綾)と交差させて、その綾から何が浮かぶかを見ていくだろう。

 

 教えることはまさに、パターンを単なるパターンとしてだけ見ることではない。単なるパターンを学ぶことは生徒の体験に空隙を作り、パターンにどのように宇宙があらわれているかというやり方を隠してしまう。学ぶことについておもしろいことは、パターンを学ぶことで生徒が世界と触れられるということである。現実の側面はどんな側面であれ、その材料を通して見て-愛し-触れられた世界なのである。私が、一つの内側二つの外側のパターンを使うことで強調したいのは、学ぶことが単に特定の内容ではなく、素材を通して世界に触れあう方法であるという点である。

ステップ14:あなたの理論をその領域で拡張し応用する

  これはあなたの理論の本格的展開である。それには何年もかかるかもしれない。あなたの理論を拡張するために問いかけよう。次に浮かぶ質問はなんだろう。あるいは、理論から次に得られる理解はなんだろう。あるいは近く関連している要因でまだ取り上げていないのは何だろう。

 ここまで私は、UPRは綾が外側からパターンの中に綾を見ることであると述べてきた。ここから一つ疑問が浮かぶ。綾は外から見られたときにのみパターンを持つのだろうか。フェルトセンスからすぐ出てきた私の答えは、いや違う。綾はどんなときにも、常にまったくある種特定な独自なやり方でいる。すべての種類の形態(パターン)が、常にそして終わりなく、生の広大な綾からは生まれる。綾は連続的なパターン化であり、内側から常に生成されている。「パターン化」はある人が他の人とどのように異なっているかであり、生のある瞬間が別の瞬間とどのように異なっているかである。人は今ここで、まさしくこの特定のあり方なのである。

 しかし、私は、ある人を別の人から区別するものがパターン化であると言いたいわけではない。そうではなく、人は、パターン化を常に生み出すものなのである。

 私は、「すべての種類の形態が生の広大な綾から、常にそして終わりなく生まれること」を省略し、この新しい用語を「パターン化生成」と呼ぶ。

 必要なら本来的な関連性を加えて、さらに自分が加えた用語を説明できるようにする。

パターン化生成は、綾が内側から動くことである。

 新しい用語が関連づけられたら、置き換えることで、あなたの他の用語でそれについて何が言えるかを見てみよう。

パターン化生成は単なるパターンをほどく。
パターンはパターン化生成の外側からの見えである。
単なるパターンはパターン化生成を捨てる。

 このようなやり方でさらに理論を拡張していける。

 私はさらに質問が浮かぶのを発見する。

 私の問いは、パターンがその人本人に由来するものであっても、押しつけになるのだろうか、である。私の答えはこうである。そのパターンの由来がどこであれ、その人本人からであれ他の人からであれ、単なるパターンであれば、押しつけになる。

 私の理論では、「本当にそこにある」あるいは「投影された」(押しつけられた)の慣習的な意味は問題ではない。大事なのは、私たちが単なるパターンを見て推測をするかどうかである。もしそうしていれば、私たちはその人との触れあいを失っている。単なるパターンは、決して真ではない。なぜなら、人はいつも、どの瞬間にも、綾であり、決してパターンが定義するものだけであることはないからである。

 ここで、単なるパターンは常に押しつけられるものだとわかる。パターンがその人の内側から生成されるときでさえ、それが単なるパターンであるならば、押しつけとなる。単なるパターンの私の理論は、「パターンを押しつける」ということで普通意味されることを再定義する。というのは、単なるパターンは内側から作り出されるものでさえ、単に外側のものなのである。

 いったん理論が開発されると、そこからさらなる区別や意味が生まれる。あなたが作ろうとしなくてもよい。あなたは単に「これは何だろう」と問う。突然、思いつきもしなかった重要なことが引き出されたことに気がつくかもしれない。

ここで私は、単なるパターンによって、私たちがものを作ってきたと気づく。椅子の上のクッキー箱は作られたものである。それは単なるパターンを何かに押しつけることでできている。作られたものは、内側からそれ自身のパターンを作り出すことはないし、パターンの中に自身を見ることもできない。人にパターンを押しつけることは許されない。人はものではないのだから。木からテーブルを作ることは許しても(それを問題視することもできようが)、人を何かに作ることは許されない。私の用語では、人間は、何かに単なるパターンを押しつけることで作られたものではない。私の理論からは「作られたもの」と「もともとの本質」が引き出される。

