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フォーカシング:からだは内側から語る

フォーカシング:からだは内側から語る


Gendlin, E.T. (2007, June). Focusing: The body speaks from the inside. [Transcript of talk given at the 18th Annual International Trauma Conference, Boston, MA]. New York: The Focusing Institute.. From http://www.focusing.org/gendlin/docs/gol_2235.html
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ジェンドリン, E. T. (2007年,6月).フォーカシング:からだは内側から語る.[第18回年次国際トラウマ会議,ボストン,MA において行われた講演の記録]..ニューヨーク:フォーカシング研究所..http://previous.focusing.org/gendlin/docs/gol_2235.html
から.

 

ユージン・T・ジェンドリン

 

 

第18回年次国際トラウマ会議 心的外傷:神経科学,愛着と治療的諸介入

2007年6月20~23日,ボストン,MA.

において行われた講演

 

 
音声部分からジル・ドラモンドによって書き起こされた.

 

ジェンドリン:こんにちは。

 

[聴衆が「こんにちは」と応答する。]

 

ジェンドリン:私はここにいて嬉しく思います。私はロブ・パーカーに感謝したいです。彼をすでに知っている人もいるでしょう。トラウマ・ワークと一緒にフォーカシングを利用する、我々の仲間の一人です。彼は私たちのうちこの3人が来るように手配したのですが、彼自身がここへ上がる準備はしませんでした。それでわたしは彼の名前を挙げ、彼にあらゆる仕事、とりわけ私を調整(コーディネート)していることに感謝する必要があるのです。

 

それから、私はあなた方にフォーカシングが、単独では、ひとつの「方法」ではないということを素早く話したいのです。フォーカシングは、我々のするあらゆることを深めます。我々がそれをしないというなら話は別ですが。だから、私は人々に、それだけでフォーカシングしないで下さいというのです。それを相互作用(インタラクション)とボディ・ワークとあらゆる他のことと一緒にして下さい。私は、ここでちょうど言われたこと、我々が一緒に得ることができるあらゆる資源を引き出す必要があることに同意しています。フォーカシングは内面から起こるので、それはあなたがしているあらゆることと調和するのです。それは、あなたがしているものなら何でも、深くするでしょう。それは、独自のものではありません。あなたがそれを習得するときに、ほんの少しの間はそれがかなり独自のもののように見えるかもしれないけれども―。しかしいったんあなたがそれを得たなら、それはもはや独立してはいないのです。

 

私はもう一度自己紹介したいと思います。何故なら私は実のところ哲学者であるからです。私の訓練は哲学でありました。私の学位は哲学の部門においてのもので、私は私の人生ずっと哲学をしてきました。たまたまその実践的な側面が知られるようになったのです。ですから、私はあなた方にこれを直ちに話さなくてはなりません。

 

[笑い]

 

ジェンドリン:哲学は、読みこなすのがかなり難しいですね。あなたは五、六回、一文ごとに、あなた方が解いているところのクロスワード・パズルのようにすべてを読まなければなりません。それで、私が印刷に出して出版したものの大部分は哲学ではありません。それは哲学から生じて離れています。それは単純、明快であろうと試みています。そして一方で、あー、私が公表した沢山のものをあなた方はすでに知っていますので、今日私はあなた方をその哲学部分へ初めて触れさせたいと思います。

 

哲学は、共に働くのです・・・概念でさえない(not even)ものと。それは何も(any)内容を持っていません。ほとんど何も無いのです。

 

[笑い]

 

ジェンドリン:哲学は、ほとんど概念ですが、概念でさえありません。思索好きな人は、概念に取り組みます。哲学はさまざま概念に働きかけるのです。これは大部分の人々にとって、奇妙な考えです。私が話す必要があると思うのは、私たちが展開しているところの特定の種類の概念、われわれの大部分が使うあらゆる概念から実に異なっているあるの概念のことなのです。

 

