治療における解釈
26章
体験的応答
ユージン・T・ジェンドリン博士 (翻訳:日笠摩子・田村隆一)
応答の規則
感じられる意味
個人的問題や生きる上での困難は決して、ただ単に認知的なものではない。単に何かをどう解釈しどう理解するかという問題だけではない。常にそこには情緒的感情的な、具体的に感じられる体験的な困難がある。個人の思考や解釈は、その人が状況の中で感情的にどう生きているかに由来するものであり、それに大きく影響を受ける。
それゆえ、援助する人の応答には、少なくともときどきは、感情的な体験的効果がなくてはならない*1 。それがなければ問題解決への効果はまったく期待できない。「最良の、セラピストの応答はどのような応答だろう」という問題は、「セラピストの応答が個人に具体的な体験的効果をもたらすためにはどうすればよいのだろう」という問題に言いかえられる。
クライエント中心的なセラピストの応答は従来「感情の反射」と呼ばれている。この発展の今までの経緯を考えると(Rogers, 1958, 1961, 1963, Gendlin, 1955-56, Gendlin and Zimring, 1955, Butler, 1958) 、このような応答は「体験的応答」と呼んだ方がよいだろう。
「感情の反射」は、感情や情緒や具体的な体験過程を強調していたが、「感情」という語は、非常に特定化された情動を指すために用いられることが多い。例えば、愛、憎しみ、怒り、恐怖などである。もちろん、人は、この種のかなりはっきり識別できる情動も感じるが、それよりもずっと多くの場合、人が感じるものはそれほどはっきりしたものではない。そうではなく、人が困っているのは、複雑でなんともはっきりしない状況なのである。ロジャーズ(1951)は、「態度の反射」(これがすぐ後に「感情の反射」と言われるようになる)を説明して、「そのためにもうどうしようもない感じになるんですね」という例をあげている。「どうしようもない」は本当のところ情動とは言えない。同様に、しばしば人は、例えば、「動揺」したり「居心地が悪いというか・・・のために嫌というか、あのこと心配」だったり「・・・したいけれど、それもだめかなという気になる」等と感じる。これらのより一般的な状態は、本当のところ「情動」ではなく、私たちが、状況の中でどう反応し、状況をどう理解するかという、複雑な反応の仕方や理解の仕方なのである。
これらの例から、私たちは3つの結論を導くことができる。第一に、体験的応答が指し示す対象は普通、鋭くはっきりした情動ではなく、より複雑な体験過程である。それを非常に強く感じていても、その正体ははっきりとしないこともある。
第二に、私たちの感じることは、内的な対象(私たちの内部だけにあるものとしての「感情状態」)ではなく、状況全体のフェルトセンスであり、それは、その状況の中の私たちのあり方、私たちが直面しているものの、何を私たちが引き起こし知覚し感じているかという全体である。
第三に、このフェルトセンスには、この状況に対する私たちの解釈や説明も含まれている。それゆえ、フェルトセンスは、単に 感じられるだけのものではなく、知的なものでもある。そこに何が含まれているかはまったくわからなくても、そこには常に、少なくとも暗黙には、解釈の側面が、思考や学習や知覚や説明が、含まれている。
つまり、私たちが他の人の「気持ち」に対して応答するという場合、その気持ちは、常にはっきりと定義される情動であるわけではなく、常に状況から切り離されたものではなく、暗黙の知的認識がまったく含まれないことはない。セラピストが「あなたが心配しているのは・・・」と応答することで指しているのは、個人の体験過程であり、そこには、一つの感じられた全体として、その人が知的に解釈した状況についての気持ちが含まれている。
もちろん、セラピストとして私たちの主要関心事は、その個人の具体的な現在の状況というよりも、その人が自分のまわりのすべての状況に持ち込む人格的困難の方だろう。これらの困難を、単にその人の内側にある小さなものとして概念化してはならない。これらの困難は、(他者とともにいたり、部屋で一人でいるときといった)状況の中で生きているときだけ、現実であり、気づくことが可能であり、感じられるものである。セラピストの側の体験的応答は、患者の具体的な気持ちに向けられており、その気持ちには常に暗黙に、状況的知的な側面が含まれている。つまり、その個人が状況を作りだし解釈するやり方、その人の不適応的な学習や過去の体験や状況を知覚したり想像するやり方が含まれている。
典型的には、人はある状況で「困る」前に、すでにその状況を起こし作りあげ解釈しているが、それは、自分の感情や学習や過去体験に基づいて、つまり、自分の人格的困難に基づいて行われている。つまり、具体的な状況が問題なのではなく、本当に問題なのはその人の人格的困難なのであると言ってもよいだろう。しかし、人格的困難を内的な実体として概念化しその実体に応答するに留まり、その人格的困難が実際にどのように露呈されるかやその人の体験過程でどう感じられるかを無視するのは間違いである。体験過程には常に含まれるのは、情動-実体ではなく、詳細な人-状況の複雑性であり、それは具体的に感じられるものなのである。
個人はそれを感じてはいても、それ全部の言語化には至っておらず、一般に認知される意味やパターンという形でそれを直接見ることはできないだろう。一つの全体を強く感じながらも、そのうちの非常に多くの側面がまだ、暗黙のものimplicitでしかないことは多い* 2。最初の規則は、私たちは感じられた意味felt meaningに応答する、である。(感じられた意味は、明らかにその人の自覚の中にあるが、感じられてはいても、概念的にはまったくはっきりしないかもしれない。)
感じられた意味の明示化Explicating the Felt Meaning
クライエントがこんなことを言う。「彼女は、私が見るように勧めたアパートだけは調べないんです。それ以外のくだらないところばかり見て回って。だからそこには絶対に住めないんです。」この三つの文は完全に明確である。クライエント中心的な感情の反射をするとしたら、セラピストはここに怒りを感じ取るだろう。(そのような感情の反射としては、「あなたは、彼女がわざと自分の求めに応じないことを怒っている。」というような形になるだろう。)
常に、問題についての体験過程はより複雑であり、現在の気持ちには暗黙にさらにもっと多くのものが含まれていると仮定した方がいい。確かにここには怒りがあるが、しかし単に怒りだけではない。怒り(あらゆる情動)は、内側にあるものではなく、私たちの相互作用的なあり方である。私たちは決して単に怒っているだけではなく、何かに対して怒っている。体験過程は相互作用的なプロセスである(Gendlin, 1964)。私たちが怒っている状況にも、私たちが怒りを向けている相手にも、それ以外の様々な具体的な側面が関わっている。「怒っている」は単なる短縮語であり、感情の広く粗雑な分類にすぎない。
先に挙げた例では、セラピストは感じられた意味に応答して、「怒っている」「激怒している」「腹が立つ」のようなことばを使う。しかし、もしセラピストが応答の際、実はもっと複雑なフェルトセンスを指すならば、大きな違いが生まれるだろう。クライエントの発言がいくら正確で明瞭であっても、私たちは常に、具体的なフェルトセンスを仮定し、それを指し示さなくてはならない。クライエントは体験的にそれを直接参照(指示)direct referenceでき、そこには常に、多くの暗黙の* 3側面や複雑な反応が含まれている。もしセラピストの応答が暗黙に複雑な体験過程を指すなら、クライエントは自分が今困っていることを感じやすくなり探索し続けやすくなる。彼はすぐに言う。「そして、中でも腹が立つのはそのことなんですよ。彼女が私を無視しているということなんです。今わかったんですが、自分の住みたいところに住めないのはそれほど問題じゃないんです。そうじゃなくて、私の求めを彼女が無視することに怒っているんです。」次のセラピストの応答が何であれ、彼はさらにもっと多くのことが暗黙にあることに気づくはずである。次の展開としては、愛されたいという望みという側面が出てくるかもしれないし、無視されるのではなくわかってもらいたいという希望が出てくるかもしれない。あるいは、新旧の傷ついた気持ちが出てくるかもしれない。そしてまた、これらの側面はどれも出てこず、代わりに、クライエントが早く諦めすぎ、自分の望みをどうしても強く主張できないという問題が登場するかもしれない。妻が彼が住みたいところを見に行ってくれないなら、そこには住めないだろう。彼は早く諦めすぎているのだろう。あるいは、自分の望みをきちんと主張していないのかもしれない。その理由として彼は、誰かに何かを強要することは愛や理解ではない、と考えているのかもしれない。
セラピストの体験的応答によって、クライエントの注意は、自分自身の感じられた意味に直接向けられる。セラピストは単にそれを助けるだけである。クライエントが自分の感じられた意味に「フォーカス」焦点づけするときにのみ、それは変化shiftし、そこからのみ、さらに新しい側面が出現する*4 のである。心理療法を受けようとする人の中には、この体験的「フォーカシング」を行う能力の高い人もいる(Gendlin, 1968)一方で、具体的に感じているフェルトセンスに繰り返し注意を向けるよう、セラピストの方がかなり努力を重ねなくてはならないような人もいる。ときには、ことば以外の何かを感じることなど思いもよらないというクライエントもいる。それでもやはりセラピストは、そのようなクライエントにも、問題の全体的複雑さについて直接感じられるフェルトセンスがあると想定しなくてはならないし、そこでの応答は、その感じられる意味に向けられなくてはならない。必要なら、セラピストはクライエントのために、クライエントがこれから明示化していくことで発見するかもしれない一般的な方向をいくつも想像できるだろう。しかしそれらは、クライエントが自分の感じられた意味に注意することで見いだすだろうものの例にすぎない。セラピストはそのような例を、クライエントの発言からできるだけ小さな一歩を進めるような形で試してみよう。このような応答すべての意図は、クライエントが自分の内に具体的に感じているものに注意を向けて、そこに実際にあるものを自分自身で見つけるよう誘うことである。一方で、もしクライエントがすでに自分の体験過程の感じられた意味に直接「フォーカシング」している場合には、セラピストは、クライエントが「フォーカシング」している感じられた意味に、正確に(時にはより明示化した形を使うこともあるだろうが)応答しながら、ついていかなくてはならない。