 新しい用語との関連ができたら、置き換えによって、あなたの他の用語でそれについて語ることができるかどうかを確かめなさい。

単なるパターンは一つのものから引き出されて他のものに適用される。
単なるパターンは外側から何かを作るのに使われる。
外側から作るものは、パターン化生成ではない。
外側から作るものは綾ではない。
単なるパターンは、何かを他のものに作りたいときに、外側から使われる。
綾は作りうるものではなく、外側から単なるパターンで変えられるものでもない。

これは、私がステップ1の、誰をも「変えたくない」という言い方で言いたかったことをより細かく言語化したものである。UPRで私は、自分の見ているものよりも望ましいあるパターンを思うかもしれないが、そのパターンを当てはめようとは思わない。あまり望ましくないパターンの人であっても、その人をものに変えるよりは、その人を見て-愛するだろう。   

 新しい用語とのつながりができたら、置き換えによって、他の用語で、それについて語ることができるかどうかを確かめなさい。

完全さとは、私たちが何か他のものに変えようと望まないものである。
綾は完全さである。
綾は、私たちが何か他のものに変えようと望まないものである。
UPRでは、私たちは、パターン(不完全さ)の中に、私たちが何か他のものに変えようとは望まないものを見て-愛する。

 あなたの理論をこのようにさらに次々と拡張していくことができる。

 さらに多くの区別や新たな用語が私の理論から示される。例えば、文化的決まり事は私をある種の役割やパターンに定義する。もし私がその決まり事しか見なかったら、私はそこで行き詰まる。しかし、UPRは文化的な(押しつけられた)単なるパターンをほどく。もし私がその決まり事の中に私の綾を見て-愛すれば、私がその決まり事を受け入れたり、拒否したり、修正したりしていることに気づくだろう。ここではさらなる展開の追求はやめよう。5

 いったん私のフェルトセンスを新しいパターンに言語化して、論理的用語によってつながりも見えてくると、どんな場面でもその場に合うよういろいろなやり方で理論を書くことができるようになる。ここで私は自分の理論を、クライエント中心理論のUPRの側面に拡張しよう。(これは14ステップの第2の部分である。)

 あなたの理論を、自分が説明したり明確化したい、自分の分野における観察や関連領域に適用しなさい。あなたの理論によって重要な違いがもたらされるのはどこだろう。これをあなたの理論の用語で新鮮に定義しなさい。

 

 私の理論はクライエント中心の理論と実践のいくつかの点に何かをつけ加えるものである。この理論によって、初めに提起した、セラピストが否定的な気持ちを否認せずにUPRをどのようにもてるかという問題が解決される。UPRについての私の区別によって、セラピストはUPRを見いだすことができる。また、私はUPRの治療的な力について、今までとは異なる理論的な説明を提供する。

 私の理論は、UPRと一致の間にあるように見える対立を解決する。

 

 この問題は、クライエントの否定的な内容の知覚するかどうかではなく、これらの内容をその人のあらわれとして、生の広大な綾として、見るかどうかなのである。セラピストはクライエントの機能不全や有害な行動を否認する必要はないし、そのクライエントに対する自分自身の「否定的」感情や判断を脇に置く必要もない。そのパターンが単なるパターンとなって、体験に空隙を作ることになければいいのである。綾を見て-愛し-触れていれば、私たちは空隙を作ることはない。「否定的な」感情は、その綾を見失いさえしなければ、まったく違ったものになる。例えば、クライエントが中毒的な行動パターンに戻ってしまったことで私がクライエントに腹をたてても、もし、私がそのような反応をするじぶんを見て-愛し、また中毒的なパターンの中に見えるクライエントをも見て-愛すれば、私が体験に空隙を作り出すことはない。もしセラピストがクライエントを、肯定的なものであれ否定的なものであれ、単なるパターンと見ることに陥ってしまったとしても、その後、そのパターンの中のその人の綾を見て-愛し-触れることに戻ることを選べばよい。

私の理論の区別によってセラピストはUPRを発見することができる。

 綾を見ることに戻るにはどのようにすればよいのだろうか。私たちは、いつクライエントを単なるパターンとして見ているか、あるいは、どのようなときにクライエントが単なるパターンにとらわれているかに、気づくことができる。そうすれば、単なるパターンが決してその人の真実にはなりえない。あるパターンでクライエントを定義してしまえば、私たちはクライエントから距離をとり自分自身を守ることができる。それを私たちは知っている。しかし、私たちが見るパターンは、今ここでのその人のあらわれであるということ、そしてそれによって私たちの綾が転がり出てその人に触れることができるということを、思い出すことはできる。UPRでいると私たちは、クライエントが常に内側から動いている綾であると体験する。私たちは常にどの瞬間においてもこの動きに反応することができる。単なるパターンを認識することによって、それが綾の見えとしてのパターンに変容することを援助できるのである。