ある種の概念は、生きているものをまず研究することから生じるのです。それはされていないのです。われわれの概念がまねているのは数学です。そしてそれは、われわれの科学技術のすべてを作ることにおいて、とても強力でありました。私は確かにそれを非難したりこき下ろしたり、あるいはそのようなばかげたことはしません。私はマイクロフォンに話しかけている。私はコンピューターでものを書く。ここに照明がある。科学技術(テクノロジー)がなければ、私はここにいなかったでしょう。しかし生きているものにとって、科学技術はよいモデルではありません。なぜなら、それは分離した部品を作り、それらの部品を一緒にすることに関わるからです。生き物は分けられる部品から作られるのではありません。私はそれに戻りましょう。

 

私が主張したい二つの主要な点があります。最初のひとつは、あなたが何もないということがあると理解する場合に、生き物としてある種の概念を必要とするということです。われわれは通常それについて考えるところのあらゆるものが「あり」ます。(あとに)残るものは何もありません。それは常にありそしてまた将来[先]へ(暗に)含むのです。それはあり‐かつ‐(暗に)含む。それは決してただあるのではない。それはいつもあり、かつまだ起こっていない何かの含みを持っている。そしてそのまだ起こっていない何かは十分に組織化されていません。それはとてもとても、(フロイトの言ったことですが)“多重に決定されて(over-determined)”いるのです。それは、まったくあいまいなものではありません。それはとてもとてもすばらしく、組織化される前(pre-structured)なのです。そしてそれにもかかわらず、それは開いてもいます。それはまだ起こっていないのです。そして起こったことだけが、構造にとどめられるに過ぎないのです。


それで、私の主な論点はここにあるのです。何も「存在する」(no “is”)ことはない。それは常に存在し、且つ含んでいるのです。次に、環境から離れてからだはありません。からだはその環境において、環境から、自身を生み出すのです。「環境」と「からだ」の間に、ただ人間だけが、区別をつけるのです。そしてそれはとても重要な区別です。それは我々の科学や化学や神経学、そしてとても重要であり、とても有益な、そして物を作るあらゆることに役立つのです。しかし生きているものはものを組み立てたのではなく、部品‐から‐作られるのではありません。生き物は我々と我々が見るものや我々が働きかけるものとの間の分離によって作られるのではないのです。生きているものはいつもすでに、からだと環境の両方です。

 

それで、存在する(“is.”)ものはありません。いつも存在し‐かつ‐(~を)含んでいる。そしてからだもありません。常にからだ‐と‐環境です。それが含む次の出来事はひとつの・・・私の手を見てください。(ジーン[訳注:Gendlinの愛称]笑う)それでもう十分です。(ジーンと聴衆笑う。)それは前進しています。そしてそれはここに現れ出ています。

 

それで、われわれはからだについてわれわれが持っている概念を、用い、尊重するのみならずまた変えることもしなければなりません。空間と時間を埋めるのは構造ではありません。われわれはそれを、そんなふうに(that way)考える必要があります。それで、われわれはそれを分析することができますし、医学と化学と神経学とあらゆるとても重要なものを持ちえるのです。しかしからだは環境に、空間に、あなたがたが私がここに座っているのを見るようにただ「存在する」ある構造ではありません。からだは、私が現われ出てここであなたに話しかけているところです。そしてそこでは私はずっと現れているのです。そしてそれ以外に、私のからだが、それからちょうど今そうであるようにあることはないでしょう。もし私がからだ‐環境統一体(unity)でないならば、そしてもし私が先へ(将来へ、~を)含んでいないならば、言葉は望み通りに生まれでないでしょう。それで、私の言葉は生まれるのです。

 

 

ときどきあなた方はどこから言葉が生じるのかな、そしてそれらがどのように生じるのかなと思うはずです。(一般の)人々は十分に好奇心を持ちません。彼らは口を開くと言葉が出てくるのです。


[聴衆が笑う.]
 

