日本 > 交差と浸ること
要約:
ジェンドリンは、現象学と論理的記述の間の橋渡しとして体験的諸概念を提唱する。彼の方法は自然な理解と論理的記述の双方を増大させることを狙いつつ、その間を行き来する。これらの諸概念が主観の側で求めるのは、感じられた意味あるいは暗黙の意味への直接参照である。こちら側と論理の側とには、いかなる等値関係も無い。むしろ、論理的「説明」の中で、この暗黙のものが推進され、両者の関係が多くの機能によって示されるのである。この主観的なものは論理の内的対応物ではない。それは言語の中で特定の機能を果たす。その諸機能がいったん働き出すと、それらは記述定式化される側において様々な展開を導くのである。
これを示すために、ジェンドリンはレイコフとジョンソンの比喩の理論を修正し、それを言語使用一般の理論へと拡張する。彼は、比喩が二つの状況に共通の型ないしイメージであることを否定する。状況は一つ、比喩的状況しかないのである。この原初的な状況は実際には一群をなす多くの使用例(ヴィトゲンシュタイン的意味における)である。あらゆる発話におけるように、語が意味を持つのは、その使用群が文の中の実際の箇所における実際の状況と「交差する」ときだけである。主観の側で比喩が意味するのはこの交差である。この交差から、新しい類似と差異とが次々と生み出されるのである。ジェンドリンは、この交差の機能と特徴を研究する方法を提案する。
1:序論
日常的な話から始めよう。次のように想像してもらいたい。あなたは妙にむずがゆい感じを感じる。それから、あなたは気付く;あぁ、お前は何か忘れているよ…今は月曜の午前中だ…、何だったっけ?…あなたには未だそれが何だか分からない。だけど、それはそこに、このむずがゆいからだの緊張感の中に、有る。あなたは今日それまで自分がしたことを皆思い出してみる。しかし、違う、どれも「それ」ではない。しかし、あなたはそのどれもがあなたが忘れている事ではないと、どうして分かるのだろうか?そう、そのむずがゆい感じが知っているのだ。この感じはどいてくれない。あなたはそのむずがゆい感じの中に入って行く。そして、突然あなたは思い出す... そうだ、あなたを昼食に待っている人がいたんだ。ああ、だけど今からでは、もう遅すぎる!それであなたの体は熱くなるかもしれない。でもあのむずがゆい感じは?あの独特の感じはもう緩んでいる。その緩みは、あなたが思い出したことが分かった緩みなのだ。思い出したのは経験された事であり、「思い出した」という用語は経験への直接参照の中で用いられるのである。
もちろん、思い出した事の外的指標例えば、お詫びの電話等は有るだろう。心理の実験では、思い出す事は「外的に行われる再生産」と規定される。直接経験に参照する為の用語は、他の仕方で定義される用語と大いに関連してはいる。しかしこの二種類の用語はそっくり平行関係に有るわけではない。もしそうであれば我々にはこの二種類が必要とはならないだろう。
もう一つの例:未完の詩を作っている最中の詩人を想像してみよう。どう書き進めようか?既に出来上がった行は何かを求めている。しかし何を?
詩人は出来ている行を何度も読み返す。そしてこれらの行が何を必要としているか(....を欲して、を求めて、を含んでいるか)を感じてみる。詩人の手が宙に円を描く。この身振りがそれを物語る。多くの良い詩句が浮かぶ。それらはそれを言おうとする、が、言えない。空白の方がより正確なのだ。中には良さそうなのも有るが、詩人はそれらを却下する。
その....には言葉が無いように思われる。しかし、そうではない。それはその言葉を知っているのだ。なぜなら、それはやって来る詩句を理解しているし、かつ却下するのだから。それゆえ、それは前言語的ではない。そうではなくて、言われるべき言葉が何であるか、そして浮かんで来た詩句はそれではないことを、それは知っているのだ。丁度さっきの例のあのむずがゆい感じが忘れられていた事を知っていたように。しかも、それはその詩人の中では新しい事、ひょっとしたら、世界史の中での新しい事であるかもしれないのだ。
さて、私は読者である皆さんの殆どを知らないけれど、あなた方の秘密の一つを確かに知っている。そう、あなたは詩を書いたことがありますね。そこで、尋ねますが、例の感じは、そんな風ではないですか?つまり、この....は直接、参照され(感じられ、経験され、知覚され、所有され...)ねばならない。それゆえ、この空所に私達がどんな語を使おうと、その語も私達の直接参照を必要としているのである。
この空所は新しいものをもたらす。この〔第一の〕機能は言語的形式のみからは生じない。むしろ、二つの言語的形式の間で機能する。この空所は既に書かれた行ではなく、それらを読むことから生じる感じられた意味、感覚である、そしてそれが、次の行を導くために必要な機能を果たすのである。第二の機能:次の行が思い浮かんだときに、なおその空所が消えないなら、その行は却下される。第三の機能として、その空所はその行がついに言葉になるその時(その時、行き止まりの感じが消える)を教えてくれる。
主観の側〔空所の感じられた意味感覚〕と客観の側〔言語的形式〕との間には、表現とか類似とかの関係は存在しない。出て来る言葉は空所の写しではない。一群の語がいったいどうして空所の表現でありえようか?むしろ、その暗黙のものは、それを表現することによって変化するのだ。しかしそれは単なる変化ではない。言語化はそれまで....であったあの緊張を和らげるのだ。しかし、空白であったものはただ消えたり、代わったりするのではない。むしろあの緊張は出て来た言葉によって推進されるcarried forwardのだ。 もちろんその新しい言葉は予めその空所に有った訳ではない。それらは元々そこには全く存在しなかったのだ。言葉が生じたとき、それらは元の空所以上のものに成る。しかし全然別物というわけでもない。今、この関係を表現する用語として私は「推進carrying forward」という言葉を用いた。
推進というこの関係が等しさではないことを、私は強調したい。フェルトセンスは言語の主観の側の相関者ではない。主観と客観の双方は非常に異なる働きをするのである。