 ロジャーズは、ある人への一貫して肯定的な応答が(共感と一致とともに)深い変化を作ることを観察した。そこから新しさと発展の大きなプロセスが出発する。ふりかえって考えると彼は、この一貫した肯定的な尊重の欠如が神経症を引き起こす原因だと結論した。ロジャーズの見方では、子どもが親やその他の人たちから肯定的な尊重を与えられるにしても、無条件ではなく、ある特定の経験だけを尊重されるとき、子どもは受け入れられない体験の意識を否認する。その人は「不一致」となる。つまり、自己概念が自分の有機体的な体験とずれてしまう。否認した体験が意識にもたらされるような出来事は不安を引き起こす。不安を避けるために、その人は生活の相互作用を制限する。ロジャーズにとっては、治療的変化がもたらされるのは、セラピストがクライエントを無条件に受け入れる(価値づけ、ほめる)ときである。この受容によって、クライエントが自分の体験を受け入れられるようになる。

 私の理論はUPRの治療的力について新たな説明を提供する。

 私は、子ども時代の条件つきの尊重というロジャーズの概念が彼の発見したUPRの効果を理解するために必要であるとは思わない。子ども時代の条件つき尊重以外ににも問題を引き起こす原因は多様にあると思う。

 私の理論では、変化のプロセスは、否定的内容を受け入れることやそれを意識化することからではなく、広大な綾から生まれると言う。人は単なるパターンからだけでは綾を含むやり方で進めない。変化プロセスは、抑圧された「内容」が、否認から意識(重要なものとされる)に動くことではない。私の理論では、「同じ」内容でも、そこに綾があるかないかによって、基本的に異なるものになる。UPRが有効なのは、それによって単なるパターンがほどけ、綾がそのパターンの内側から動くからである。UPRの状況の中では、過去の出来事が違った形で「戻ってくる」。つまり、過去の出来事が、その中に見え愛される綾を含んだ人とともに、戻ってくる。過去の出来事は今からだの中で生きられているが、その形は、同じ記憶や気づきが、その空隙や推測とともに「戻ってくる」ときとはずいぶん異なる。その出来事は取り組むべき課題として戻ってきているのだが、そのまま戻ってきたのではクライエントは再びつらい思いをして傷つくだけになる。それはよく知られている問題である。この問題の状況が戻ってくるときには別のプロセスの中に戻ってこなくてはならない。単なるパターンとパターンの中で動く綾とを区別することで、癒されることと再び傷つくことの違いが説明できる。UPRの力は、単なる特定の内容の意識化ではなく、セラピストがこの人のそのパターンの中へのあらわれを見て-愛するときに綾を含む体験が出てくることなのである。6

  UPRは単なるパターンを見る人間の能力を超えるものである。UPRは、自分自身に、そのパターンの中に、綾を見いだし応答することによって、自分自身を綾として取り戻す方向への人間のさらなる発達である。UPRによって、そのパターンはそのままありながらも、綾の広大な綾を見て-愛する。そのパターンは、その中に見られ愛される、その人のあらわれである。私たちはそのパターンの中に綾となった私たちの生を見て-愛する。そのパターンにも関わらず愛するのでも、そのパターンから目をそらすのでもない。

 ロジャーズの理論には逆説がある。UPRは治療的変化の条件であるにも関わらず、UPRではそのクライエントを変えようとしないことを求める。私の理論では、二つの種類の変化を区別する。私たちが人を外から変えようとするとき、私たちは抽象的なパターンを押しつけることでその人をものにしようとしている。私たちがUPRの相互作用の中にいるとき、変化は綾が内側からパターン化生成に動くような形で訪れる。

 繰り返しのパターンにおける空隙にとらわれることも、綾の真の性質の仲にある可能性の一つである。その限界に対抗する代わりに、UPRはその制限の中で内側から動いているその人のあらわれを感じることである。(完全さはそれ自身を不完全さの中にみる。)もしクライエントが自分の問題の中に自分自身を見て-愛することができれば、その問題はもはや、クライエントが自分を単なるパターンと見ているときと同じ問題ではなくなる。

