フォーカシング:東西を結ぶ道?
アストリッド・シリングス Astrid Schillings
Focusing Certifying Coordinator, Germany
共時性の大洋からいくつかの波が手繰り寄せられた。
氷山は暗黙の海を無限に漂流して。
今から14年以上前のことですが、これらの波を’Zen and Symbolizing, Zen and Focusing’と題する論文に載せてみたものの、どこかアブハチ取らずに終わった感がありました。仏教徒にとって、それはあまりにセラピーに依拠しすぎ、セラピストにとってはあまりに急進的でした。
日本の禅の世界から戻ったばかりの私は、自分の内深く、この「アブハチ取らず」を実践的な方法で解決したいという実存的必要性を感じていました。つまり、存在の織物に見つけた痛ましいながらも豊穣な「ほころび」を経験する時の、生に対する焼けるような問いを抑えつけてしまうことなく、自分の人生を整理しなおすこと、心理療法家として活動を再開することでした。西洋の哲学と宗教の道は私には閉ざされていました。私にはこの「ほころび」について哲学したり説教することは聴くに耐えませんでした。私が必要としていたものは、生かされ体験されるあり方でした。私はそれを、東洋では瞑想に、西洋では心理学者カール・ロジャーズと哲学者ユージン・ジェンドリンのパーソンセンタード・アプローチに見出しました。私は、「パーソンセンタード」という用語にこだわります。”Gesprachstherapie”(対話療法talking-therapy)”とは残念ながらこの言葉を表面的にドイツ語に置き換えた言い方です。要は、実存的過程として「人」を解き放つことです。
そうこうするうちに、瞑想、フォーカシング、スピリチュアリティ、そしてセラピーを合わせて論じることが受け入れられるようになり、ついにはそれが当たり前という時代になってきました。しかしそれでも、私にとって重要なことは、まだ現れない何か、既知のものの間に生き生きと脈動するありのままが存在する時の”in-between”、ジェンドリンの”….”です。本論ではこの”in-between”をテーマとしていろいろなレベルで考察します。フォーカシングとは、月を指し示す指でしょうか? 特定の伝統や文化を超えたところにある月を?
数ページでは論じ尽くせないことを承知の上で、これらのレベルを簡単な例をまじえて慎重に取り扱いたいと思います。どうぞ、とても凝縮した言葉使いになることをお許しください。
キリスト教文化で育った多くの人々は、瞑想する時、絵や象徴をキリスト教の伝統からとらえます。こうしたことは私にも起こりました。それは「神よ、彼らを許し給え、なぜならば、彼らは自分がしていることがわからないのだから」です。日本の禅の師はこのことについて私に語ることを望みませんでしたが、東京でお会いしたイエズス会士であり禅師であるFather Enomiya Lassalleは私に、旅行中考えてみるようにと、次の課題を示されました。「多くのキリスト教徒は、仏教徒を未成熟だとみなしている、人格ある(パーソナルな)神に未だ至らないからとして。多くの仏教徒はキリスト教徒についてこれと同じことを言うだろう、彼らが人格としての神に依然として執着しているとして。これはいったいどういうことでしょうね?」とLassalleは、独特の若々しい知恵で、私に問いかけました。彼が「プレゼンス」を意味していることに私は引き込まれました。絶対的存在。名前があろうとなかろうと、パーソナル、トランスパーソナル、トランスパーソナルをさらに超えたもの。そんな区別は問題ではありません。クリシュナムルティとの対話からですが、絶対的存在とは分割されず、細分化されません。
この絶対的存在という珠玉は後段で再び取り上げたいと思います。それは、フォーカシングが言っていること、言っていないことを検討する上で極めて大事なことですから。
仏陀自身は、悟りに達した後、無我(anatman)を衆生の特徴のひとつとして語りました。仏陀によれば、無(nothing)は不滅であり、完全にひとりでにかつ自ら、不動の何かとしてそれ自体存在します。仏陀は、これをヒンドゥーの最高位の自我とされるアートマン(atman)と対照させました。概念による干渉を避けるために、言葉(atman)の否定形(anatman)を使うことで、言い表せない真実―ユダヤ教-キリスト教の伝統では、”thou shalt make to thyself no image…”―を伝えたのです。