「フォーカシング」という語は、感じられたデータを「眺める」ことのように思われる。しかし実際にはフォーカシングは、フォーカサーとデータが一つであるプロセスであり、フォーカシングが進むと両方が変化する。感情に注意を向けるだけで、感じ方は以前とは変わっていく。何か「にフォーカスする」ことは、「さらに感じる」ことでもあり、そこから感じられたものが明示化されていく。
第二の規則:私たちは感じられた意味を明示化しようとし、そこから新しい側面が具体的に出現する。
敏感さ:体験的な進展のための方向づけdirectionsを試す
そのような感じられた意味が暗黙に複雑だということはよく知られているが、通常言われるのは、セラピストが「敏感」に「第三の耳を傾け」て、感じられた意味のすべての側面を聴くことが、クライエントがその側面に気づくための援助になるということだけである。しかし、セラピストは「敏感」になりなさいと言われても、それだけではどうやっていいのかわからない。
誰でも敏感になりたいと思っているが、自分が敏感でない場合どうしたらよいのだろう。敏感になるためには何をすればいいのだろう。敏感性は「ただ与えられた才能」であり、向上させることはできないものなのだろうか。そんなことはない。このような「敏感」な応答の仕方をここで提案したい。それは、実のところ理論に関わらず、体験的に行うものである。
まず第一に私たちが間違うことを認めよう。私たちはクライエントが何を言い出すか予測するが、その予測はしばしば間違っている。私たちはそのときどきに間違えることは数多いし、時には何ヶ月にもわたって間違えたままでいることもある。「透視」的な敏感さは実は存在しない。すばらしい力動的洞察的思考に何か秘密があるわけでもない。感じられた意味から導かれる可能性は一つではなくたくさんある。一つの可能性を非常に穏やかに試すと、そこから出てくるものからは、さらに多くの、新しいあるいはより詳細な理解が得られる。私たちはいろいろな考えに基づき多様な可能性や予測をいくつも試せばよい。このような考えは、実践をしていれば、自分の中に素早く思いつきのような形で浮かぶ。つまり、直感的であれ力動的なものであれ、唯一の確かな、透視的な類の敏感性などはとうていありえないのである。
クライエントの具体的なフェルトセンスは常に複雑であり、暗黙に非常に多くの側面を持っていると知っていれば、あれこれと試すことができるだろう。多くの場合何も起こらない。体験的な効果は見られない。たまには何かが起こる。クライエントが何かをより強烈に感じられたり、あるいは、感じていることをことばで表現できたり、より明確に語れるようになる。人は「知っていることをより明確に」感じる。
第三の規則:私たちは、体験的な進歩が起こるために、多様な方向づけを仮の提案として試す。つまり、セラピストは、クライエントの表現(明示化)を助けるために、多様な方向づけを仮の提案として試し、クライエントが自分でさらに体験過程を進められるようにする。「さらに」とは関連する新しい側面であることもあれば、より明確な感情である場合もある。
体験の流れtrackに留まる
セラピストは、もし多様な(しばしば間違った)方向づけを試すなら、自分の発言に対して(a)クライエントが何か重要なやり方で反応したときと、(b)クライエントに何も体験的な反応がなかったときに、どうすべきかを知っていなくてはならない。敏感さは実のところ正しいセラピストの応答を導く魔法の力ではない。そうではなく敏感さとは、セラピストの発言に対するクライエントの次の反応に注意深く気づくことなのである。
(a)セラピストの応答は、予想とまったく異なる反応をクライエントに引き起こすだろうが、セラピストは今度はそのクライエントの反応に応答していく。敏感さの秘密は、言うべきことを知っていることではなく、それに続く反応に応答できるよう自分を導くことなのである。セラピストは、これから言おうとすることがあまり的を得ていなかったり間違いだとわかっていても、言ってもかまわない。その後で、その結果クライエントの中に起こった体験的な反応に応答し、それについて尋ね理解しようとすればよいのである。
(b)一方、セラピストの反応がまったく見当違いだった場合、セラピストは、クライエントがクライエント自身の体験的流れに戻ることを助ける方法を知っていなくてはならない。重要なのは、セラピストが持ち出したからというだけでクライエントがその見当違いを検討し探求すべきだなどと思わないことである。例えば、クライエントが私に「そうですね、それはそうでしょうが・・・ねえ」と答えたら、私は自分の応答がよくなかったと気づく。何かが正しい「でしょう」「はずです」「に違いない」と言う場合、人はそれを推測している。つまり、そのとき人はそれを直接感じてはいない。「ねえ」もまた、私の発言からどこにも進まないことを示している。そこで私は答える。「それは正しいかもしれないけれど、今あなたが感じていることではないんですね。」そして、私の役に立たない応答にはこだわらず、彼にもう一度自分が感じていることに注意を向けてもらう。
セラピストの応答の目的は、正しくあることではない。セラピストの応答の目的は、クライエントの体験過程をさらに進めることである。最初の機会にそれが起こらなくても、二度目でそれが起これば十分である。
第四の規則は、私たちはクライエントの体験的な流れに従う、である。
体験的参照:私たちの応答は指し示す
直前に提示した非常に単純な記述には、第五の規則も含まれている。私たちの応答は、それ全体のフェルトセンスを指し示す。クライエントの今のフェルトセンスを指し示すのである。応答自体は間違ったりずれることもあるが、それよりも、その目標の方が重要である。治療的応答は常に、クライエントが語っていることについてクライエント自身が直接感じているフェルトセンスを標的とする。この目標が応答を「体験的応答」にする。この目標はまた、クライエントの体験的反応のみが、正しさを教えてくれる基本的な指標であることも含意している。私の応答が、いくら正しく賢げで正確でも、もし、この主要な目標からはずれていたら何の役にも立たない*5 。その主要目標とは、クライエントがぶつかっていることすべてについての直接感じられるフェルトセンスを指し示すことである。
私たちは常に、より複雑な「そのこと全部」の(たとえクライエントがかなり具体的な話をしていても)体験的フェルトセンスを想像できるし、私たちがより広い全体に応答しようとする姿も想像できる。そのような応答をするためには、クライエントの発言をかなり具体的に理解することが必要である。なぜなら、そのような具体的な 理解がなければ、人は問題全体のフェルトセンスにより深く入っていくことはない。それゆえ、私たちは正確に具体的に、クライエントの発言を彼の意図通りにとらえなくてはならない。クライエントがことばにできるすべての、とても具体的な側面を逐一取り入れながらも、私たちは、この具体性全体が語っているのは、彼が今説明している問題の、一具体例あるいは一側面でしかすぎず、クライエントは暗黙の複雑性全体を直接感じていると想像する。
「体験的に」応答することが可能なのは、人の発言は常に非常に限られたものだが、一つの 感じられる意味(「一つの具体的に感じられた「これ全体」)には、多くの暗黙の側面が含まれているからである。理論から推測される、力動的組織全体が、暗黙にここにある。限られた事柄を語りながら人が直接感じているフェルトセンスの中にある。感じられているがまだわからないことの中にある。それは不完全な、まだ兆しでしかないような形で感じられている。それを言語化することはそれと取り組むことである。クライエントの問題は、それができないことなのである。それゆえ、その全体を弁別し、ことばとして相互作用の中で明示化することに(時間をかけて)実際成功していくためには、今の彼ができる以上に体験過程が進まなくてはならない。
それゆえ、私たちの応答が、問題についてのクライエントのフェルトセンスを指し示す場合、そして、クライエントが明示化したことをさらにはっきりと言語化するようできるだけ正確に応答する場合、私たちが目指しているのは、クライエントがより多く感じ、より多くに気づくことができるようになることである。クライエントが今具体的に感じていることを明示的に指し示すよう応答することで、クライエントは感じられるようになり、そして、さらにより多くを明示化できるようになる。*6
第5の規則は、応答は指し示す、ということである。応答は、クライエントがその瞬間に体験しているそのフェルトセンスだけを正確に指し示さなくてはならない。私たちのねらいは、そのフェルトセンスだけである。クライエントができるだけ具体的にできるだけ明確に言おうと取り組んでいるそのフェルトセンスをねらって応答するのである。
さらなる進展