ヘンドリックス博士はフォーカシング研究所長である。以前はイリノイ専門職心理学大学院教員であり、彼女はそこでクライエント中心/体験心理学専攻を創始し教えていた。現在は個人開業心理士であり、講演をし、セラピストのためのワークショップの行い、フォーカシング指向心理療法の大学院修了後研修を運営し、クライエント中心体験的理論と実践についての論文を公刊している。

 


1
クライエントが「私は堂々とした気分の興奮がほしい」と言ったとき、私は「ああ、この人には自己愛人格障害がある」と思った。私は彼女をこの診断パターンの一例として、そして、その精神病理学から言えることをいろいろ、つまり、その原因や症状群等として、定義した。普通私たちに言えるのは、彼女が「本当に」自己愛的で、私には彼女が「内側で」(通常の意味での「内側」)何者であるかが見えているか、あるいは、私が間違って彼女を解釈していている、つまり、私の解釈は間違いで単に投影されたものであり「外側」(通常の意味での「外側」)であるか、のどちらかである。しかし、私の新しい関係においては、違いは、私が見ているパターンが実際にそこにあるかないかではない。違いは、私がその外側に綾を見るか、単に外側しかみないか、なのである。パターンとしてしか見ないものは決して内側の真実ではない。真実でありうるのは綾だけであり、その綾はパターンの中に見える。それゆえ、私流の内側と外側という使い方においては、私は「自己愛人格」パターンの中にまさにその人全体を見ることもできるし、パターンだけを見ることもできる。そして、パターンは、生きていないのだから、人の真実の姿ではありえない。これは「パターン」の通常の意味を変える。私の意味では、内側は決して、単なるパターンと同じものではありえない。あるパターンは内側の表現でもありうるし、内側を見失わせるものでもある。

 ここで、私は、UPRが可能になるのは、まさに、この新しい内側と一種の外側との間の関係においてである。つまり、綾と、あらわれとしてのパターンの間の関係においてである。

 一例をあげよう。

 私の友人が自分を「できそこない」だと思い「恥ずかしい」と感じているとき、私はそのパターンのみを見るかもしれないし、そのパターンの中の彼女を感じるかもしれない。もちろん、彼女自身はパターンしか見ていないのだが。また、もし私が「また、彼女は自分を外側からしか見ない」としか見ないならば、そこでも、私は彼女を単なるパターンにしてしまっており、そのパターンの中の彼女を見ていないし、私はUPRの状態ではない。

2
動物は、抽象化したパターンを作らないし、それゆえ、綾を見て愛するためにUPRをさらに展開させる必要もない。

3
ここにある2枚のメモ書きは、ステップ11と12のためのものであり、多くの変形やひねりや変化を示している。それらは、本来的論理的な関係を通して、用語の内的連関を明らかにする過程で出てくるものである。これは、私のTAEのパートナーが一緒に取り組む中で、とってくれていたノートである。「である」ということばに傍点をふったのは、
二つの用語をつなげる普通の種類の憶測を使うのではなく、ある用語がすでに本来的にある意味でもう一方のものであると主張することによってもたらされる新しいパターンを自分に問いかけることを思い出してもらうためである。

メモ書き1:
綾は、パターンの中に綾を見る(綾を愛する)ものである。
綾は、(パターンの中に)綾を見るものである。
綾は、パターンを作るものであり、そのパターンの中の綾を見て愛することができる。
愛は、綾が綾を見ることである。
綾が綾を見ること(TST)=愛すること(=UPR)

パターンは綾によってのみ作られる。
パターンは、その中に綾を見て愛することができる。

綾は、パターンを作るものであり、綾は、パターンの中に綾を見て愛することができる。
TSTのみがパターンを作りうる(パターンの中に綾を見て愛することができる)
TSTのみがTSTが起こりうるものを作る。

綾はある意味で定義である。
綾はある意味でパターンである。
綾はパターンを作る。
それゆえ、綾は常にどんなパターンにも伴う。
パターンは、綾が作るものであり、綾に伴うものである。
綾は、綾が作り綾に伴うパターンの中に綾を見て愛することができるものである。パターンは、綾を見て愛しうるものとともに作られ、伴うものである。