この不等値性、この推進関係がなぜ重要であるか、について言及しておこう:もし主観の側と形成された側とが等しいなら、この主観の側は余計なものになるだろう。ひょっとしたら、私達は感傷的な理由で、つまりは我々が主観的存在であるからという理由だけで、主観的なものに興味を持つのだろうか?しかし、もしそうであれば、主観の側は客観の側が未だ果たしていない機能は持てないということになるだろう。
既に実際、我々はこれまでこの主観の側―直接参照―が多くの機能を果たすのを観てきた:
我々に何かが忘れられている事を、それが知らせてくれるのを観た。そこに有った物はこれではないかという提案を、それが却下するのを観た。更に、我々が実際に思い出したという事を、それは教えてくれた。既に書かれた行がその時までに書かれていたより以上の事を言うことを、それが可能にしてくれるのを観た。一見申し分の無い表現をそれが却下するのを観た。そして、ついには、それが或る語句によって推進されるのも観た.そのような推進は新しい事を語ることが出来るのを我々は観た。本論の以下の部分で、私はそのような特別の機能を更に紹介しよう。
この主観の側について語るための用語も私は既に使用してきた。例えば、フェルトセンスは直接参照体direct referentであるとか、その暗黙の意味はその展開explicationによってコピーされないし、それと等値でもないとか、むしろ展開によってそれは推進されるとか、私は述べた。(これらの用語については、ジェンドリン、1970、1991を見よ)
これらの架け橋的用語はもちろん型ではあるが、それらは主観の側面も併せ持つ。認知において主観の側が演じる特殊な機能について皆さんに考えてもらうためには、こうした用語は、あなたが主観の側へ直接参照することを当てにしているのである。我々は社会科学の全てと認知科学とにおいて、このような用語を必要としている。人工知能の分野に関して、このような用語が必要とされている例を挙げてみよう。
私はイデオロギー的な問題には関心が無い。コンピューターが人間の知能にとって変わる未来を我々が予想すべきであるかどうか、それが良い事であるかどうか、それが不可能である事が明らかになるかどうか、そして、それが悪い事であるかどうか、そういう問題には、私は関心が無い.私に関心が有るのは、我々の自然な理解と論理的領域の間の境界面である。この境界面を扱えるようになるためには、我々はこの両面について考える事が出来るように成らねばならない.
もちろん、この種の概念はこの両側で異なるだろう。論理的な側では、それらは一見簡潔な型、諸型の重複扇、例えば2種選択、アルゴリズム、空間的図表、なんと言っても良いが、それらが繰り返される時には「同一」である様に思われる物だろう。他の側はこれら全てを、少なくとも暗黙裡には、包含する−その際それらはそれだけで動くとは思われない、むしろそれらを使用する際に含まれて来る物に即して、つまりその都度新たに動く様に思われる。その結果、それらは常に、論理的に与えられ得るよりもっと多く語り、もっと多く働く。
この両側に関する私の比喩はここで、既に変わっている:つまり自然の側には、論理形式がその中でかつそれと共に機能するという事も含まれるので、両側の区別は空間における二つの物の間の分割の様には行かないのである。自然の側の諸概念は両側の架け橋-概念である。それは境界面に関する概念である。私が言う両側は、決して互いに他の写しではない。もしそれが論理的に形成され、外的に形成され得るものの単なる主観的写しであるならば、我々はこの自然の側を必要とはしないだろう。
ヴィトゲンシュタインの思考‐実験は、我々が内部の写しを必要としないことを示してくれた。最近の或る類似する思考‐実験において、読者は隠れたコンピューターを想像することを求められていた。その際、コンピューターの反応はどんな状況でも英語を知っている限り、全ての質問者を満足させることになっていた。この場合、それが主観的な知を欠いている事は、形而上学的な謎になるか、あるいは単にどうでも良いことに思われるだろう。しかしこれが妥当するのは、既に論理形式に入力された事で事足れりとする場合のみである。そうではなくて、主観をより多く形にするためには、我々が常に主観あるいは自然の側に浸らねばならない−それが真相なのであるが−としたら、あらゆる理解が既に論理的用語の中に有ると仮定するのは、妥当な考えとは言えないのである。それでは我々の浸りは謎と化してしまう。
我々の主観の側をどんどん形式化するあの浸りの過程を研究してはどうか?それを研究対象から除外する必要はどこにも無いのだから。
今のところ、浸りは概ね私的な事柄であるかのように放置されている。それはどんな風にやるのかと、人に尋ねてみたら、その人は「それは夕立のように私に降りかかったのです」と答えるかもしれない。しかし、これを名づけて少なくとも、浸りと言う用語だけは残しておこう。更に他の用語を、この浸りに含まれる事に対応する更に幾つかの用語を作り出せれば、事態はもっと良くなるだろう。
例えば、最近チェスをするコンピューターは大変改善された。どのようにして人はこれを改善したのだろうか?ある時点で、チェスの名人達になぜ彼らがその戦略を採ったのかを尋ねてみたとする。名人はそれを選んだ自分のフェルトセンスに浸ってみる。そして暗黙裡に協同的に機能する多くの理由を、どんな動きを取るべきかを知っている一つのフェルトセンスとして見出すだろう。これらの予め‐分離された多くの要素の幾つかを彼らは展開することが出来るだろう。そしてその一つは彼らがその戦略を選んだ理由であるだろう―というのも、それはそのゲームの初めの方に有り、他の戦略はゲームのもっと後の方に有ったのだから。それはその時プログラムに組み込まれることが出来ただろう。それは定式化されているのだから、今や我々はそれが見出された順序を逆転できる。ここまで来ると我々は、チェスの名人はまさにコンピューターがする事と同じ事をすると主張することが出来る。この特定の面に関して言えば、主観の側に出来るのは表層的なこと、単に形而上学的なことだということが出来よう。しかし我々はこれらの面に関してもっと多くの事を知りたい。最終的に「全ての」面という様な事が有るのかどうかの議論はさしあたり棚上げにして置いて良い。