ある体験的応答がクライエントの体験過程を指し示し、クライエントの注意をそこに向けると、その人の感じられた体験過程はそれによってさらに進展する。それゆえ、セラピストの発言に対するクライエントの反応として、もっともよいものは、「いいえ、違うんです、そういうんじゃなくて、それはもっとなんていうか・・・」なのである。しばしば、私が「その様子」を推測して口にすることで、クライエントはより正確に、その本当の様子を言えるようになる。そして、それが私のねらいである。つまり、私の応答は、真実であることを目指す事実の表明ではなく、クライエントが感じていることを明確化し、さらに進展させることを助けるための表明である。
問題を抱えているとき、人は常に、ある部分で混乱し行き詰まっている。問題点をはっきりさせるためには、自分の反応と状況をさらに明確にとらえていかなくてはならない。今までよりさらに明確にとらえなくては「はっきりさせる」ことなどできない!つまり、その人がその瞬間に言うことのすべては、すでに自分の中に、言う前から完全な形で存在しているわけではない。私たちが治療的な応答によって行おうとしているのは、単なる事実の発見や説明ではない。そうではなく、私たちが求めるのは、より多くさらにmore and further 生きたり感じたりできるような明確化が起こることであり、それは人が行き詰まって苦しんでいるときにはできないことである。
第六の規則は、私たちは体験過程をさらに進展させようとする、である。明示化は、そのときまで不可能だった、さらなる体験過程をもたらす。
「さらなる進展」がセラピストを導くのであり、その逆ではない。
私たちが求めるのは、古い「より多くmore」ではなく、それまで行き詰まり不可能で混乱していたものを、解消したり明確化するような「より多く」だけである。どれがそのような「より多く」であることはどうやってわかるのだろうか。ここでまた登場するのが、クライエントの実際の体験的反応である。つまり、私たちの応答を導いてくれるのは、クライエントがそのときどきの反応であり、その反応は、私たちの発言が妥当であるかどうかを確かめるだけでなく、クライエントが動いていく道筋を開き、治療的方向を作っていくためのものでもある。* 7その治療的方向は、クライエントの実際に感じられている新しい体験過程の方向(とそこから新たにはっきりしてきた解釈や定義)によって示される。そして、それはクライエントがその状況で以前は不可能だったものである。
つまり、第7の規則。その個人だけが自分の流れを知っており、私たちは、その人の体験過程の流れに沿っていくだけである。しかし、クライエントの体験過程に導かれて応答するとは、どうすればよいのだろう。私たちが求めているものはまだここにはないものであると言いながら、同時にそれに導いてもらうとはどうすえばよいのだろう。これは矛盾ではないだろうか。一方で私は、クライエントの体験過程がセラピストを導くことができると言い、他方で私は、真の明確化は、常に部分的には、さらなる定義やさらなる体験過程であると言う。
何を定義するにしても、さらなる定義には何千もの多様なやり方がありうるだろう。その中の一つをどのように選べばよいのだろう。その答えは次の事実の中にある。さらに定義しさらに体験過程を進める方法として私たちが求めているのは、どんなものでもよいわけではない。それまで行き詰まり混乱し耐え難かったそのことの体験的解消がいくらかでも起こるようなやり方だけである。そのやり方を選べばよいのである。
リファレント(指示対象)の動き:「感じられた解放felt give」
では、人が問題と感じていたことに体験的解消や明確化が起こったことはどのように気づかれるのだろうか。ここでそれをより細かく見ていこう。その人の体験がさらに進んだことはどのようにわかるのだろうか。新しい体験であれば何でも「さらなる」体験過程なのだろうか。否、そうではない。「さらなる」で私たちが意味するのは常に、その人が行き詰まり、止まり、惑い、混乱し、抑制されていた点についてのみである。大丈夫で適切でどうにか耐えられるやり方では進めなくなっている点にのみ、「さらなる」という語を用いたい。
体験過程が「さらに」進展するときは、非常にはっきりした、間違えようのない、「解放」感がある。楽で生き生きした解放される感じがある。私はそれを「レファレント(指示参照対象)の動きreferent movement」と呼ぶ。感じられた直接のレファレントの動きが感じられるからである。それが起こるのは、何かが解決あるいは解消したときであり、また、気持ちが明らかになったり何か新しい側面が出現したときである。
その人は自分の話していることについて、何らかの困ってはいるがはっきりしないフェルトセンスを感じている。人が説明し、出来事を描写し、起源を理解し、どうなりたいかをひねりだし、真実で賢げなことをたくさん語っても、具体的なことは何も変わらないことはよくある。その人のフェルトセンスはそれだけたくさんの語りと努力の後も、前とまったく同じなのである。「リファレントの動き」はまったく起こっていない。そこには体験的効果がまったくみられない。
対照的に、ほんの少しでも感じられた「解放」あるいは「リファレントの動き」が起これば、そこには見まがいようのない明らかな違いがある。それは、単に、発言が真実かどうかを示すだけだと思われるかもしれないが、自分の体験的な、感じられた意味を探り続けると、すべてが少し違ってくる。新しい側面が生じるのである。以前は大事に思われたことの多くが突然見当はずれのものになる。ほんの少し感じられた「解放」がここで本当のステップになる。再び自分の話している問題全体のフェルトセンスを直接参照すると、感じられた指示対象はここで少し変化している。
この新しく生じた側面は、たいして解決の手がかりになりそうもないことだったり、期待していたよりもずっと悪いものかもしれない。彼は「なんてひどいんだ!もう私は本当にどうしていいかわからない」と言うかもしれない。しかし、もしそれが真に、彼の困難についての彼のフェルトセンスから生まれた側面ならば、それが彼の体験過程から真に生まれた側面ならば、そのとき彼は、明らかな「解放」、フェルトシフトを感じる。「リファレントの動き」と呼ぶ体験的な効果を感じる(Gendlin, 1964)。一瞬に感じられるリファレントの動きの後には普通、すべてが少し変わり、新しい言語化が生じることが多い。
私たちの第8の規則は、リファレントの動きだけが進歩である、である。(そのプロセスが進むべき方向は、クライエントが直接感じる体験的な「解放」あるいは「リファレントの動き」によって示される。)
概念の体験的な使用
理論的に私たちはこれまで、それまで人が気づかなかった何かに「気づいく」際には常に、その前あるいは同時に、さらに感じられる体験過程があると(Gendlin, 1962, 1964も参照)述べてきた。また、そこには、否定的な「行き詰まり」状況や問題自体の中には暗黙に、それ自身の肯定的な解決への方向が含まれているということも含意されている。その解決は、単に「見つかる」という類のものではなく、作り出さなくてはいけない場合もあるだろう。つまり、セラピストは、不適応的否定的な行動や感情の中にある、肯定的側面の芽生えに注意深くあらねばならない。感じられた体験過程は、からだの、生きていることの実感であり、動物として私たちが生きているのは、私たちの動物としてのからだが生命維持的な生物システムとして組織化されているからである。人間という動物は、高度に洗練された文化と個人的学習をも備えており、これらの洗練も私たちのからだを組織化している。(それがなければ、私たちはすぐに崩壊するだろう。)私たちはできることとできないことを洗練した学習によって知っているからこそ、ある状況が簡単に私たちにとって「不可能な状況」、つまり、生命維持的に感じられる解釈や行動が見いだせない状況、になってしまうのである。しかし、その問題の不可能性自体を形成しているのは、肯定的傾向や肯定的な生命維持的回避なのである。*8 個人に役に立つ新しい様式の解釈が発見されたとき、それがわかるのは、小さいながらもさらなる体験過程が起こるためであり、そこには常に解放感や「いい気分」が伴うからである。小さい、さらなる体験的ステップの後で新たに見えてきたことは、ひどい気分になるような内容であっても、さらなる体験過程が進んだことにはほっとする。
これらの「ステップ」や「さらなる体験過程」は、言うまでもなく、論理的に演繹できるものではない。私たちの理論的概念はこれほど具体的で複雑ではありえず、人が感じている諸側面に匹敵するような域にはとうてい達せない。論理や理論は、単に体験のある側面を一般的パターンとして再構成するだけである。ある体験的行き詰まりが解消された後にはいつも、起こったことを説明できる。数行の短文で説明することもできるし、あるいは長い小説に詳細に述べることもできるだろう。しかし、解消のプロセス中には、セラピー中には、私たちの理論的概念は、体験過程を指し示す道具でしかなく、それによって体験過程を参照し、さらにそれが進むのを助ける手段にすぎない。しかし、私たちの概念は無用だとか重要でないと言っているわけではない。私たちが概念を(どのような概念体系であれ)より正確に上手に使えば、クライエントの体験過程を、よりうまく指し示し、さらに進める援助ができるだろう。
第9の規則は、セラピーは概念の体験的な使用を必要とする、である。セラピー中私たちはことばや概念を、事実的で論理的なものとしてのみではなく、体験的なものとして使うべきである。つまり、感じられた体験過程を指し示すものとして用いるべきである。