ここで、仏陀が「中道」を語っていることに注目しましょう。すなわち、実態的自我(形態)への信念も無我(空)への信念も正しい道ではありません。いずれかに執着することは無知とみなされます。「どちらも…ない」にこだわることさえ無知なのです。投影(概念)への固執は、真の現実に対する錯覚とみなされます。この「道」という古い言葉は今日の言語で言うところの「プロセス」です。固定した存在物としての、実体的自我でも、単に虚無主義的な無でもありません。今日的に言い換えると、”total interaction” における同時的出現と消滅を完全に解釈することです。あるいはジェンドリンの言葉では、初めも終わりもなく推進される順序、そこには、すべてのものが他のすべてものと絶えず交差しているということなのです。道元禅師(日本、1200-1253)の『正法眼蔵』によれば、ゆえに、絶え間ない展開の真髄を知ること、実践すること、覚ることは普通のことを超えて進むことである、と読み取れます。「完全な解釈」といっても、何もかもいっしょくたにすることではありません。それぞれが互いに包含されながら、同時に、本質的に自ら、別個になっていることを意味します。プロセスとしての「人」もこの例外ではありません。
本質において、それはdisidentification(脱同一化)の急進的な一形態です。この点についても、フォーカシングにおいていかに適用できるかを論じる際に、再度触れたいと思います。
ここで着目したいことは、フェルトセンスに訴え、意味であることに対してからだが感じることと共に進み、別の体系の言語に切り替えることにより、理論的には自己矛盾のない哲学体系間を翻訳できるという、ジェンドリン教授の発見です。私たちは、自分のフェルトミーニングをわかってもらうために他者の筋の通った体系の概念をすべて受け入れる必要はありません。ひとつの理論または哲学が盲目的に他の理論または哲学に翻訳される、ということでは断じてないのです。
生かされている道という形態での精神哲学である、東洋の諸哲学における我または無我の理解についても、同様のことが言えます。このように、覚知したヒンドゥー教徒が「私はそれである」と言う場合には、彼は全てであり、限りのないものです。そしてこれは彼にとって神です。悟りを開いた仏教徒が「私の我」と言う場合、彼女の「私」は死滅しており、彼女はまさにそれを意味しているのです。チベット仏教のカルー・リンポチェKalu Rinpoche師はこのように述べています、「もしあなたが“何ものでもない”ならば、あなたは“あらゆるもの”です。もしあなたが“あらゆるもの”ならば、あなたは“何ものでもない”のです。」
西洋のキリスト教神秘主義者は、神の空虚を語ります。ここでも同じく、参照体系、ロードマップは異なり、あまりに性急に等式で繋げようとすると混乱をきたしてしまいます、それでも究極的真実ということになると…unity(統一)でしょうか?真に啓蒙された人々はおそらく、仲間内で論争になることがそれほど多くないでしょう。論争とはむしろ、信仰を共にする組織の上層部の仕事でしょうし、こうした伝統は東西の差なく存在します。前者は啓示の「体験」を追求し、後者は定義を決定する権力を追求し、聖戦をも招き得るのです。換言すれば、象徴との一体化が「フェルト」ミーニングから離れてしまったのです。
西洋では、究極の地とそこに至る道を直接明らかにすることは奨励されることも、厳しく罰せられることもありません。というのも、体験過程、神聖なるものの本質を直接洞察することは、教会が唱える神および世界観に適合しないからです。
倫理的、文化的価値観を創出し擁護できる人々が、その一方で、いかに破壊や暴力、差別を正当化する立場をとり得るかという問いは、オーストリアに住むユダヤ系少年としてホロコーストを逃れた哲学者ジェンドリンをして、体験過程と思考、体験過程と象徴化とのリンクを探求せしめたのです。彼はロジャーズの心理療法に興味をもつようになりました。これこそ、その繋がりを研究できる場所であったからです。ジェンドリンの哲学書「Experiencing and the Creation of Meaning(体験過程と意味の創造)」は初めて、リサーチプロジェクトへと向けられました。
個人をひとりの「人」として尊重することは、西洋では必ずしも自明のことではなく、僅か300年ほどの短い歴史しかありません。人権を確立するための流血の闘いはこうした脆い土壌を起点とします。ダライラマは根気よくかかる権利を強調しています。心理療法と仏教をテーマとする会議において既に述べたように、人は、neurotic ego-trip(神経症的自我-漂泊)として簡単に片付けられるものではありません。人は、あるがままに、「在る」ことのプロセス状態として、貴重で、有情の、啓蒙や愛、創造性や苦悩のポテンシャルを授けられた生きとし生けるものとして、見られるべきなのです。
共同体と安全の共有化という伝統に根ざした西洋社会が世俗的にもスピリチュアルにも衰退していく中、私たちは次第に「個人」を本質的に価値あるものとして発見しつつあります。このような進展に伴い、私たちは、かかる伝統の別の顔―暴力、圧制、腐敗、そして権力の濫用―に眼をとめるようになりました。こちらの顔は、東洋にも西洋にも存在しますが、違いがひとつだけあります。東洋は、その封建制の、化石化したようにみえる伝統の中に、究極の地に直接近づく通路を開いたままにしていたことです。