この議論は、人工頭脳に限らず、社会科学全般に適用可能である。社会科学は人間行動を定式化することを求める。様々な種類の概念は人工頭脳における概念には収まりきらないが、社会科学はある種の論理形式を求めるのである。ここで私が棚上げしたい議論は人間に関する科学が可能かどうか、である。この問いに可能だという人は、今定式化できない事は、何であれ人間の主観の多くを含めて否定しなければならないと考えるだろう。逆に人間の主観を守ろうとする人は不可能だと答えざるをえない、つまり結局人間に関する科学は有り得ないと考える。一方で、我々の主張する科学は既にかなり強力なのであるが、しかし、より良い定式化が更にもっともっとなされる必要がある。
この宇宙はなんらかの仕方で確かに人間の主観を含んでいると我々は言えないだろうか?−−我々はここに居て、自立的に作用すると思われる論理的用語で考えるだけでなく、分離可能な論理形式に還元できない(あるいは未だしていない)事を考えるための用語を発達させているのだから。
しかしイデオロギー的分裂は深く進行している:両側が相手の言い分に傷つけられている。一方は論理的に表現出来ない事に関するいかなる話にもひどくいらいらする。しかし他方は、もし私が予め少しでも条件を付け加えれば、敵対心を顕にするだろう、そして未だ論理的に表現出来ない事について話始めるだろう。しかし、我々が境界面について語ることが出来るようになれば、双方とももっと改善されるだろう。
コンピューターが人間に取って代わるかどうか、という問題は、形而上学的である。そういう問題ではなくて、コンピューター+人間から成るシステムの研究なら取り組むことが出来る。結局これが唯一の現実的な状況なのである。ここでスターナーの原理(1998)を引用しておこう:即ち「一方で、或るプログラムのための諸観念を、コンピューターに未だ良く理解できない抽象的「擬」言語によって表現することが出来て、そして他方で、コンピューターに特別の結論を作らない一群のプログラム言語を構成することが確かに可能である時、有益な行動を行うコンピューターアプリケーションと我々が称する機能統合をこれら二つの総合は産出するのである。」
コンピューター+人から成るシステムが未だほとんど研究されていないということは、いたる所で見ることができる。今のところ、コンピューターの設計における技術のみが脚光を浴びている。コンピューターと人間の境界面はほとんど自覚的には扱われていない。例えば、単純なワープロキーボード上では、最も頻繁に使用される幾つかのキーが小さくて、より稀にしか使われない他のキーの間に埋もれている。明らかに、コンピューター+人を含むシステムに関する研究は行われていないのである。人が例えば自然言語を理解するコンピューターを作ろうとするとき、この欠如はいっそう大きい。現在このことが考えられているとしたら、コンピューターが人間に取って代わる可能性に関してのみである。この観点からは、コンピューター/人システムは問題にならないし、研究され得ない。
コンピューターのみの残余‐システムしか研究されていないので、実際のコンピューター‐システムにおける人間の働きに関する研究はこれまで無かった。コンピューター‐人システムの文脈における人間を我々は研究してこなかった。それ故、我々は自然言語、自然思考の多くの機能に対する極めて拡張的なあるいは極めて関連性のある用語をこれまで持たずに来たのである。
自然言語とコンピューターとの間の溝は、認知心理学と認知科学全般の中にも見られる:それは一方の自然言語および思考、他方の数学的論理との間の溝でもある。例えば、認知科学者がそれを用いて彼らの論理的モデルに思い至る実際の人間的思考はその論理的モデルのみの場合より遥かに豊かで、またそれとは異なっている。しかし彼らはこの事実に思いを至さない。何故なら、彼らは、自分自身の進行中の思考機能に問い合わせないし、彼らのモデルを彼らの実際の思考に応用しようとしないからである。自身の経験された思考に直接参照することは彼らには非科学的に思われるのである。
もし我々の実際の思考過程が参照可能ならば、思考過程に関する我々の現在の論理モデルのどこに欠陥が有るかに我々は気づくだろう。そうすれば、どんな機能が論理的に定式化され得ないか明らかになるだろう。され得ないと言うべきか、あるいは未だされ得ないと言うべきかは、我々が夫々のケースに出会い、指摘し、ゆっくりと定義するするような機能の各自のケースにおける私の経験的な問いに成るのである。私は本論の残りでその幾らかを実践することにしよう。
私が提案する「架け橋-概念」は、一見それだけで働きしたがって機械に成り得る様に思われるそのような論理形式をますます多く産出する助けになるだろう。しかしこうした概念はまた我々の自然的理解に関する理解を増大させる働きもするのである。例えば、今、我々はチェス‐名人達が考えるさらにもう一つの方法、以前暗黙裡に機能した方法を理解することが出来る。もちろんそれが未だ暗黙裡であった間には、たいていのチェス−名人がそれを聞き、意識的に考えるであろう今後とでは、それはかなり異なる仕方で機能したのである。架け橋−概念として、私が用いる「展開」や「暗黙裡」という概念は我々をこの違いに導くことが出来る.展開がこの違いをここで作るのである。これらの用語によって、我々は我々の自然的面−論理的面より豊富な−を確保することが出来るのである。
さて我々はあの側に浸る、そしてそれが作る変化を感じる、つまり展開する。それからこの初期−後期戦略の差異をはっきりと知ったチェス-名人達はもっと頻回にそれを使うだろうことを、我々は定式化し、予測する。展開された事はそれ以前にそれと協働していた他の諸側面から分離されることを語る概念を我々は作ることも出来る。それ以前はそれは、それと交差していたそれらの他の諸側面全てによって暗黙裡に統治されていたのである。この交差された統治が無ければ、それは名人のゲームを少なくとも最初は戸惑わせるだろう。スポーツにおいてと同様、人はある腕の使い方を言葉で教えられている間は戸惑う。そのような戸惑わされるゲームを更に浸しで吟味することによって、名人達はまたこれらの他の暗黙裡の局面の幾つかを発見し、それを我々に教えることも出来るだろう。