おそらくもっとも重要なのは、概念の体験的使用には、論理的ステップではなく体験的ステップが関わっていることである。その本質的違いは、ある概念を体験的な意図で用いるとは、感じていることを指し示すために概念を用いることであり、そこから何か新しい側面が出現することである。この新しい側面が私たちの構成概念とはずれていても驚くことはない。私たちは構成概念を差し示すためにだけ用いたのだから。これらの新しい側面からは、異なる構成概念が生成され、その新しい構成概念は、以前の構成概念とはまったく適合しないかもしれない。時間がたっぷりあれば、この二つの概念を一つの理論に関係づけることもできるだろうが、普通セラピー中にはそれほど時間はない。確かにここには連続性はあるし、それを明示化することもできる。前の発言が間違っていたわけではない。少なくとも全面的に間違いだったわけではない。そのときの発言や思考がきっかけになって、今ここに到達したのだから。しかし、ここで新たに、私たちの理論的診断的対人関係的知識全体を使って、この新しい瞬間、これらの新しい側面をとらえてみよう。すると以前の意味合いとはかなり相対立するものが、次の思考や発言になっていく。体験的ステップが以前の概念とこの新しい概念の間にはある。概念と次の概念をつなぐのは、論理的つながりだけではない*9 。
セラピストの中には、概念の体験的使用がよくわからないという人もいる。概念の体験的使用とは何かを伝えるための簡単な方法は、テーブルを反転することだろう。あなたは、クライエントにどのような概念の使い方をしてもらいたいだろうか。クライエントが、概念的理論的にのみ語ることを望んでいるだろうか。一つのステップから次に進むとき、ただただ事実的論理的意味だけで進んでほしいだろうか。そうではないだろう。あなたは、クライエントが概念を、単なる概念的興味や論理的意味として用いてほしいとは望まないだろう。そうではなく、彼の情緒的相互作用的生活を指し示すものとして、その表現として使ってもらいたいのではないだろうか。言いたいのはそこである。それこそ、クライエントが自分の概念を使う際に、クライエントの援助者がすべきことである。
クライエントが政治や宗教や心理学理論を話しても気にならないのは、彼の話が、自分の問題となっている気持ちや反応を理解し乗り越えるための彼自身の取り組みについてのことであり、それにつながっていることがわかっている場合のみである。彼の話がそれを直接指示direct referenceしているならば、これらの抽象的な話題が彼の情動的意味を表現するための媒体であるならば、このような話は治療的である。しかし、もし彼がこれらの概念を文字通り受け取っており、彼自身の体験的な側面を指し示していない場合には、セラピーは行き詰まっており彼は「知性化」をしている。同じことはセラピストの概念の使い方についても言えよう。どの理論から出てきた概念であれ、もし、それらの概念を体験的に使えば、クライエントが体験的な「さらなる進展」を求めるのと同様な使い方をするならば、それらの概念は役に立つ。しかし、もちろんその際、それらの概念は、次に出てくる具体的な側面そのものに導かれなくてはならないし、修正されなくてはならない。
体験的深さ
体験的深さ
深さ(心理療法において何の役にも立たないと私は思う)の意味は一つには、一般化された理論的意味合いの「深さ」である。これを図の中で水平上のX軸の位置で示そう。私たち診断者は、クライエントが今感じている特定点から離れ、このクライエントの多くの他の特性やあり方を演繹することができる。もし、クライエントのあり方が今語っている通りなら、彼は他の点でも同じようなあり方をするだろう、というわけである。つまり、私たちは図の右や左に動いて、彼について様々な(おそらくかなり正しい)ことを推論して語ることができる。これは普通、クライエントが自分が今感じていることの中に深く入ろうとしているときには、邪魔になる* 10。
しかし、もう一つの次元があり、その次元の方が「深さ」という語で呼ぶにはよりふさわしい。それを図のY軸に位置づけよう。それは、クライエントが今いるところ、今感じている点の内側の深さである。この次元にそっていけば、彼(あるいは私たち)はさらにより多くを語りうる。しかし、いつも彼が今感じていることだけをより正確に(常により正確に)明示化していくのである(それによって今感じていることは変化していく)。
では、Y軸上の「深さ」を識別する指標は何だろうか。個人が現在感じている体験過程には何が関連しているのだろうか。この「中に」本当にあるものは何で、ないものは何なのだろうか。それはどのようにわかるのだろうか。その答えは、体験的ステップを通してのみ、である。体験的深さからは理論的演繹のように聞こえる側面が出てくるかもしれない。あるいは、自分ではとうてい作り出せないような側面が生まれるかもしれない。どちらにせよ、私たちは他の人の体験的に具体的なステップを歩むことはできない。幸運なことに私たちの応答が完璧で、相手の体験過程をさらに進める役に立ったとしても、意味があるのは応答それ自体ではなく、相手の具体的な動きなのである。
つまり、第10のルールは、「深さ」はその点の内側に向かうものであり、そこから離れることではない、である。ここで、これまで述べてきた体験的応答の原則を要約しよう。
1.私たちは感じられた意味に応答する。
2.私たちは感じられた意味を明示化しようとする。
3.私たちは、体験的進展が起こるよう、多様な仮の方向づけを試す。
4.私たちは、体験的流れに従おうとする。
5.応答は指し示す。
6.私たちは体験過程をさらに進めようとする。
7.その人だけが自分の流れを知っている。私たちは、その人の流れの感じにそっていく。
8.リファレントの動きだけが進歩である。
9.セラピーには、概念の体験的使用が必要である。
10.深さはその点の中に入っていくものであり、そこから離れるものではない。
体験的相互作用
非常にしばしばもっともよい応答(response)が生まれるのは、セラピストとしての私たちが自分自身そのときどのように感じどのように反応(reaction)しているかに注意を払っている場合である。これには多くの理由がある。第一に、セラピストの発言内容には限られた効果しかない。セラピストが個人としてしっかりと存在していることと相互作用的な応答の効果の方がより強力である。ちょっと想像してもらいたい。本物のセラピストは存在せず、単にその人のことばのみがクライエントの前の壁に映し出されてそれをクライエントが読んでいると想像してほしい。セラピーの効果は同じだろうか。いや、まったく違うはずである(しかしその場合でも、クライエントは、自分に反応してこれらの文章を作っている、まだ知らないが本当に存在する誰かに対して強い感情を持つだろうし、それは当然だろう)。そこに本物の他者が存在するという事実は、治療的応答の効果の一部として本質的なものである。クライエントの現在の体験過程は、常に具体的にその本物の他者とともにあり、その他者に向けられている。言語的にはクライエントは自己探索をしているだけのようでも、それだけではありえない。
ある程度まで、クライエントは、一人きりで自分自身に応答しながら自分について考えたり独り言を言うことで、自分の体験過程をさらに進めることができる。自分が感じていることをことばにするだけでも、自分の体験過程を明確にしさらに進めることはできる。独り言として声に出せば、この効果は最大になるだろう。声に出すことで、曖昧なまま心が落ち込んでいくことは避けられる。自分で書き留めることでもこの効果は大きくなる。テープレコーダーに話しかけて、それを再生することで、この効果はさらに強くなる。ほとんどの人は、自分の声が再生されるのを初めて聞いたときには驚き恥ずかしくなる。普通は聞こえない側面が聞こえてくるからである。テープに録音した声から、自分が話しているときには聞こえなかったことを「聞く」ことはいったいどうして可能なのだろうか。体験過程は基本的に相互作用的なものである。テープレコーダーから声を聞くことは、自分自身の中では通常フィードバックが得られないような側面が外的環境にどのような効果を与えているかを知覚することである。しかし、フィードバックなしには、相互作用プロセスは起こらず(反応と効果とそれへの反応という連鎖は起こらず)、それゆえ、暗黙の、苦しく抑制された状況になってしまい、真の体験過程は生じない。つまり、環境の効果が体験過程をさらに進めるのである。しかし、この点でさらにもっとも強力なのは本物の他者の存在である。単にテープレコーダーのように応答する人ではなく、その人自身がさらに新たな次元となり、そこからクライエントの当初の反応がさらに、環境との生きられた相互作用に進むような、本物の人の存在である。
セラピストの応答も上記に挙げたような環境的相互作用だが、それは、セラピストがクライエントに対して応答する場合だけである。セラピストとして私は通常、自分の個人的問題からくる、本来この場には無関係なフェルトセンスからの反応と、今ここでの相互作用に関わるフェルトセンスからの反応を区別できる。私の気持ちが私たちの今ここでのやりとりと関係ある場合には、私はそこから応答しなくてはならない。
私の反応は私たちの相互作用の一部である。それはクライエントに返さなくてはならないし、それによってクライエントが、相互作用の、今は私の側に起こっているその部分を次に進めることができる。もし私が反応を返さなかったら、私たちはそこで行き詰まってしまう。もちろん、私には自分の応答の仕方についての責任がある。つまり、私は応答の際、自分の反応をクライエントに正直に、反応を見える形で返さなくてはならないし、クライエントが私の中に起こしたことに対してさらに応答できるよう行動しなくてはならない。
つまり、私はセラピー中に単に「行動化act out」するのではない。少なくとも行動化するだけではなく、自分の中の気持ちをさらに進めることもする。私の気持ちがさらにありのままになるよう進めていく。というのは、私の気持ちも、最初出てくるものはしばしば端緒に過ぎないからである。私は自分の防衛的で隠そうとする反応は表明しない。あるいは、少なくとも(自分がすでに防衛的反応をしたことに気づいたら)さらに自己表明を続けて、自分の中に実際に起こっていることを見える形にする。