ジェンドリン:どのようにしてでしょう?(How is that?)
 

[笑い声と拍手.]
 

ジェンドリン:そしてそのときそれらが出てこないなら我々は何をするでしょうか?ええ、我々は「すみません、私はそれを意味していません。少し待ってください。」と言います。そしてそのとき我々は何をするだろう?ええ、我々は待ち、望み、そしてそれからいくらかもっと言葉が出てきて、そして望みどおりにそれらはうまくいく。

 

OK、それでそれらは私の二つのポイントであります。「ある」ものはなく、そして「からだ」もありません。
 

[聴衆から笑い声.]

 

ジェンドリン:次に私が言いたいことは、我々が人間であるだけではないという理解があるべきだということです。我々は動物でもあり、そして動物であるだけではなく、我々は植物でもあるのです。我々は組織過程(the tissue-process)です。そして動物である能力を高めたのが組織過程なのです。組織過程なくして動物はありません。

 

しかし、動物について、とても神秘に包まれたものがあるのです。彼らはふるまう行動する]。100年にわたる動物行動学(エソロジー)のあらゆる研究がいま、行動の複雑さは彼らが生来の("built-in:生得の)と呼ぶものであることを明らかにしたのです。動物はもちろん学ぶのです。彼らは多くを学びます。しかし、彼らが学ぶことさえ、小さな子猫たちがねずみに襲い掛かる仕方を学ぶように、彼らは成人猫がいったんそれをやって見せたときにそれを学ぶのです。それで、学習でさえ生来の能力に基づいています。そしてもしあなたがある脳細胞を刺激するなら、あなたは大人猫などなしでとにかく飛び跳ねるでしょう。

 

金属かごの中で育てられたリスは、ある年齢になれば金属かごのなかで木の実を埋めるでしょう。もしあなたがリスに木の実を与えれば、リスは金属かごを引っかいて木の実をそこへ置くでしょう。動物行動の複雑さの全体は、備えられているbuilt-inのです。

しかし、“備えられた”とは何でしょうか。それは何を意味するのでしょうか。からだの生理学的理解は行動の複雑さがからだに組み込れていることを許しません。あなたはそれを、違う種類の概念で(ジーン笑う。)考えなくてはなりません。あなたは組織はただ構造や空間ではなく、組織は将来へ〔~を〕(暗に)含んでいるのだと思わなければならないのです。そしてそれからただ皮膚のうちにある組織ではなく、それらはそれ自身をそれから、皮膚さえ持つために作り出す環境にある組織なのであります。あなた方はからだ、我々のからだ、そこで坐っているあなた方のからだは動物行動の複雑性を持っている組織だと理解しなければならないのです。

 

あなたは人間たちがもはや本能を持たないということを読んで知るができますが、それはばかげています。「本能」はまさしくこの「備えられた(“built-in”)」というための言葉なのです。「本能」はまさしく「備えれられた」ようであります。誰かが「ええ、私はこの大きな動物の複雑性があるのだということを認めます。しかし、それがどれだけ‘からだからの’ものかわかりません。それらの動物たちは概念やら何やらを持っていません。それで、それらはあれをどのようにするのでしょうか?」と言います。ええ、「本能によって」と、我々はみな学校で学びました。そしてそのとき彼らは我々に、それが何か教えなかったのです。そうですね?

 

さて、からだ、組織はわれわれがそのなかで振舞うところの外部環境を持つ能力を育てます。そしてそのとき、人間たちがやってくるだけなのです。そしてわれわれはそれと完全に連続的なのです。ただ人間の科学だけが独立しているのです。だからわれわれは文化や歴史やあらゆるそれらのすばらしい物事を学ぶのです。まるでそれらが空から降りてきたかのように(came down from)。しかし明らかにそれらはわれわれを通して地上から芽を出し(came up from)、われわれが今いるところへ入るのです。それで人間のレベル(段階)の文化や様式、ものづくりや技術、そのすべてからだのプロセス(bodily process)として生まれるのです。

 

どこで科学者は新しい仮説を得るのでしょうか?彼らは決してあなたがたに教えません

 

[聴衆の笑い.]