スポーツにおけると同様、暫くすると、この暗黙裡の交差は再‐構築される―しかもより高度な実践レベルで―、これに対応する用語と研究をも我々は望んでいる。結局、ますます増大する展開が人類の歴史なのだ:先ず、それは我々を戸惑わせる、そしてそれからより高度なレベルでの再-構築された暗黙裡の交差が成立する。浸しを通して、先ず我々は架け橋-概念を創る、それらから我々は論理形成と経験的予測へと至るのである。
心理療法においても、経験(体験過程)は常套語句で表現され得るより以上に正確である。そのような体験過程に問い合わせ、それを表現することは、より深い治療的変化を導くのである。(脚注1) 展開はそれを変える。そして更新された浸しと更なる変化の段階を次々と導き、ますます多くの新しい経験を導くのである。
心理療法家の中には、患者が或る診断に該当すると思うと、その患者自体を忘れて、診断名からその患者を診ようとする者がある。その様な臨床家は無意識のうちに、患者を生じ得る変化から遠ざけているのである。この陥穽は良く知られているので、こうしたことが生じないように、いかなる診断名も用いない臨床家もいる。しかし、もし概念的類推の一面性を自覚していれば、もしその患者に常に繰り返し、新たに概念を適用し直すのであれば、―あるいは我々の言葉で言って、自然の側に浸しを継続するのであれば―、概念は見出されるかもしれない事に対して、その人を敏感にしてくれるだろう。
未だそこに通常言語として成立していない経験から人が語ったり、考えたりすることが出来るのを知って、多くの人が最初は驚く。或るクライエントはこう語った:「僕らが感じる事が何で有れ、それは既存の三つか四つの事の一つに過ぎない、と僕らは教わって来たんです。」彼は興奮して続けた:「もしそうではない考える方法が有るのなら、それを知りたいですよ!」 ここで彼は私が提唱する概念‐形成過程としての「浸し」を求めているのである。
「浸し」はどのように始まるのだろうか。最初、それは人の注意を、新しい明瞭さへとではなく、むしろはっきりしないもの、ぼんやりした体の状態―フェルトセンスへと向かわせる。それはまるで何か私的な事、単なる内部の感情の質のように思われるかもしれない。しかしこの主観の側は私的なものではない。展開が生じると、フェルトセンスが世界に関するあらゆる事柄を含むことをそれは示すのである。
このことを確かめるために、ちょっと立ち止まって、浸しをやってみよう。あなたの注意を内側に、直接、体を使って、あなたの体の真ん中で感じられる快あるいは不快に向けて御覧なさい。私がこれまで話してきた事(あなたの他の状況ではなくて)に関して訊ねたい。私の話について、あなたの体の真ん中辺、その辺で、何が感じられますか、私が今言っている事について?それについて、それは全く中立的で楽な感じでしょうか?それとも、何か興奮とか、あるいは不快感とかが有りますか?ひょっとしたら、私が言っている事には、全然正しくないように思われる感じがはっきり有るのでは?そこの体-感が何であれ、その中には暗黙の多くの論議が有るのではないでしょうか?あなたが暫く落ち着いていられたら、それをあなたは展開できるのではないですか?
フェルトセンスは暗黙裡に論議―世界に関する―を含むことが出来る。それは単に私的であるのではない、なぜなら我々はこの世界に住む―精妙に、身体的に―のだから。そのような一つのフェルトセンスの中では、ものすごく多くの要素が交差する。その中の幾つかは予め分離されているが、他の多くは未だ分離されていない。あなたのフェルトセンスは私が言った事であなたが聞いたその全てを、暗黙裡に含む。同時にそれはこの話題に関してあなたが何年もの間考え、読んできた事の多くも、それから多くのその関連事項に関してあなたがして来た事の多くも含んでいる。更にまた、その一つひとつが他の要素を変え、統治し、関係付ける、全ての交差の働きをも含んでいる。そしてまた、そのようなフェルトセンスはこの世界に関する新しい事へ繋がる可能性が有るのである。
だから、この主観的、身体的な側が私的なものでないのは明らかである。否、この.....は単に公的なだけでなく、言語と相互協働的であるのである。人のフェルトセンスはその人のからだとその人の状況との相互協働なのである。人間のからだはその中に暗黙裡に状況と言語を持っている。我々のからだは我々の更なる生の次の一歩を含んでいる。一つの働きがこの暗黙の更なる生を展開させ、それを推進させる。言葉と論理における展開は、その様に更に運動する生の特別の場合である。だから、もちろん、フェルトセンスへの浸しは我々が次にしたいこと、言いたい事を齎してくれるのである。
それ故、フェルトセンスへの浸し、あるいはフォーカシング(ジェンドリン 1970,1981,1991)は文章表現の教え(エルボウ1988)を含めて、多くの分野で重要視されるようになったのである。この事は言語に関して次の事を我々に教えてくれる。つまり、人が文章を書くとき、自分が言いたい事のフェルトセンスにフォーカスすると、人はもっと効果的に表現することが出来る。そのような浸しの結果として、人は自分が言いたい事をより正確に書くことが出来る。それを再読し、自分が書いたものに関するフェルトセンスに再び浸ると、更により正確な表現に達することが出来るだろう。
我々が言葉を話し、文章を書くとき、その言葉はどのように現れるのだろう?我々がするのは、ただそれが現れるのを待つことだけである。我々がまさに今言おうとしている事を感じていると、たいていは、適切に思われる言葉が現れる。もしそれが現れない場合は、ちょっと待って、もう一度試れば良い。言葉は、睡眠や、食欲や、オーガズムや、愛や、涙等の様に、この種の現れ方をするのである。我々はこれらを強制は出来ない。もし現れないなら、我々に出来るのは待つことだけである。からだは言語に関して、ある種の機能、例えば言葉の現われを実践することが出来るのである。