セラピストのうまさや賢さや強さや健康さ、あるいは、そのような見かけは、ほとんど意味はない。大事なのは、セラピストがもう一人の人間として応答することである。そして、どんなセラピストもいつも応答できるという点では自信は持てるだろう。しかしそのためには、セラピストは自分の実際の反応を外から見えるようにしなくてはならない。それによってクライエントの体験過程が進むのであり、その反応があるからクライエントは反応できるのである。このような反応を提供できるのは応答的な本物の人間だけである。単なる言葉上の賢さにはこれはできない。
セラピストは十分安定しており破壊されてはならない。しかし、その安定が真に伝わるのは、自分の反応を隠さず自分の反応にオープンである場合である。クライエントは、セラピストが隠していると感じると、はっきりと反応することができず、セラピストがクライエントの反応に耐えられるかどうかもわからなくなる。オープンであれば、セラピストは自分がどの程度までの煩わしさや怒りや傷つきや動揺に耐えられるかを、簡単に示すことができる。
しかし、セラピストやセラピストの反応が話題の主な焦点になってはならない。セラピストである私に、短時間焦点があたるのはかまわない。二人で、私の反応に意識を向けてそれを解消することも、私の反応が二人でともにさらに進めていくべきものならば、必要だろう。私は自分の「逆転移」を面接時間の外に置くべきだとは考えない。外に置けば、クライエントはそれを見ることもできず反応することもできない。私は、自分の中のものであっても、クライエントに関するものであれば、クライエントが使えるようにしておきたい。しかし、中心はクライエントである。必要があればいつでも私の反応を探索するが、それをするは私たちの目的に役に立つ場合にかぎる。この目的とは、私たちの相互作用を明確にしさらにそれを進めることであり、決して新たに複雑なものを持ち出して、相互作用を妨害することではない。
多くのセラピストは、体験的相互作用のこの側面に疑問を投げかけてきた。これではセラピストにとってのセラピーになるのではないかという疑問である。まれに短時間ならばこのようなことがあってもよいのではないだろうか。しかし、その目的は私の気持ちを提供することで、クライエントがそこから自由にさらに進めることができるようになる。私のところで行き詰まることはあまりないだろう。というのは、私の隠し立てしない態度がクライエントの体験過程をさらに進め、クライエントは、私が阻止しないかぎりさらに進んでいく可能性が高くなるだろう。
ほとんどのクライエントには、かなり長期間(何ヶ月も)セラピストが忍耐強く、クライエントが感じ知覚し意味することを正確に応答することが必要である。この期間中セラピストが自分の気持ちを用いるのは、クライエントの感じられた意味を想像し感じ取るという目的のためである。セラピストがより個人的な反応を表現することはほとんどないし、あったとしても非常にまれである。
ここで述べたことによって、セラピストが自分について頻繁に劇的に表現するようになってはならない。クライエントが、体験的フォーカシングというやさしくゆっくりと発展するプロセスを育てる手助けを必要としているときにまで、セラピストが自分を自己表明するようなことはあってはならない。
体験的流れにまったく乗れないクライエントには、セラピストの自己表明がかなり必要だろう(Gendlin, 1962)。それによって体験的な相互作用がまず生まれる。一方で、クライエントが自分の問題についてのフェルトセンスを識別しさらに進めていく体験的プロセスを追求しているときには、セラピストがこのプロセス割り込むことは最小限に留めるべきである。そのようなときには、セラピストはクライエントにやさしく正確に従い、すべての転回点や主要側面を理解していく。クライエントを流れからそらせたり、外からの別の思考の流れに導いたりはしない。
セラピストは、自分自身の反応、中でも不快な反応(「その場の」感じ、当惑したりいらいらしたりその他もろもろの困った感じ)には、特別注意をしていなくてはならない。多くの場合セラピストはそのような自分の中の反応を発見するやいなや、それを隠そうとしたり押さえつけたり、それに対処したり、そこから離れようとする行動をとるだろう。私たちがそのような反応を「コントロール」するのは自然だし、そのような反応は微妙なのでコントロールも非常に容易なことが多い。しかし、そこには、その場の相互作用で起こっていることについての重要な情報が含まれている。
このような反応が起こると、セラピストが、自分の力量が足りないとか自分が不適切だと感じるのは自然である。確かにこのような反応が起こる際にはしばしば、セラピストの中の非力な部分や不適応的な部分が関わっている。そのような側面がない人などいない。しかし、このようなとらえ方だけすると、心理療法の本質的側面を見逃してしまう。つまり、クライエントが困った人なら、クライエントの周囲の他の人にもやっかいを引き起こしているはずである。セラピストと親密に関わりながら、自分の問題を内側に抱えて外に出さないでいることなどありえないだろう。必然的にセラピストもセラピストなりに、相互作用に伴う困難やゆがみやひっかかりを体験するだろう。そして、そのようなことが起こるときこそ、それを越えて相互作用が進みうるのであり、クライエントにとっては治療的な機会になりうる。*11
つまり、困難や行き詰まりや当惑の気持ちや、ひっかけられ操作される感じや、嫌悪感等は、関係が治療的になりうる大切な契機なのである。しかし、セラピストが、自分の中のこのような感情を「コントロール」する(例えば、感情を抑えつける)以外の方法を知らなければ、このような機会を逃してしまう。もちろん、セラピストはこのような感情をコントロールできるだろう。普通、その感情はそれほど強くないからである。しかし、セラピストは自分の中の感情をコントロールするのではなく、逆にそれを感じ取ろうとするためには余分な努力をしなくてはならない。確かに、セラピストはそのような感情をコントロールしなくてはならない(そしてそれは簡単にできる)。その感情を黙殺してもならないが過度に動揺してもならない。しかし、セラピストは、この感情を、今ここで進行している困難さについての具体的な感覚として貴重なものとしてもとらえなくてはならない。それは、相互作用やクライエントの体験過程プロセスの今顕在化している行き詰まりを示す貴重で具体的な感覚なのである。
セラピストが(そしてクライエントも)そこに何が関わっていたのかをはっきりと理解できるのはずっと後のことである。困ったことの最中には、何が問題かははっきりとはわからないものである。以前に述べたように、はっきりとわかるようになるのは、人がそれを十分に体験するときだけであり、そのために人は、問題や困難を構成する行き詰まりを越えて体験していかなくてはならない。つまり、セラピストは、知っているという快適な場所にいつもいるわけにはいかないのである。セラピストは、混乱や苦しみにも、調子を狂わされる感じにも、窮地に追い込まれ逃れるよい方法も賢く有能な方法も見いだせないことにも、倦まず耐えなくてはならない。セラピストがオープンでわかりやすいやり方を開発して、クライエントとの相互作用をこの点をさらに越えて進めていけたとき初めて、セラピストは、クライエントの体験過程プロセスをさらに進めることができる。
セラピストが、クライエントの生活における他の人たちよりも、わかりやすく傷つかずオープンでいられないかぎり、クライエントがセラピストに引き起こした反応をクラエイントに見せないかぎり、クライエントは自分の体験過程を、いつもよりさらに進めることは、違ったやり方で進めることはできないだろう。クライエントの相互作用的行動の多くは、やっかいで自己破滅的で、他の人にも否定的な影響を与えがちである。つまり、クライエントはやっかいな状況に生きている。セラピスト自身がそのような状況に陥ったら(そして時にそうなるので)、セラピストは、自分の反応を普通の人の反応よりもよりオープンにしようとするしかない。
セラピストはこのような反応を「単なる自分の気持ち」として表現する必要はないだろう。もし自分の中のこの種の気持ちに気づいたら、自分自身に「なぜだろう」と問いかければよい。自分のフェルトセンスに注意を向けて進展が起こればすぐに理由はわかるだろう。それから、自分の気持ちの原因になった相互作用の側面に直接明確に応答すればよい。ここで難しいのは、不快感を感じていることに気づくことである。いったんそれに気づけば、その気持ちは自ずと明らかになる。
通常、問題はセラピストの大きな人格的欠陥にあるわけではないので、セラピストの方がクライエントよりも、自分の感じられた意味をとらえやすいはずである。つまり、セラピストはこの行き詰まりを越えて進めるだろう。もしセラピストが自分のその場の困った感情をこのように利用できないなら、セラピストは、自分の方がより強く適応しているという大きな利点を(このような点では) をクライエントの役に立てそびれていることになる。この利点とは、セラピストは問題についての自分のフェルトセンスをさらに進めていけるが、クライエントは今はまだそれができないということである。
しかし、人は普通このような気持ちに背を向け無視してしまいがちである。私は徐々に、当惑や行き詰まりやわけのわからなさや嘘が混じっている感じなど、自分が感じる気持ちに注意を向けるようになった。「それに注意を向ける」とは、単に自分が感じるままではなく、自分の感じを眺める対象にすることであり、そこからこの瞬間についての情報を取り出すという意味である。それゆえ、私はまず、それが思考と感情の中で進んだ後に、そこから応答する。