綾だけがパターンを作る。
綾はどんなパターンにも伴う。なぜなら綾がそのパターンを作るのだから。
別の綾が綾を見て愛することができ、その綾は別の綾を見て愛することができる。
綾は綾を見て愛することができる。
それゆえ、
「綾はある意味パターンである」は次のようになる。
綾は、綾が作りだしたパターンの中に綾を見て愛することができる。
パターンは、綾が作り出しうるものであり、その中に綾を見て愛することができる。

綾は、それが作ったものを見ることができる。
そしてそれゆえ、常にそこには、単にそれが作るものばかりでなく、綾があり、
そしてそれゆえ、綾は、綾が作るものの中に綾を見ることができる。

あるパターンは、綾(人間)が作るものであり、そしてその中に綾を見ることができるものである(お互いに、そして、自分自身の中に)。

メモ書き2:
人々(綾)だけがパターンを作り見ることができる。
人々は綾を単なるパターンとして見ることもできる。
しかし、人々は、綾がそれ自身をパターンの中の綾として見るというUPRの状態にいることもできる。
UPRはパターンと綾の間の解離を克服することである。UPRではパターンの中の綾をぬきにして、パターンだけを見ることはない。
パターンと綾の両方が常にまだそこにある。

なぜ、綾はパターンの中の綾自身を常に愛するだけでいられないのだろうか。
どのようにパターンは単なるパターンになってしまうのか。
パターンは綾を捨ててしまう。
この解離をUPRは克服する。
UPRは奇妙な克服の仕方である。というのはその解離はまだそこにあるからである。

外側と内側は異なる機能の仕方をしている。
パターンの中に綾があって、それゆえ綾がその中に見え、捨てられないでいるような種類のパターンはどのようなものだろうか。
パターンは見えを通しての綾である。
その中に綾を見ることができない生き物はない。
生き物のパターンは綾を含まないことは決してない。

パターンの中には常に綾があるが、その綾は見逃されることがある。

綾(A)とパターン(B)と見る(C)の間の相互関係:
パターンは、綾がその中に見えるものである。(BAC)
綾は、パターンの中にそれ自身を見ることができる。(ACB*)
見ることは、綾がどのようにパターンの中にいるかということである。(CAB)
       *訳注:ABCの順序は英語の語順による。日本語ではABCとなる。

綾はパターンを見ている綾である。
本来的なつながりは綾を見ることである。
見ることは、綾を見ることであり外側から見ることである。

(生き物における)パターンは、外側から綾が綾自身を見ることである。
それゆえ、パターンは、外側から内側にどんな綾があるかを見たものである。
外側から見られることが、綾をパターンの中にあらしめる。

4.
理論が単に形式的であると、そのパターンには内側がないが、TAE理論では、どのステップでもフェルトセンスが進展しており、その関連は形式的でもあり体験的でもある。私の理論も内側から動いており、内側からの動きについて語るために使われる。用語からは論理的な推測ができるが、それは同時にフェルトセンスを進展させるものでもある。

5.
私のUPRについての理論は、人や社会の諸側面など他の話題についても再構成を促す。なぜならば、UPRは本来的に他のすべてと関連しているからである。暗に他のものを変えないで、体験的理論を開発することはできない。

6.
私の理論を通して、心理学的困難を見てみることもできるし、それがどのように「単なるパターン」であるかと問うこともできる。ステップ2の、単なるパターンが細胞成長を止めるという私の意味を再考しよう。単なるパターンは、大人の自己知覚であるばかりではなく、無意識のからだのリズム、物理的中断、細胞的過程を止めて無意識にそれに続く生を拘束する相互作用形態にもなりうる。つまり、「こういう風にすべきだったのに」という抑鬱的な自己攻撃的自責感や、意識的であれ無意識的であれ、自分が基本的に欠陥があり、だめ人間であるという恥ずかしい自己評価になりうる。強迫的な思考は、反復的な単なるパターンからなっている。単なるパターンは、確かに感じられる。強烈な不安が、自分を単なるパターンと見ることからもたらされる。つまり「私はこれほど機能不全なのだがら、人生をどうにかやっていくことなどできやしない。」というわけである。私たちのエネルギーは元気を失わせるような推測、それは言語的なものではないかもしれないが、によって奪われていく。トラウマ的な出来事などの問題が難しいのは、単にその内容のせいではなく、それらが体験の空隙だからである。それらの出来事は、その出来事において綾が綾に関係するものではない。処理されていないトラウマ的出来事や繰り返しのパターンは、からだの「内側に」あるとはいえ、単なる外側なのである。