しかし、言葉と我々が言いたい事の間には分裂は無い。言葉は我々のフェルトセンスからも現れるし、浸すことがそれを生じさせるし、その際、ステップ毎に正確ではっきりした言葉になるのである。
私はこれまで、主観の側、フェルトセンス、直接参照体、暗黙裡、展開、推進といった架け橋‐用語を提供してきた。さっきも、浸し、ステップ、それからチェスの例で挙げた交差による相互統治の消失と再構築をこれに加えた。しかし主観の側は形而上学的ではない。逆に、これらの境界面の用語は或る機能を(によって自らを)規定するのである。この用語「交差」の上に、そのような諸機能を更に明らかにするような拡張を試みてみよう。
Ⅱ
レイコフ(1987)とジョンソン(1987)は新しい著作の中で、単なる型や論理形式ではない事に言及している。ジョンソンは、「具体的で動的で、身体化された想像的な図式」について述べる。これは確かに単なる論理的型やイメージや図式ではない。レイコフは「非‐命題的」な事柄に言及する。両者はこれまでもあの境界面に定位して、優れて戦略的な態度を維持してきた。彼等は、この境界面に身体化される性質があることを主張出来るし、また私が「同一で有り得る型」と呼ぶものを集め、定式化することも出来る。
しかし、もし次の事を明確にするならば、我々は更に先に進むことが出来る。つまり、私が言いたいのは、身体化される非-命題的表現は共通性や群や構造や映像図式といったものと混同されてはならない(もっとも我々は確かにそれらを定式化したいのではあるが)ということである。この身体化される非‐命題性は別な仕方で機能する、つまり共通性や図像図式とは異なった機能の仕方をするということを私は示したい。そして様々に異なるそれらの機能についても我々は研究したい。
ヴィトゲンシュタインは次のことを明らかにした:語の意味は語が使用されるされ方次第である。また語は様々な状況の中で使用される。彼は次のようにも言った:同一の語が多くの状況の中で使用されるし、夫々の状況において異なる意味を示す、と。彼はそのような状況の、しかもまったく異なった例を三つ四つではなく、三十四も示した。そのどれもが、最初その語を定義する様に思われた型に一致しなかった。
語の使用‐諸状況は単一の概念や型や像や論理形式を共有しない、という事を彼は明らかにした。明瞭に分離できる下位-種も存在しない。或る語の複数の使用が共有するのは「族的類似のみ」であると彼は言った。その語の意味は、我々が自転車-の-乗り方-を-知っている様に、我々がその語-の-使い方-を-知っている、その事である。
ヴィトゲンシュタインはそれから先へは行かなかった。彼は自分が行った所まで人々が行くと確信することさえ出来なかった。彼の仕事はその後の三十年の努力、つまり語の使用を結局、たとえ共通形式によってでなくとも、少なくとも状況ルールによって定義しようという努力に繋がった。しかし、この努力は失敗し、全般的な失意に終わった。今日支配的なのは、形式も規則もうまく行かないのだから言葉には秩序は存在しない、という考えである。
しかし語が使用‐群によって働く在り方を積極的な事実と認めて、そこを研究してみてはどうだろう?言語が一定の形式を超えて働く在り方を理解してそれを使用してみてはどうだろう?形式と形式が使用において超え出られるその在り方の双方を主題的に考察してみてはどうだろう?それはこれまで不可能だと思われていた。というのも、形式のみが秩序である、「秩序」とはまさに形式のことである、と考えられていたからである.そう前提すれば、形式を超え出ることは我々が言ったり、考えたり、理解したりしようとするいかなる事をも掘り崩す事になるに違いない。この考えから近年のニヒリズム、あるいは相対主義が生じて来たのである。
この形式以上のものの中で敢えて考えてみたらどうだろう?実際私達はいつもそうしているのだ。ただその説明が途方も無く難しく思われて来たに過ぎないのだ。そう考えるのではなくて、これを肯定的な有益な事実として認めたらどうだろう。
或る語の使用-群について考えたり、語ったりすることはできるだろうか?勿論出来る。どんな語であれ、その語を単独で言うときはいつでも我々はそれを考えているのである。例えば「使用する」という語は、それだけ取り上げれば何を意味するだろう?我々は使用の、日々の使用の、また有益性のフェルトセンスを得る。そして誰かが、我々をただ使用するだけならば、怒りのフェルトセンスを得るだろう。これら複数の意味が一つのケースにおいて全て用いられることは無いだろう。しかし、それら複数の意味は皆この語-の使用法-を知っているというこの感覚のうちに暗在している。それでも、我々はこの語を極めて正確に用いることが出来る。この正確さはこれまで説明されてこなかった。もし或る語がそれだけで多くの状況から成るこの一群を意味するなら、一つの状況の中でその語が意味するものだけを意味するように成るのはどのようにしてであろうか?それは確かにその使用-群のすべてを意味することは出来ないだろう。それは常に使用されることによってより正確にその意味を意味しているのである。その語はその使用-群の全てを連れてくるが、ひとつの状況へと連れてくるのである。その結果、その一群と単一の状況の双方が共にその語の意味を決定するのである。
或る語が連れてくる種々の使用と、それが実際使用されている特定の状況との間には(お馴染みの)関係が有るということは明らかである。使用‐群はそれだけではその語が言う意味を決定しない。現在の状況がその語の意味するところを単純に変えることが出来るわけではない。むしろ両者が参加して、その語がここで言うことを決定する。全使用‐群がその状況と交差するのである。そしてそれによって、その語はそれがまさに作る意味を作るのである。我々は使用群のこの複雑な働きをもっと綿密に見ることが出来る:多くの使用はそれらが相互に隣り合う物のように唯互いに切り離されているのではない。使用-群は実際の使用から成るのであり、その夫々が既にその全群と交差しているのである。使用-群、つまり、我々が-ある語の使い方-を-知っている事は既にして一つの交差であり、実際の使用は一つの新しい交差である。さもなければ、我々はその語がここで言う意味を理解できないだろう。