セラピストは自分自身の反応に注意を向け、自分で明確になってから、それを言語化する。私は自分でもまだはっきりしない反応は表現しない。(そうするのは、明確化しようとしてもはっきりとつかめないが、大事なことに違いないと感じられる場合のみである。そういう場合には混乱していても何かを言う。)何がどうしてこうなっているかがきちんとわかるわけではない。特にまったくわからないのは、クライエントが私の反応を引き起こしたのだとしても、いったいどのようにそうなったのかである。しかしほとんどの場合、自分自身の気持ちははっきりとらえられる。そうすれば、その気持ちを短いことばではっきりと簡潔に表現することもできる。私は普通、今どの出来事について話しているかも簡単に述べる。
このようにセラピストが自分自身に注意を向けることは、クライエントへの注意を損なうだろうか。まったくそのようなことはない。私の心には何百ものことが進行している。すべてを抑圧して自分の中で起こっていることにまったく気づかないようにするには、非常に大きな努力が必要なほどである。第一に注意を向けるべきは、クライエントでありクライエントの語りや行動であることは当然だが、その傍らで自分自身の反応に注意を向ける余地は十分ある。ここに関連がない反応は単にそのままやり過ごす。しかし、自分の反応が意味ありそうな場合には、それに注意を向けそれを進展させる。その結果、その反応を声に出そうと決めることもある。その決断の基準は、自分の反応がその相互作用に含まれるかどうかである。つまり、自分の反応がクライエントのために必要だと思うかどうかである。もしクライエントが自分の困難をよりはっきり理解するために私の反応を必要としているなら、私は自分の反応を何らかの形で応答することで、クライエントが、他の人に対するのとは違い、私に対して、より適切な体験ができるよう促す。
クライエントが私の中にかき立てるものは常に、部分的には私でもある。(他の人の中にはクライエントは別の反応をかき立てるだろう。)しかし、私の反応は部分的にはクライエントの作用でもあり、クライエントが状況や相互作用を始めるやり方である。それによって私のどんな部分があらわれても、クライエントはそれに自由に反応できるよう保証しなくてはならない。そうすることで、クライエントは、他の人との間では進められない体験過程を、私との間で進展させることができる。
クライエントの不適応的な行動は、ほとんどの人の中に拒絶を引き起こすだろう(同様にセラピストも不快になると言わせてほしい)が、人格問題が関わっているという事実が意味しているのは、肯定的で生命維持的傾向がこのようなパターンに歪められているということなのである。行動は困ったもので否定的である。しかしここで、この相互作用におけるセラピストの目的は、それにもかかわらず肯定的な傾向が出現するよう促すことである。クライエントは他者に触れようとするが、おそらく、他者に触れるどころか、拒絶を引き出すやり方でしか近づけない。(しかし、セラピーでは相手に触れることはできる。)クライエントは自己表現を求めているのに、それは「うそっぽく」響くかもしれない。(ここでセラピストの応答は、それでもクライエントが純粋に自分をうまく表現できたことにしようと試みる。)クライエントは自己主張をしようとしているのに、結果としての実際の行動は、単にひそかに憤っているだけかもしれない。(ここでも、クライエントの自己主張は自己主張として受け取られる。直接的な主張はそこから発展していくのである。)否定的な行動の中にも常に肯定的な傾向があり、私たちはそれを「読みとる」ことができる。このような読み取りはポリアンナ的作り事ではない。そうではなく、大事なことがそのときうまくいかないからこそ、それが問題となるのである。そうでなければ、不快や不安や緊張はないはずである。
クライエントの通常の行動や相互作用の中でうまくいかないものが何であれ、その何かはここで、セラピストのこの相互作用の中では、失敗すべきではない。それは、通常の自滅的パターンを越えてさらに進展しなければならない。他では普通失敗することも、ここでは成功しなくてはならない。しかし、これが適用されるのは、セラピストに影響を与えるクライエントの相互作用的行動のみである。普通セラピストは、良し悪しにかかわらず、クライエントが感じていることや困難を解釈できるよう援助するだろう。セラピストは、クライエントが感じ参照している、多くの、悪く、否定的な、うまくいかない、絶望的な、敵意のある、病的な側面を、表現し言語化するのを助けなくてはならない。肯定し、大丈夫だと保証し、体裁を繕うような態度は何の役にも立たない。悪いものもそのままに、そのとき感じられたままに、悪く表現されなくてはならない。
それは、セラピストがそれを自分で受け取り、クライエントのしたことに対する自分の困った感情や不快感を伴って応答することとは、かなり異なるものである。セラピストが自分の否定的な感情的反応を伝わる形で表現した結果が、単にクライエントが自分のしたことに、自分のひどいふるまいに気づくだけなら、それだけではまったく不十分である。クライエントはこれを自分の中でどう変えられるのだろうか。クライエントはわかっていても変えられないでいる。それは彼の相互作用様式なのである。それが変わりうるのは、今までとは異なる具体的相互作用プロセスがさらに進んでいくことによってだけである。もしこの新たな今までとは異なる相互作用プロセスが今ここで起こらなければ、いったいいつどこで起こるというのだろう。
つまり、セラピストがまっさきに応答しなくてはいけないのは肯定的な傾向である。それは否定的なパターンの中に隠れており、そこからさらに進展していくべきものである。しかし、この肯定的傾向は外からはわかりにくいだろう。セラピストはその肯定的傾向を想像して、それに応答しなくてはならないかもしれない。そして、その結果として実際には、自分が想像したものとはかなり異なる肯定的傾向が具体的に生まれてことばになるのを待たなくてはならないだろう。
例えば、私はクライエントから彼女の企画を助けてほしいと圧力をかけられた。しかし、正直私はその企画に参加したくなかった。彼女からの圧力が嫌だった。まず私がすべきことは、彼女の自助的な努力に応答して、彼女の計画の建設的要素を進展させることだろう。私がそのように応答すると、彼女は自分はそんなつもりではないと説明し始めるかもしれない。彼女が本当の意図は単に、誰かと対等になって、一度でいいから自己主張をしたい、いつも屈服させられるばかりなのは嫌だ、というだけかもしれない。それならそれでいい。肯定的動機についての私の想像は間違っていた。しかし、その肯定的動機のいくらかは具体的にここにある。私は言う。「確かなのは、私たちがこれだけ一緒にやってきたのだから、あなたとしては私にこれくらい助けてもらってもいいと思うようになったということですね。私たちは仲間になったということですね。」彼女はここでもまた自分にとって大事なのはそこではないと説明するかもしれない。そうではなく、彼女としては、私が単に話をするだけでなく、それ以上のことを彼女のためにしてくれる気があるかどうか知りたかったのである。ここには、私に本当に関わってほしいという要求があり、私はそれに応答したいと思う。私はそこでも間違っていて、実際そこは憤りや怒りがあり、けんかをふっかけているのかもしれない。それでもいい。私はそれにも応答できる。「そうか、あなたは私に腹を立てているんだ。私は何もしてこなかったかな。私としては、あなたをかなり大切に思ってきたんだけれどなあ。あなたとしては、私はいい加減にただ座って話しているだけだと思っているんだね。私の人生は楽なものだ、と。まあ、実際がんばらなくてはいけないのは自分だけだ、と。あなたとしては、私に本当の意味で関わってほしいんですね。」私がこのように話している間の彼女の反応から、この応答のどの側面が次に進むきっかけになるかわかるだろう。
努力は常に、まだかすかな兆しでしかない肯定的な相互作用傾向を完成させる方向に向けられる。そして、その傾向を成功に導くことで、その最初のあらわれである自滅的パターンのままにとどまらないよう努力する。この類の、常に肯定的に次に進む文脈では、セラピストは自分の実際の反応を声に出せるし、そうすべきである。その文脈では、セラピストは、(例えば)圧力をかけられ、無理矢理押しつけられたと感じ、嫌になり、クラエイントを押しのけたくなったと、言えるし言うべきである。セラピストは、他の人たちと同じ反応をするだけではいけない。それは今までクライエントの役に立っていないのだから。
まず最初にくるべきは、肯定的な相互作用プロセスだが、すでにそれが起こっている場合には、セラピストはすぐに(例えば)圧力をかけられたという気持ちを表現すればいい。その前に肯定的な応答を探す必要はない。しかし、そのときでもこのような自己表現の趣旨は「私はあなたに圧力をかけられていると感じて、あなたを押しのけたくなる。しかし、これは私があなたに対して普通感じる気持ちではない。だからこの気持ちを明確にして解消していくために何とかしましょう。これはあなたと私の普通のあり方ではないのだから」ということなのである。
これまで述べてきた詳細はなかなか記述が難しいために、心理療法のこの側面は、ほとんど理解されていない。セラピストの本当の反応によって患者に「直面化」するという議論はよく見受けられるが、もしそれを普通に述べられているようなやり方でするならば、それは患者の実生活のほとんどの人の反応と変わらない。患者の妻や友人は、患者のどういうところが悪いか、そしてそれによって自分がどういう気持ちになるか、を言い過ぎるほど言ってきている。患者はセラピストからの反応には耐えられる。それは、患者が一般的な意味でセラピストからの尊重を信頼しているからではなく、セラピストとの間では、この否定的なパターンが肯定的で生命維持的で体験的な形で完了する方向に進展している(あるいはそのうちすぐに進展していきそうだ)からである。それまでは暗黙であり、中断され問題となっていたものが、進展して完了するからである。
体験的な方法と理論