たとえば、公案という、禅のパラドキシカルな言語や行動が暗黙を超えた暗黙を指し示す、極めて具体的な手段を提供することを知ると感動を覚えます(David Bohm)。暗黙を超えた暗黙とは、名づけうるものでなく、結局、慣習的な意味では、経験できるものでさえありません。こうして概念を絶えず「壊す」ことによって、私たちの体験過程―私たちの直接的洞察―は名づけられないものの方向に推進されるcarried forward(ジェンドリンの言葉を使えば)のです。もちろん、私たちはまず、通常の意味において壊されている言葉を理解しなければなりません。そのとき初めて、破壊のプロセスが意味を「より高次の」または「より深遠な」レベルへと揚棄(または止揚、ヘーゲルの用語 ’aufheben’)するからです。修行の目的は、弟子を体験過程へと押し込むことにより、(たとえば)言語のパラドキシカルな、非論理的な使い方をすることで、ロジックの限界を突破することです。論理的思考や自然の、全体論的期待に捕らわれた精神は、理想的には、その瞬間に、無条件の開放と覚醒状態へと解き放たれるのです。この状態は人を体験過程を超えたところに導きます。それは、動的な、光り輝く、空(くう)として描かれる、絶対的存在です。
ここで、典拠は不明ですが、禅の公案をひとつ紹介します。
“多が一に還元される時、一は何に還元されるか?”
チベット仏教では、これは「crazy wisdom(とんち)」と呼ばれます。ここでも同様に、パラドキシカルな、非論理的な、変な言語や行動が体験過程を究極の地への到達に向けて推進されます。仏教では、この究極の地や空は、純粋なポテンシャリティとして、顕示の前の満ちた状態とみなされます。生や死の概念の前に来る満ちた状態です。
では、多かれ少なかれ、私たちに人生の意味を問うように駆り立てるフェルトセンスはどこから来るのでしょうか?「私たちはどこから来たのだろう、私たちはどこへ行くのだろう?」その豊穣な「ほころび」はどこから来るのだろう、felt existenceの自明な質のほころび、そして思考のロジックのほころびはどこから来るのだろう?そして、このフェルトセンスが西洋の哲学を誕生させたことも事実です。辞書の定義では、哲学とは、愛智、本来の姿と存在の意味に関する知識の探求を意味します。ジェンドリンは、彼はスピリチュアルの領域または絶対の領域で教えているのではないこと、彼自身そこでは一人の「顧客」にすぎないことを強調します('Thinking at the Edge' セミナー、1998)。にもかかわらず、体験過程への彼のアプローチにおける言語と実践は、also…opens a door…(そしてまた…ドアを開くこと…)を暗示しています。
割り当てられているページ数に限りがありますから、ここで(少し時期尚早かもしれませんが)、今まで述べた糸を手繰り寄せてみたいと思います。
ジェンドリンは、あるセミナー(1992)中に、以下の通り、フォーカシングの短い定義を示しました。「私たちがからだの内側の、そこにあるものの、未だ私たちの内側では知られていない何かと共に過ごす時を、私はフォーカシングと呼びます。」それに続く変化のステップ、多くの新しい可能性の開放は、もはやフォーカシングの一部ではない、とジェンドリンは同じセミナーで述べています。しかし、変化のステップは、彼によれば、フォーカシングを通じて起こります。本質において、それは、友好的な注意を向けることfriendly attention、明らかではないものと共にいること、という一言に尽きます。非指示的なあり方で存在することにより、繰り広げられるものにスペースを与えることです。
古典的な6つのフォーカシング・ステップと各種マニュアルは、心理療法、創造性その他多くの領域で活用してみてわかるように、物事が行き詰っている時、プロセスが凍りついてしまった時にはエクストラヘルプとなります。瞑想の多くの方法も同様の目的を満たします。それらも、気づきawarenessが今あるものとただ共にいて、開かれていくのに任せることを手助けするものなのです。
瞑想もフォーカシングも、私たちを私たちの同一化によって課せられた限界に対して直面させ、ツールとして友だちのようにいっしょにいることfriendly presenceを使いながら、進んでいきます。私たちの気づきが直接の体験過程の流れに向けられる(「進行中の体験過程に焦点付ける ‘focusing on the ongoing experiencing’」)ならばと、ジェンドリンはフォーカシングについて語ります。意味は、コンセプトではなく、経験過程に存する、概念や象徴化は体験過程を推進するcarry forwardことを助ける。確かにここに、パーソンセンタード・アプローチの瞑想的/静観的質があります。鍵は、裁くことなく、今ここにあるものに付き添うことです。この意図のない、しかし友好的(フレンドリー)なプレゼンスは、スペース、変化のためのスペースを、それがフォーカシング・セッションであれ、瞑想中であれ、それ以外であっても、開け放つのです。