だから、我々には分かるのだが、これらの多くの異なる状況は、我々のフェルトセンスが或る語と馴染む中で全て交差しているのである。これらの多くの異なる状況の交差は、その語の-使用法を-我々が‐知っているというフェルトセンスによって果たされる言語機能なのである。
しかし、ここには第二の機能も含まれている:人間の状況は常に二番目の諸状況の一部でもある:例の少女の状況は、今ここでのストーリーのみならず、もっと拡張されたストーリー、つまり、彼女のこれまでの育ち、これから彼女の家族が言うであろう事、またその後に起こるであろう事も含んでいるのだ。我々がここで語る事の意味は、それが他の状況を変えるという事をも含んでいる。これらの他の状況は全て、現在有る状況の中に共に暗在する。これが第二の機能である;つまり我々は行為し、話す、そしてそれは暗在する多くの状況から成るストーリーの全体を推進する。
これが言語の二種の異なる機能であり、それは諸状況を暗在的に二通りに組み分ける;つまり、この一つの状況の意味を作る他の諸状況は別の組み分けであり、その同じ語が使用されるであろう当の諸状況ではない。
或る語が使用され得る広範な諸状況は我々が-その語の-使い方を-知っている事のうちで全て交差する。第二に、人間の状況は次のような状況である:つまりその状況が暗在的にその中で交差する多くのそれ以前の、それ以降の、そして関連するその他の諸状況を含むが故にのみ、そこに有る様な状況である。そしてこの諸状況には更に第三の機能も有る:つまり、これら二つの交差は交差して、この様な状況の中で、その語の意味を作る。
或る語が或る状況の中で働く、お馴染みのこの有り方に含まれるのはこれら三つの機能だけではない。四番目の機能も含まれるのである:つまり、この状況の特定性に加えて、我々が居る実際の状況の感覚があるに違いない。どの語にも、多くの状況が暗在するが、われわれは常にどの状況が今在るのか、を知っている。語自体は一般的であるが、我々はその一般性においてのみならず、常にその特定の状況においてもまた、語り、読むのである。これが言語の第四の機能であり、それは一般的型によってではなく、主観の側において行われるのである。しかし結局、使用される語は一般的である。「あなた」「今」「ここで」といった語でさえ、あなたの今のフェルトセンスに直接照合することによってのみ、この状況を意味するのである。共通の形としてはその語はどこでも言われうる。それが特定の状況に入ってくる事は常に予め知られている。そしてそれはそこにどの語が来るか、その語の意味が何かを決定する理由の一部を成すのである。この「直証的な機能」(ガルブレイス 1989)はまた、語が状況の中に入ってくる周知の有り方の一部を成している。
この我々に馴染みの関係が研究されてきたのは、私の知る限り、「比喩」と呼ばれる特殊な場合においてのみであった。比喩においては、語はその通常の使用‐群には未だ属さない状況において用いられるのである。その場合、その語の通常の使用と現在の状況との間に交差が有ることがいまや知られた。
古典的には、比喩は二つの独立した状況間の交差であると言われている。この理論に関する私の第一の修正は、状況は単一の状況、新しい状況しかない、ということである。いわゆる古い状況とは実際は単一の状況ではなくて、全使用-群である。その語が、実に多くのその古い使用の全てをこの新しい状況にもたらすのである。交差するのは二つの状況ではなく一つの使用‐群と一つの状況である。
この事は、唯比喩においてだけでなく、全ての語の通常の使用においても言える。その語が現に働いているように働くためには、その語の広範な使用-群は単一の状況と交差しなければならない。この事実はこれまで十分に顧慮されてこなかった。
これらの諸機能を研究しよう。例えば、状況を特定しないで「薔薇」という語が何を意味するか、人に聞いてみる、としよう。人は多分、花の赤い色や、形や、花びらについて語るだろう。中には庭に咲く薔薇、壁紙の薔薇の模様、12本の長い茎の薔薇の花束などを想起する人も居るだろう。
さて、野に立つ少女についての一編の詩の中から次のような数行を人に読んで聞かせたとしよう。その詩は、少女は「薔薇である」と詠っている。この状況と交差して、野の上に伸びる一本の薔薇が想像される。さてここで、少女と薔薇が共有する共通点は何だろう。(脚注2)
人は何と言うだろう?少女は薔薇の様に、活き活きしている、新鮮で、若やぎ、柔らかで、見たところ手折られ易い、両者とも有限の時を持ち、そっと触れられねばならない、時には反撃し、人を傷つける、人(男)はひっかかれただけだが、少女は死んでしまうかもしれない、男女の差、……、これらの全て、もっと多くの事、挙げればきりが無いだろう。
私の二番目の修正は、共通性が比喩を決定するのではない、ということである。むしろ、その比喩から、それが意味を成した後に初めて、新たな共通性が引き出されるのである。
私の三番目の修正は、単一の型が共有されるのではない、ということである。一つの比喩は単一の型ではなく、無限の共通性を引き出すのである。
否、薔薇と少女の交差は型ではない、我々の実感によれば、少女も薔薇も型ではない。その少女の状況は今ここの状況だけではない。人間の状況は暗黙のうちに他の諸状況を含んでいる、つまり彼女にこれから何が起こるか、彼女の生活がどう変わるかもここで生じる事の意味なのだ。
どの語もそうであるが、「薔薇」という語も多くの可能な使用‐状況の交差をもたらす。しかし「薔薇」が使用され得る他の状況は、その少女の他の状況ではない。むしろこれらの二つの交差を交差させることから、その語がここで作る意味が生じるのである。
更に、詩人は予め、読者達が常にまたその詩を読む彼ら自身の実際の状況の中に居る、という事を知っている。もし自分が現在の状況の中に居ることを我々が常に感じていなかったら、我々はあの野に立つ少女と同じであったであろう。