これまでの2節では体験的な応答の2つの側面を提示してきた。(1)セラピストがクライエントの意味に応答することによって、クライエントの体験過程をさらに進めていこうとする努力、(2)セラピストがクライエントの相互作用的な行動に率直に応答する努力である。第二の努力もまた、クライエントの体験過程をさらに進めるためのものである。ここで、心理療法のこれら二つの側面の間の関係を考えていこう。
第一に言えるのは、この両方向にクライエント中心療法は体験的になってきたということである。クライエントが表現した意味への比較的形式的な焦点化は、かねてから求められていたが、ここではセラピストは、感じられてはいるがまだ暗黙の体験過程に応答しようとする。表現された意味は、単に明示化した一側面に過ぎないと見なされる。(今まではっきりと述べられたことはないが、暗黙の体験過程こそ、クライエント中心のセラピストの標的なのである。)同様に、セラピストの相互作用的行動は、クライエントの感情だけを「反射する」という比較的形式的な役割に限られてきていた。セラピストは、自分個人として反応しようとはしなかった。時には、それによってクライエントが完全に憤激し絶望することもあったほどである。(しかし、このようなまったくの役割演技は、決してロジャーズの意図でも実践でもない。はっきりとは述べられていないが、セラピストに求められているのは、自分の実際の感情生活をクラエイントの気持ちを感じ取ることに捧げることである。)その背景にある意図にも関わらず、実際にはしばしば、クライエントの発言をそのまま機械的に繰り返し、率直な相互作用を不自然に拒否する結果になってしまっていた。
現在強調されるのは体験的応答である。私たちの応答の相手であるクライエントの中にあるものに対する体験的応答であり、そして、私たち自身の中で、相互作用の中で表現し示した部分に対する体験的応答である。体験過程の哲学(Gendlin, 1962a, 1964,1966b, 1968)が開発した思考と理論の方法によって私たちは、現在体験的に起こっていることを識別し言語化することができる。
様々な異なる志向の心理療法が、体験的に検討すると、同じように見えるのはなぜだろうか。それは、そのとき私たちが、心理療法の中で実際に起こっていること、うまく行っているときに具体的に起こっていることを、見ているからである。そのとき起こっている出来事は、心理療法の流派ごとに少々の違いはあっても、大きな目で見れば同じである。治療的な具体的プロセスの数は(かなり少数に)限られる。それを概念化する方法が無限に多様なだけなのである。つまり、異なる流派も、それぞれ*12 を体験的に説明し直せば、その間の類似性が見えてくる。
体験過程理論によって心理療法の具体的なプロセスは識別できる。その具体的なプロセスを、自分の理論におけるなにか曖昧な一語(例えば、「徹底操作」「自己実現」「感情の消化」など)でわかった気になるのではなく、私たちとクライエントに起こることを、さらにずっと具体的に、より多くの用語と段階を用いて、特徴づけることができるし、そうしなくてはならない。そうすることではじめて、心理療法プロセスをさらに言語化するための語彙が開発されるだろうし、心理療法の実践法をより効果的に伝えることもできるだろう。また、研究のための具体的に測定可能な諸変数(Gendlin, 1968)---その関連が追試可能で有意味な諸変数---を定義することもできるだろう。
私たちが本当に言いたいことの多くが、具体的には、流派の違いに関わらず同一であるとわかるという事実は、安易な相対主義で妥協することを意味しているわけではない。その中で、誰もが曖昧にそれぞれ違ったことを語りながら、皆同じことを意味していると自信を持っていればいいということではない。そうではなく、この事実が意味しているのは、異なる方法間の古くからの問題を乗り越え、新しい普遍的体験的な理論方法によって新しい契機が開かれるということなのである。それを私たちは待ち望んでいる。
引用
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*1 以下脚注では、精神分析と、クライエント中心あるいは体験過程心理療法の関係について注釈する。私の見るところ、効果的なときには(そしてそれぞれの流派の最良の臨床家が述べているとおりに行われたときには)、どちらの応答の仕方もきわめて似ている。しかし、最適なセラピストの応答をどう概念化するかは二つの流派でまったく異なり、そこから生じる典型的な誤解も流派によって異なる。つまり、二つの流派ごとに陥りやすい過ちが異なるのである。
体験的な効果は、よき精神分析的な解釈の目指すところでもある。フェニケル(Fenichel, 1945)は次のように言う。「ある解釈を与える際、分析家は、動的な力の相互作用に介入して、バランスを変えようとする。・・・この変化が実際に起こる程度が、解釈の妥当性の基準となる。妥当な解釈は、力動的な変化をもたらす。・・・」つまり、解釈は単に正しいばかりでなく、力動的な変化をもたらさなくてはならない。上記では、私は体験的な語彙を用い、これと同じ事象だろうことを「体験的効果」と呼んだ。この効果は、個人が具体的に感じることのできるものである。 back
*2 セラピストの中には、自分たちが取り組んでいる現実は力動的実体であると主張する人もいる。彼らは、人が体験する体験的複雑性を単に上位構造であると考えるかもしれない。しかし、私も含め反対に、力動性は現実の私たちなりに(しばしば優れた形で)一般化したものに過ぎず、本当に存在するのは詳細な体験的複雑性のみであると主張するセラピストもいる。
この問題は、実践に関しては、結論を出す必要はない。なぜなら、私たちがどの観点をとろうと、私たちが力動的知識を活用しながら、個人を理解し敏感に感じていくという事実は変わらないからであり、また、その人と私たちがその困難との作業を「やり抜くwork through(定訳では徹底操作する)」には具体的体験的やり方しかなく、そのようにしか人はその困難を感じ取り組めないからである。
おそらく、唯一の現実的違いは、精神分析では患者に一般化をまず教えることを重視し、患者はその一般化を手がかりにして対応する自分自身の具体的体験を探しやすいと考えている点である。対照的に、体験的セラピストたちはこれを「知性化」ととらえ、人が体験に焦点を当てるのを邪魔すると考えている。体験的セラピストにとっては、体験に焦点を当てることだけに価値があるのである。個人は、自分自身の概念的一般化を、自分の体験的プロセスから直接作り出すことができるし、その方が、より具体的で、それぞれの人によりふさわしい一般化なのである。 back
*3 私が「暗黙implicit」という語で表現していることを、精神分析家は「抑圧」とか「潜在意識」と概念化するだろうし、感じられた不安や複雑な不快感は、その抑圧されたものが表面に近づき今にも出現しそうになっていることを示すとも言うだろう。そのような「無意識」の事柄が「今にも出現しそう」になっているときにのみ、精神分析的解釈は効果を持つ。フェニケルは言う。「解釈は、無意識のものが意識化されようとしている瞬間に、それに名前を与えることで、その意識化を助けるものであり、解釈は、患者の直接的関心がその時注目しているところに、まさにその時に与えられる場合にのみ効果を持つ。」(op.cit.,p.25)
無意識についての精神分析理論は多くの点でクライエント中心理論と異なるが、効果的な解釈を差し向ける対象としての無意識は、まさに私が「暗黙の感じられた意味」と呼ぶものである。
つまり、クライエント中心の伝え返しと精神分析の解釈は、うまくいく場合には、かなり似た効果を持つ。しかし、うまくいかなかい場合には、かなり違う結果になる。下手な、精神分析の解釈は患者を知性化に導き、患者は自分の具体的な気がかりから離れてしまいがちになる。一方、下手な、クライエント中心の伝え返しは、クライエントが言ったことを単に繰り返すだけになる。 back
*4 精神分析の「自由連想」は実際上はこれに似ているが、常にそうであるとは言えない。精神分析の実践において自由連想には二つの使い方がある。自由連想の一つの使い方は、分析家が何か解釈できそうな素材を見つけるまで次々にクライエントが連想を口に出していく声にしていくことである。解釈の素材が見つかれば分析家は解釈をするが、しばしば何も効果はない。ここには患者にとって体験的なものはほとんどない。解釈は、もっぱら、分析家が考えた、推測的関連にすぎない。
自由連想の第二の使い方は、かなり上記に概観した体験的プロセスと対応したものであり、しかもフロイトのそもそもの意図により近い。このやり方では、患者は行き詰まるまで自由連想を続ける。そこで患者は行き詰まりをかなり具体的に感じるが、それを明示化することはできない。そこで、その現在感じられている行き詰まりについてのクライエントの具体的体験的な感覚に対して直接に、分析家が解釈を提示する。 back
*5 精神分析家の中には、ある解釈が面接時間内に何の結果ももたらさなかった場合、患者にそれを持ち帰らせ「宿題」として取り組んでもらうことを主張する人もいる。精神分析ではこのようなことは事実よく起こるが、それは、セラピストの援助があっても、患者がそれに取り組めきれなかったということではないだろうか。セラピストと一緒でもできないことをクライエントが本当に一人で、本当のやり方で、できるなどということがあるだろうか。 back
*6 上記のことを精神分析的に言えば次のようになるだろう。前意識にあるものに応答すると、さらに多くの材料が無意識から前意識に立ち上ってくる。しかしながら、「前意識」という語は、非常に直接的に、自覚され感じられているものを指すことばとしては妥当ではない。いくら、それが概念的には曖昧で、何かの兆しか抑制された反応でしかないようなものでも、前意識という語はまったく正確な表現とは言えない。これを「前意識」と称することは、そのプロセスがすでに本当に起こっているが隠されているという形でとらえることになる。しかし、実際にはそのプロセスはまだ十分起こっていないのである。 back