 


ジェンドリン:時々、ある人がこう書くでしょう。「おー、私はある夢から二重らせんを発展させました。」またある人は、「私はそれをシャワーの中で手に入れました。」と言うでしょう。

 

[聴衆の笑い.]


ジェンドリン:さて、そしてそれらの三つの段階があるところに、あなた方は位置しています。 そしてそれらは馴染み深いものですが、ただ考え方は新しいのです。我々は新しい種類の概念を必要としています。私はそれらをこの40年以上かけて作り出し たのです。それは理解するのが容易ではありませんが、私はあなたにそれを眺めることをお勧めします。それはウェブ上にあり、あなた方はそれを見つけることができます。それはプロセス・モデル[*]と呼ばれています。そしてあなたはその最初の数ページを好むかもしれません。あなた方はそれらを読み上げるのに、しばらくの間かかるかもしれませんが。

 

[聴衆の笑い.]

 

ジェンドリン:さて、ここでわたしが本当に言いたいのは、植物や動物や文化を持った人間たちの上に、第4の段階(level)があるということです。感情ではありません・・・感情は常に文化の型の内側にあります。あなたが発狂するとき、あなたが失望するとき、すべてこれらのことは文化の物語の内側にあるのです。あなたは文化が起こるべきではないと教えるようなある仕方で取り扱われ[みなされ]ない限り、狂いません。あらゆることがいつもどおりに(runs routinely)進むなら、あなたは狂いません。別の文化で、あなたはそのように扱われてそうなる(狂う)でしょう。しかしその文化では、彼らは違った物語を持っているのです。

 

それで感情はいつもわれわれが学んだ物語の内側にあるのです。ご存知でしょう、文化的に、我々は物語から作られているのです。それが、我々がそれらを夜に夢に見る理由なのです。ご存知でしょう。物語は、ただ語られているのではありません。物語はとても深く文化的にかたどられています。人間は単なる細胞ではなく、それらは動物であるだけでもなく、彼らは文化的な物語でもあるのです。


しかし、いまもう一つの段階があります。残りの段階はフォーカシングが生まれるところなのです。残りの段階というのは、そのからだが、それ自身をさらに別の種類の対象へ与えることが可能であるものです。私は対象(objects)に言及するべきだったのですが、それは複雑すぎました。それぞれの段階で、違った対象があります。世界はものから作られるのではありません。世界は生きた相互作用によって作られます。そしてそれは内側に生きている物を含んでいるのです。それらはあなた方に世界はただ燃えるガスなのだと教えるが、それは単に数学によって観察した外側からのものなのである。内側からは、世界はその中に我々を含んでいるのです。宇宙はその中に我々を持っている。そして宇宙は少なくとも犬や馬やあなたと私と同じくらい多量です。それは我々を内包する。我々がここにいるからです。それらは我々に我々がここにいないということができません。あなた方はそれをもっとご存知でしょう。

 

[聴衆の笑い.]

 

 

ジェンドリン:我々はここにいるから、生き物のこれらの能力があるのです。そしてもうひとつあります。からだは自身を、違った空間にあり、違った時間にある客体に与えることができる。それは自身をある状況のある全体の状況の客体に与えることができるのです。しかしこれがおかしな、違った場所に起こるのです。それが起こるのはある違った空間です。人は普通拡散したあるいやなこと[不快]と一緒に始めるのです。まあ、私は怒っている。そして「あぁぁー、グルrrrr」お分かりでしょう。それであれと一緒に何かをするのは難しいのです。

 