どんな比喩を用いても、我々は無数の差異を引き出すことが出来る。人が比喩を理解しなかったとき、これらの差異を我々は定式化できる。つまり、その比喩が何を意味しなかったかを特定できるのである。例えば、上記の比喩はその少女が地面に根付いていることは意味しなかった。もちろん少女は植物ではないし、雨を頼りにしていないし、花びらを持っているわけではない、等々。この場合も、例を挙げればきりが無い、つまり、単一の型-差異が有るのではない。しかし、型-差異が数多く有るのであれば、いったいそれらは型として機能するだろうか?例えば、我々は「時間-制約的」を共通性として受け止めた。確かにそれは時間的な一つの型として受け取られることができる。その際、我々が見出した差異の一つは、少女は大地に根差してはいない、ということであった。しかし、ここでその詩が、彼女は地面に根差したように立っているという事まで言っているとしたら、どうだろう。少女に関する一般的な言説としては、それは馬鹿げている。しかし、その詩の中ではそれは何か大事なことを表現している可能性は有る。ひょっとしてその少女が大地の子であったり、自分の生まれ育った国の文化に深く根差していたとしたらどうだろう。その詩の状況の中では、この文脈が語っているのは、少女が静かに、時間を越えて、大地に根が生えた様に立っていた、ということである。そしてその時、男が野原の中の彼女の歩みを、驚かせたのである。
また最初我々は「根無し」を空間的な型として理解した。つまり、人間の形は地中に伸びる細い繊維を持たない。型としてみれば、少女の人間としての形が根を持つというのは誤謬のままである。しかし状況と交差するのはそのような根の空間-型ではない。この比喩的機能は空間‐型によって行われるのではない。レイコフの理論を修正する私の第四の点は、後で見て感じる多くの共通性でさえも単なる型ではないということである。更なる言語‐使用において、それは型が行うのとは異なる機能を果たすのである。
体験的精妙さが交差するとき、その結果は新しい可能性、つまりそれぞれが単独で有る時に生じたであろう事と論理的に一貫しない可能性が有るのである。交差においては、それぞれはどちらもそれがかつて有ったようには機能しない。むしろ、各自は既にその相手によって交差的-影響を受けているかのように機能するのである。各自は相手によって、決定され、相手を決定する。もしそれらが論理的な型として機能するのであれば、互いを制限するにせよ、現実に生じるよりはるかに小さな重なりにしかならないだろう。けれども、交差において各自は相手を開き、新しい可能性を作る推進と化すのである。構成要素が交差すればするほど、ますます多くの新奇さがが可能になるのである。
さて再び、「根差す」がここで意味することの中に、我々は共通性らしき事を創り出すことが出来る:例えば、それが意味するのは、不動性、後ずさりしない、非選択的に人に向き合う、大地から確かさを引き寄せる、等々。我々はこれらをパターン、例えば空間において時間を超えて移動しない事、と見なすことが出来る。しかしそのような型は、それらの語の次の使用を支配するものではない。
従って次の差異も有る:つまり、この比喩は、彼女の一部が地下に有るという事を意味しない。彼女が大地から水を吸い上げるという事等も意味しない。しかし我々はまた今や次のことをも理解する:もしたとえその詩人がこうした表現をしたとしても、それはその表現を可能にするために機能するだろう型ではない、ということを。
型はどこで言われても、同じである。そしてその言われた事は正しいか間違っているかのどちらかである。我々が見るように、これらの型は語-使用を決定しない。何故なら次の使用がその型に合致しないことは有り得るから。もし、「少女は大地から水を吸う」という句が確かに両者に共通するように見えたとしても、それでもなお、それは同じ型ではないだろう。だから、この交差の後でさえ、この比喩においてさえ、一見そう見えるこれらの共通性は型ではない。例えば薔薇と少女に関して、それらは同じ事を言ってはいないのである。実際両者に関して同じ文を言うことが出来る。しかし、その文は実際に同じ事や同じ型を言ってはいない。それが述べた事は二箇所で同じではない。一方に関して言われた文と全く同じ文から他方に関して‐‐全く別様に‐‐言うことが出来るという事から、我々はこの事実を理解するのである。
そう出来ないときにのみ、この共通性を型とみなすことが出来る。〜とみなす様々な仕方に関するこの選択は主観の側が行うもう一つの機能である。つまり、同じ文が同じ型として機能する様にも、また更に別の語-使用として働く様にも出来るのは、この機能によるのである。このこと全体を我々は、まさにここで次のように理解できる。例えば次の様に言ってみる:「この論文に続けて、私は或る議論を導くleadだろう。」下線の箇所に、そしてこの状況下で、他にどんな語が使用できるだろうか?普通には、或る議論を―展開するconduct、司会するmoderate、進めるhope to stimulateだろう。あるいは更に、私は或る議論を求めるbeg for、切に望むimploreだろう。私はこの議論を料理cookしたい―それを皆の役に立つようにしたいmake it something good for all of us。接続詞でさえこの箇所に入れれば、何かを表現できるだろう:私はあなたの多くの観点に、しかしbutであるより、そしてandであることを約束する。いったん幾つかの語がこの箇所で機能した後なら、この箇所はそれだけでも何かを語りうる:私は私達の議論を.....しようとするだろう。この空所はそこに何も無くても何かを語りうるのだから、この空所は或る語がそこで語るだろう事に貢献している、ということを我々は理解できる。(脚注3)
従って次のように言えるだろう:どんな語も文のどの場所でも何かを語ることが出来る。しかし、そうするためには語は機能しなければ、意味を成さねばならない。意味を成すことが型より大事なのだ。
結論
これまで言語における多くの本質的な機能を挙げてきた。これらは主観の側で行われるものである。私の境界用語はこれらの機能を定義する、またこれらの機能によって定義されるものである。私が特に強調したのは、比喩と語-使用全てにおいて機能する三つの交差であった。それは語の使用‐群と、どのような人間の状況の意味においても特有の暗黙の諸状況と、これら二つの集合が語の実際の使用において交差する仕方とであった。