*7 人は(クライエントもセラピストも)知的には、クライエントの問題点やその理由を述べたり、病因や過去体験や他の人やクライエント自身との関わりについて語れることは多い。時にはそのような苦境で他の人がとるであろう解決策を具体的にあげることさえできる。しかし、もちろん、本当の解決を自分で見つけられるなら、人はこのような苦境の中に長く留まっているはずはない。つまり、そのようなの解決策はこのクライエントには役に立たないのである。その人の過去や、情動的相互作用の不器用さを考えると、彼には解決が思いつかないのだし、彼が今のような彼でしかあれず変われない理由も納得できる。そこで、純粋に知的なアプローチは行き止まりに至る。ではどうしたらよいのだろう。
クライエントの人格的問題を純粋に知的「明確化」することがうまくいかないのは、彼の気持ち、体験的なプロセス、が進展しないときである。単に事実を発見しても何も変わらない。医学では(自動車修理と同じく)、診断と治療は二つの分断された段階である。最初に何が悪いかを発見しなくてはならない。そして次に、何をすべきかが決まる。しかし人格変化には、このような二段階は適用できない。明確化のプロセス自体でクライエントが変わらないなら、自分の学んだことから彼の助けになるものを何も引き出すことはできない。私たちにできるのは、彼がこうになった由来と、なぜそうなったのか、なぜ変われないのかをより正確に説明することだけである。この行き詰まり点(全部わかったが何も変わらない)に達したときに私たちにできる最善は、私たち二人ともが知っている経緯をもう一度たどり直し、今度は彼の感情生活も含めるようにしながら、それをさらに進展させ、それによって何かが解決することを期待することだけである。それが精神分析家のいう「徹底操作working throughやり抜くこと」なのである。
体験的アプローチは、精神分析の用語で「徹底操作」と呼ばれることの体系的方法を提供するものと見なせよう。徹底操作が精神分析の文献で議論されるのはごくまれである。セラピストは、セラピーの全体的な方向性がわかっていると感じるかもしれないが、「徹底操作:やり抜くこと」の具体的なステップは、前もってセラピストにわかるものでもないし、知的にとらえられるものでもない。クライエントとセラピストのどちらも、体験的なステップが導くところに従うしかなく、それが起こったときにそれを実際に感じ取るのはクライエントである。両者ともに、これらのステップが起こり、その結果として得られる解決には驚かされることが多い。
セラピストは、クライエントがある特定の結果に至るのではないかと心配になることはあるにしても、体験的なステップが、少しの間、セラピストの望む方向とはかなり違う方向に行くことには耐えられるはずである。体験的なステップが進むところについていきさえすれば、結局はセラピストが予想していたゴールに至ることになるか(途中何度も方向を変えつつも)、あるいは、もし結果としての解決がセラピストにとっても驚きである場合には、セラピストは、自分の予想とは全然異なる解決方法というのが可能であるということを、納得せざるを得ないだろう。(Gendlin, 1967a)
クライエントの体験的ステップが導くところに従うことを拒否するセラピストは、クライエントが真の解決プロセスに取り組むことを阻止している。これは、他者としてのセラピストの存在と応答が、クライエントに影響を与えないと言っているわけではない。まったく逆である。人とともに明示化し表現することは一人で考えたり感じたりするプロセスとは非常に違うものであり、解決のためには人とともに行う作業が必要である。セラピストの態度と応答性は、基本的にクライエントの気づきやあり方に影響を与えるが、直接感じられる具体的なステップが体験的に出現したら、セラピストもクライエントもその体験的なステップに従わなくてはならない。 back
*8 これは精神分析的には、抑圧を維持するエネルギーは抑圧されているもの自体からもたらされると表現されよう。この記述の意味は、人が心理療法で求めている解放を今邪魔しているエネルギーが、実は解放したいと求めているエネルギー自体だということである。
ロジャーズ(Rogers, 1951)の中心的発見に、「抵抗」を除去するには、セラピストが、クライエントが感じている望みや見方(知覚)や自己防衛の要求に、対立するのではなく、しっかりと応答すればよい、という発見がある。すると、クライエントはステップを踏みながら進み、そこから「抑圧されたもの」(ロジャーズの用語では「否認され自覚されていないもの」が出現する。それは、最初に登場するときには非常に否定的あるいは自滅的であっても、そのうち肯定的あるいは生命維持的な特徴を持つようになる。しかし、このような変化が起こるためには、セラピストが、外的な評価という観点を捨て、クライエントが実際に感じている意図に応答することが必要である。
この基本的事実の精神分析版はまったく異なって聞こえる。精神分析版ではエネルギー源についての理論的記述しかないようである。一方ロジャーズの記述(個人への「信頼」、「成長原則」「自己実現」)は、この事実に、一見理想主義的で楽観的な色合いを加えている。体験的な記述は、これがすべての生物の基本的組織化の側面であると明確にとらえた上で、問題の全体的象徴化がさらなる体験過程の進展により可能になる仕組みについても述べる。このさらなる体験過程に向かう傾向が阻止されたものが、文化的に洗練されて葛藤にまでなるものの、さらに解決にまでは進めないでいる状態が、そもそもの問題を形成しているのである。 back
*9 概念の体験的使用は、ここでこれまで書いてきた精神分析に関する脚注の中でも、説明してきた。これまでの脚注で、クライエント中心的な説明は、精神分析的にも説明できると述べてきたが、そこで私は、この二つの説明は本当に同一であるとか、他の説明に還元できると言いたいわけではない。まったく逆に、それぞれ流派の用語とそこに含まれる理論的意味に非常に大きな違いがあることは私もよくわかっている。しかし、概念の体験的使用によって、この違いを棚上げにできる。これらのまったく異なる理論的概念を、それぞれの概念が持っている体験的参照の中で用いてみよう。そうすると、両者の体験的参照が同じであることが発見される。 back
*10 例えば、理論を脇に置いて、「力動的変化dynamic shift」とは具体的には何なのだろうか。これは、実践の中で起こることの何を指示しているのだろうか。それは、私が「リファレントの動き」というかなり違う語で具体的に指していることとほとんど同じである!
このようなやり方で概念を使うには、その理論的矛盾を進んで棚上げし、その体験的指示参照だけを用いなくてはならない。つまり、ある思考ステップから次に進む上で、それぞれの概念の体験的指示対象にいったん戻り、そこから出てくるもの(それを私たちがどのように分化していくか)を介して進むのである。単に理論的な意味合いを追っていくような形では進めない。これが、概念の体験的使用であり、体験過程理論では(Gendlin, 1962a, 1962b, 1966)これを思考の方法として展開している。 back
*11 この論文を通して、「やり抜くworking through(定訳では徹底操作)プロセス」を促すためにセラピストの応答はどうあるべきかを検討している。ほとんどのセラピストは、心理療法が知的なものではありえず、「生き直し」や「情動的な消化」や相互作用的「転移」プロセスが関わる必要があることには同意するだろう。そのプロセスで、患者は自分の感情について語るだけでなく、感情を再び感じ直し、セラピストに対してその感情を感じる。
しかし、これは真実だろうが、これでは変化のプロセスはまだ十分記述できていない。患者がセラピストに対して、自分の不適応的な感情や人間関係の始め方をただ反復するだけでは変化には至らない。結局のところ、患者はこれをセラピストに対してだけでなく、自分の生活で周囲の人、皆に対して繰り返し行っているのだから。つまり、単なる反復では、いくら具体的な生き直しをしても何も解消しない。方法はともあれ、セラピストに対しては、患者は単に反復だけするのではない。その反復を越えていく。患者が問題を体験的に解消するなら、患者は単に生き直すのではなく、さらに先に生きていくのである。
精神分析の文献は人格内容と葛藤については細かく述べるが、「やり抜く」プロセスがどのように起こるのかについてはほとんど述べない。同様に、精神分析文献は、「転移」の反復や生き直しについては詳しいが、転移を具体的にどう「扱い」どう「乗り越え」るかについては記述が乏しい。しかし、転移の乗り越えも当然、転移と同様に、具体的に生きられる相互作用である。それは転移の一部であり、転移の後半部分である。転移の中でも、単に体験を反復するのみではなく、何かを変えていく部分である。 back
*12 ここまでこの脚注では、精神分析を体験的に述べるようと試みたが、ここからわかるように、精神分析も、クライエント中心療法で行われてきたと同様に、体験化することができる。私たちは、多様な理論的概念を、その概念の正確さと概念間の違いをそのまま保持しつつ(そうすることで必要な場合には論理的理論的な展開を進めることもできる)、同時に、それが言及する、体験的に具体的な出来事を記述し識別することができる。このような体験的正確さから、十分具体的な用語が工夫され、さらに操作的に研究可能な変数が導かれる。そうすることで、理論的なレベルでの違いの決着は、より具体的で観察可能な報告と研究の両方に基づいて、つけられるだろう。 back