しかし、ひとが「おぅ!」ということのできる場所があります。いったんあなたがその場所を覚えたなら、その対象もの]は変化します。それは、もはや身の上話の中にある感情ではないのです。 それは身の上話とか何が起こったかとか私がこのようである次第とかかつて起こった他のあらゆること、私の来歴(バックグラウンド)、私の動物性、私の組織のすべて、一緒に全部ひどいものなのです。そのすべてが一緒になってひとつの「オー!」 ひとつの「あれ」になるのです。そしてそのときは異なっている。そのときは何か変えられている。私はこのより大きな空間の中にいて、私はここでこの「あれ」を持っているのです。

 
そしてだから、私があなた方にもたらす二つのデモンストレーション(実地教授、実演)の中であなた方が見るように、ある人は言うでしょう…アフガニスタンの言葉で、ある人はこういうでしょう、「おー、私は不愉快です。私は怒っている。私は激しく憤っていると思う。私はまさに出て行って人を殺そうとしている。しかし、わたしは『客(ゲスト)』を持っていると思う。おー、私は『客(ゲスト)』を持っていると思う。そして銃を持って駆け出すかわりに、それを彼はすでに手にしていたのですが、彼はそれらを下において腰を下ろし、「私は‘客’を待たせていると思う。」と言うのです。彼は(あるいは彼女は)、(小さなフォーカシング訓練で)人が学んだある場所へと行きます。

「ある場所へ行く(Go to a place)」は「静かにして、そこへ座り、客がいるだろうところへ行く」を意味します。これは、まったく別の行動です。内面の行動です。客はすでにそこにいなく、ただこの散漫な「あぁ、あぁ、るr、rr」という憤懣がそこにあるのです。しかし、客はそこにいません。あるいは不安がそこにはあるが、「客(ゲスト)」はそこにない。いったい「客(ゲスト)」とは何だろう?ええ、「客(ゲスト)」とは「あれ」のことです。あなたは「お、ぉ、ぉー」といいます。この「あれ」が形を成すのに数秒か一分、二分かかるのです。それは「あれ」としてそこにないからです。

感情はすでにそこにあります。ご存知でしょう。あなたはそれらを感じ、「おお、私は憤慨している。イェー、その通りです。」と言います。しかしこれはわれわれがフェルトセンスと呼ぶものです。そしてそのフェルトセンスについてかなり沢山の量の文献があります。しかしあなた方はそれをあなた方が望むいかなるようにも呼ぶことができるのです。私はそれを「あれ」と呼びます。 何故ならそれが姿を現すとき、他とまったく別であるからです。それは違った空間の中にあります。そして時間はそこでもまた遅くなるのです。それは違った空間の中にあります。それは「おー、私はあれを持っている」です。人は積極的にそれを探し、積極的にそれを招いています。怒りを招くのではなく。それは違うことなのです。「客」を招くこと。「あれ」を招くこと。そしてそのときそれは生じるのです。人はまだ行動的にこの「あれ」に(系統だった)質問[つまり尋問,審問]をします。「あなた誰ですか?」それによって、人はずっとより大きな人であり、そして空間はもっとより大きな空間なのです。
 
そしてそれが、これらの人々がいま示そう(demonstrate)としているものなのです。どうもありがとう。
 
[拍手]
 

 

[音声部分の終わり]
[*]ジェンドリン,E.T.(1981年).プロセスモデル.未発表原稿(420頁).出版された改訂版(1997年)(288頁).ニューヨーク:フォーカシング研究所.この改版は、http://www.focusing.org/gendlin/docs/gol_2161.htmlにおいて,1998年から利用可能でもあります。2001年に作られたいくつかの印刷上の集積物(コレクション)を持ったひとつの版です。

©Eugene T. Gendlin

 

 

 

プロセスモデル
    プロセスモデルは現在ジェンドリンオンライン図書館では準備中です。古い版は、ここで読むことができます。:http://www.focusing.org/process.html


翻訳:氏原 将