私が言いたいのは次の事である:比喩において、そしてあらゆる語-使用において、一つの使用-群と一つの状況とが交差する。また無数の一見するところの共通性は、その語が交差し、機能し、意味を成した事によってのみ―そしてその後でのみ―生じ得るのである。また私は次のように言いたい:これらの共通性と思われるものは単なる型と(様々な場所で同じであると)みなされるけれども、それは別の仕方で機能することが出来るし、しばしばそのように機能しているのである。
もちろん我々が言葉を使用する仕方は常に新しいわけではない。我々は同じ交差を繰り返し用いもする。それ故これらの共通性と思われるものを集めるのは価値有ることである。それらは我々の形式論理と機械に比喩と語-使用とを認知させることが出来るだろう。しかし我々には境界用語が必要である。形式論理の側の働きを拡張するため、そして形式の側で遂行されえない主観の機能を考えるために。
状況には、ただ表現されたり読み取られたりする様な一定の型はない。状況は語とともに再-構築されるというのが状況の性質なのだ。比喩と語-使用とは「曖昧な」状況だけでなく、いかなる状況をも更に構築する。意味の共通のストックのみを我々が使用するのであれば、言われたり、書かれたりしたものは既知の事しか我々に伝えることが出来ないだろう。それではつまらないだろう。
交差においては、事実は何かの再現、正確な写しでは有り得ない。むしろ交差することが出来る‐‐意味を成すことが出来るという事実が有るのである。我々は異なる経験と異なる文化を超えて互いを理解できる。それというのも、交差を通して、我々が互いの中に双方が以前それではなかったものを創り出すことが出来るからである。意志伝達と意味を成す事は予め存在していた共通性に依るのではない。それではまるで我々は既知の事しか理解できないことになってしまう。しかしそれは誤解でも歪みでもない。そうではなくて、我々が正確かつ厳密に理解されるとき、それが生じるのはそれが相手の中でどのように交差したかを我々が非常に熱心に聴こうとするときである。交差は相手の中に、彼らにとって、また我々にとって新しい何かを創造する。そのことが我々が相手の反応に耳を傾けたがる理由であろう。(脚注4)
脚注
1. この種のステップを識別するために、特徴ある言語形式が見出されている。テープに録音された心理療法の中で、それは事実報告や、知的分析や情緒的表現と区別することが出来る。こうしたステップは沈黙(アー....)を含む。その後で議論される問題は変化や新規さや、新しい細部を示す。(ジェンドリン、1986 a、b、1987)
2.もし人が「タバコは時限爆弾だ」と言ったなら、人々はその共通の特性を挙げることが出来るだろう。しかし、時限爆弾の比喩を聞くこと無く、最初からタバコの主たる特徴を挙げよと問われたら、彼等はその特性を挙げることは出来ないだろう。
3.例えば、ある理論から他の理論へ移行するとき、我々は次のように問うことが出来る:最初の理論が示した中のどれくらいが、二番目の理論を使う際になお我々にとって暗黙裡の前提になっているだろう?最初の理論は消えてしまったように思われる。しかし、普通それが示したまさに全てに関して、それは二番目の理論と交差する可能性がある。その後では、その理論はもはやそれが以前示した事だけを語りはしない。たとえもし我々が第一の理論ではなく、それのみを語ったとしても、それに意味を持たせる交差は、今やまた他の理論から我々が理解した事も含むのである。論理的には、我々は二つの理論、異なる二つの形式を融合することは出来ない。そうしてみても、何かを言明する力を双方から奪うだけだろう。しかし我々が自分に新しい句や概念を創り出すことを許すなら、我々はどんな接合点においても、もっと複雑な交差を言語化できるのである。
4.ギリガンはホフマンの説(一般的な説):「人が他者の感情を感じることが出来るのは、相手の感情が自分の感情と類似するその程度までである」に反論して次のように言う。「理論的レベルを考慮に入れれば、共-感情co-feelingは、倫理的にどんなに望ましくても、心理学的には不可能に思われる。」そして彼女は次の様な知見を多く引用する:つまり「共-感情には、人は自分の感情と異なる感情を体験することが出来る、という事が含まれる。」ここに我々はたいていの西洋の理論の根本的な誤謬‐‐あらゆる認知は予め‐存在する型あるいは単位からなるに違いない、という断定を見る。これに代わって我々は我々に関して全て新しいことを見出す。そこには確かに、二人の人が相互作用するときの交差が含まれるのである。
参考文献
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ジェンドリン,E.T.「パターンを超える思考:からだ、言語、状況」デン、オーデン、B モーエン、M 編集、『思考における感情の存在』ニューヨーク、ピーター ラング、1991所収
同「ナルシシズムの概念の哲学的批判」レヴィン、M. 編集『近代自我の病理:ポストモダニズム研究』所収、ニューヨーク、ニューヨーク州立大学出版、1987.
同「伝統的心理療法の後に来るもの」『アメリカの心理学者』41巻、2号、1986a 131‐136.
同『体に夢を解釈させよ』(夢とフォーカシング)、ウィルメット、シロン 1986b
同『フォーカシング』ニューヨーク、バンタムブック、1981
同『体験過程と意味の創造』ニューヨーク、マクミラン、1962、1970・
ギリガン、C. 、ウィギンス、G. 『幼児期関係における道徳の起源』
ジョンソン、M.『心の中のからだ』シカゴ大学出版、1987.
レイコフ、G.&ジョンソン、M. 『我々が生きる比喩』シカゴ、シカゴ大学出版、1980.
レイコフ、G.『女性、火、そして危険なもの』シカゴ、シカゴ大学出版、1987.
シュテルナー、W.H.、「コンピュータープログラミング、教科課程多元論と教養科目」『組織的多元論:学際的会議』ネブラスカ大学、リンカーン、1990春号.
[アフターポスト‐モダニズム会議、1997]