あなたは、あなたの苛立たしさ、憤怒状態より以上のものです、あなたの思考、あなたの問題より以上のものです。フォーカシングでは、あなたはこれらをもっている、あなたはこれらではない、という言い方をします。からだで感じられることを通じて、私たちは、これらの意味の場所へ近づくことができます。そこでは、それらとの内なる関係を創ることができます。これは、傾聴、それらと共にいること、それらに耳を傾け気づきを向けることを意味します。私たちのフォーカシングでは、それらを人格化させ、それらが語る、動く、絵を描く等々に任せます。繰り返す“怒りの痙攣”は、小さな、見捨てられた女の子のことをふと口にするかもしれません。ジェンドリンは言います。負のエネルギーというようなものはない、なぜならば、否定的なもの、ブロックされたものは常に、本来、暗示的に解決策をもっているのだから、と。私が無意識にその少女と一体化する限り、私は怒りの状態に陥り続けるでしょう。この一体化が意識的になると、私はそれと向かい合うことができます。これを仏教的に表現すると、邪悪それ自体は存在しない、ただ無知がある、ということになります。それが意味するところは、同一化を通じた妨害です。
ここで、これがトランスパーソナルなレベルでも適用するという点に留意すべきです。”トランスパーソナル“とは、”人(パーソン)を超えて行く“ことを意味します。私たちがあるひとつのグループ、国、または象徴と自分を同一視する場合、これは依然として一体化を脱していません。だからこそ、ナチのプロパガンダが権力を一点に集結させるためにかぎ十字、逆卍といったトランスパーソナルなシンボルを用いたのです。「小さな自己small self」は置き去りにされ、私たちはトランスパーソナルなものに奉仕することができるのです。征服する、殺害する、教化するのも、祈り瞑想するのも同一化されたエゴidentified egoです。大きな大儀と一体化することは強力なエネルギーを与えてくれるものですから、そうすることは誘惑的なことです。しかし、これは「借用した」エネルギーにすぎず、私たちが追求しているエネルギーではありません。私は、論証法に陥ることなく、私たちが歩いている狭い小路を明らかにしてみたいと思います。私たちは、フォーカシングにさえも自分を一体化させる可能性があるのです。
したがって、私たちに必要なものは、あらゆるレベルを通じて開かれていくパーソナルなプロセスです。開かれていくプロセスとして理解された「人」は、次第に意識の内容物と一体化する、堅固な自己と同一化することがなくなります。
ジェンドリンは、私たちが通常、状況を自分たちの外側にある、私たちの内側からは分離したものとして考えていると、指摘します。しかし、フェルトセンス、状況全体または問題全体の身体的感じは、“内側”にあるのです。この全体をその複雑性(緻密性)そのままに内側で感じ、その感じを意識化することで、それとの関係を形成しながら、私たちはそれを「私ではないnot me」として体験するのです。私はある状況を感じています。それは変化します。それは開放します。その時、私=その感じ、ではありません。と同時に、その状況は単に「向こうにout there」あるのではありません。それはプレゼンスであり、この体験過程と共にいることであり、それが私たちをまったく内容物のない自己に近づけてくれるのです。
私たちは、自分の問題を解決し、自分のトラウマに取り組んだり、ストレスを緩和するために、種々の瞑想法を使うと同様、フォーカシングを使うことができます。それもまた重要であり大切なことです。しかし、軸をシフトさせて、これらのツールを活用して、日々、「瞬間から瞬間へのこのプレゼンスは誰だろう?」という問いのフェルトエッジに取り組むこともできます。
私にはまだこのエクストラヘルプのいくつかが必要です。続く…
[著者紹介]
Astrid Schillings(アストリッド・シリングス)は、パーソンセンタード・サイコセラピーを実践する臨床心理学者/心理療法家であり、フォーカシング・インスティチュート(ニューヨーク)の認定コーディネーターとしてフォーカシングを教えている。さらに、多様な仏教の伝統に即した瞑想にも長年携わる。Graf Durckheimから許可を得て、瞑想(meditation in silence)を教える。Krishnamurtiを集中的に学び、現在、Toni Packerと共同研究を進めている。瞑想的探求を通じて日常生活でセンス(意味感覚)を見つけることをテーマに、セミナーを主催する。ケルンに”Space for Accompaniment on the Way”を開業。
住所:Brusseler Platz 6, 50672 Cologne, 0221/56 25 770
(訳:木田満里代)